5-5 遥かシンハを離れて(2)
「ぱおん、だ」
ラウルが急いで外へと走っていく。
なんだよ「ぱおん」って。
「あのね、おばさま。ぱおんがたくさん走ってるよ」
おばさま、という言葉に天の女主人はわずかに眉間にしわを寄せた。だが、お咎めは無しだ。
「象も異変を察しておるのだろう」
しばらくすると、外からドォ……ッという音が聞こえた。
ジャスミンの甘い香りに混じって、硫黄の臭いが流れ込んでくる。
「また噴火?」
ラウルが、女主人の足にしがみつく。怖がっているのが、彼の手の震えからも分かる。
「シンハは火山の島であるからな。多少の噴火は致し方なかろう。多少はな……」
女主人が、噴煙の上がる空をじっと見つめている。
シャールーズには分かっていた。
天の女主人の神殿は、火山にほど近い。最近増えた噴火を恐れて、島民は参拝にもこないし、供え物も持ってこない。
それどころか神官や巫女さえも、最近は訪れない。
(このまま、この神殿は放置されちまうのかな。おばさんは、忘れられちまうのかな)
頭に浮かんだ嫌な考えを、シャールーズはふり払った。
そんなこと、あるはずがない。考えるな。考えるから怖いんだ。
「なんだよ、アイスブルー。甘えん坊だな」
「ち、違う。これは……」
「へーんだ。弱虫。そんな弱虫は、契約なんかできないぜ」
「できる! ぼくはちゃんとできる!」
「ふん。俺はこの間、噴火口に行って来たぜ。度胸試しにな」
噴火口という言葉に、ラウルが身震いした。
そりゃそうだろう。火山がいつ本格的に活動するか分かりゃしない。噴石や、溶岩流に襲われない保証なんてどこにもない。
「ま、お前にゃムリだな。だってガキだもん」
「シャールーズだって、ほとんど変わらない」
「けどよ、俺の方が兄貴分だ。噴火と噴火の間に山を登ったんだぜ。あんまり近づくと危ねぇけどな、火山から石が飛んでくるからそれを避けながらな。あれは、ちびっこにはできねぇな」
恐れに揺らめいていたラウルの瞳が、急にかっと見開かれた。
それまでしがみついていた女主人の足から手を離し、シャールーズに向かってくる。
ラウルは小さいくせに負けん気が強くて、ダイヤモンドという石に相応しく誇り高い。
だが幼いシャールーズに、そんなことが分かるはずもなかった。
「……だからそなたは、先日灰まみれで帰ってきたのだな」
「へへ。まぁな」
「そんな愚かなことをするな。精霊とはいえ、さすがに溶岩に飲まれたらひとたまりもない」
あれを黒歴史というのだろうか。
大人になった今思うと、自分でも性格が悪いと思う。シャールーズは頭を抱えた。
ちびっこラウルの姿が見えなくなったのは、それからしばらく後のことだった。
その日は朝から火山が静かだった。
「そなたらを欲しいと申し出てきた者がおる」
「へー、どこの誰だよ」
天の女主人の言葉に、シャールーズは目を丸くした。確かに話は聞いていたが、本当に自分たちが必要とされるとは思っていなかったからだ。
「遥か西にサラーマという国がある。その王家だ」
「王家って。王さまかよ」
「ふふ、姫かもしれぬぞ」
「姫ねぇ。びーびー泣くような弱虫に、仕えたくなんかねぇや」
悪態をつきながらも、花盛りのジャスミンが目についたのは、その白さと甘い香りが見たこともない姫を連想させたからだろうか。
ジャスミンの花の香りをもっと近くでかごうと、シャールーズは背伸びした。
だが、まだ背が低くて思うように届かない。
「ほら、特別だぞ」
女主人は苦笑すると、軽々とシャールーズを抱え上げてくれた。
「下ろせよ、おばさん」
「なぜだ? そなたはジャスミンの花が好きなのだろう?」
「別に好きじゃねぇよ。それに子どもみたいに抱っこすんな」
「まだまだ子どもではないか」
呆れたように言われて、シャールーズは頬を膨らませた。
「大人は気に入らぬからと、頬を膨らませたりせぬぞ」
「うっせぇな。今日だけ特別だぞ。今日だけ俺を抱っこさせてやる」
「はいはい、シンハライトさま。光栄に存じます」
楽しそうに女主人は笑った。
それがシャールーズには嬉しかった。神官たちがいなくなり、参拝者が来なくなってから、女主人は笑うことが減ったからだ。
いい子でいても、女主人は笑わない。ただにっこりと微笑むだけだ。
(おばさんは、やんちゃな方が好きなんだ)
おとなしくなんて、していないから。だからもっと笑ってくれ。そなた達といると、楽しいよと言ってくれ。
そのためなら、いくらでも騒ぐから。
きっとサファーリンとコーネルピンが人の姿を取れるようになったら、もっと神殿は賑やかになるから。
ドォ……ン。ドォッ!
激しい音に、空気が震える。神殿の椰子の葉が揺さぶられ、ジャスミンの蔓は強い風に千切れそうだ。
「ど、どうしたんだよ」
「噴火が起こったようだ。これまでとは規模が違う。この神殿も危ないやも知れぬ」
「逃げた方がいいのか? 俺、ラウルを呼んでくる」
シャールーズは、女主人の腕から飛び降りた。
その時、床に一枚の紙が落ちているのに気づいた。
――ぼくだって ふんかこうに いける。
つたない文字の走り書き。
それはラウルの字だった。