5-4 遥かシンハを離れて(1)
翌日は、雨が降った。
夜中。小屋の屋根を叩きつける音に、シャールーズは目を覚ました。
隣に敷いた毛皮の上ではカイが、眉間にしわを寄せて眠っている。
時折、うなされているのは夢見が悪いせいだろう。
たった一人残された辺境の守り人。こいつの仲間はどこへ行ってしまったのだろう。
暗闇に目が慣れると、窓ガラスを伝い流れる雨が見えた。
アフタルはこの雨の音で、目を覚ましてやしないだろうか。
(右腕が……なんか、落ちつかねぇんだよな)
王宮にいた頃なら、シャールーズの腕の中でアフタルが眠っていたから。安心しきって身を預けてくるアフタルが隣にいると、やましい気分を抱くのが申し訳なくなる。
(そっか、隙間があるから落ち着かねぇんだ)
理由が分かれば対処は簡単。シャールーズは毛布を丸めて、自分の右腕部分に置いた。
……なんか、違う。っていうか、これは絶対違う。
「なにやってんだ。俺は」
情けなさに、思わず声が出てしまった。
暗闇に目が慣れると、床に本が積み上げてあるのが分かった。背表紙に書かれているのは、カシア語なのか、まったく読めない文字。それと平易なサラーマ語の本もある。
「……かんたん、さらーまご、かいわ。これであなたも、しんりゃくしゃ」
なんという本でサラーマ語を学んでんだよ。恐ろしいぜ、カシアって国は。
雨はいっそう強くなった。遠くで雷鳴が聞こえる。
激しい雨は好きじゃない。重く垂れこめた黒い雲も、雷も全部だ。
こんな日は、もう戻ることの叶わぬ故郷を思いだす。
百年近く前のにおいが、今もまとわりついているようで……嫌になる。
「なぁ、おばさん。アフタルとの誓いは、ちゃんとあんたに届いているよな」
◇◇◇
シンハにいた頃、シャールーズは天の女主人の元で暮らしていた。
椰子の木やバニヤンツリーの緑に囲まれた神殿の奥に、シャールーズ達の邸があった。
壁のない柱だけの、風が通り抜ける広間。
ジャスミンが、甘い香りを漂わせている。
「おばさん、おばさん」
まだ幼かったシャールーズは、天の女主人の足にしがみついた。人の姿を与えられて、さほど時が経っていなかった頃だろう。
「誰がおばさんだ。無礼であろうが」
ぱこん! と頭を叩かれた。
精霊の命を吹きこまれたばかりで、人でいうならまだ六、七歳の子どもくらいの見た目だったろうに。
よくまぁ、愛らしい精霊をためらうことなく叩けるものだ。
あれが人々に崇められる女神というのが信じられない。
南の島シンハに住む人の肌は日に焼けている。けれど女主人は、まるで雪花石膏のような肌に、透けるような淡く長い髪を、ゆったりと結い上げていた。
「いてて。おばさん、象に果物をやってきてもいいか?」
「まぁ、よかろう」
「ついでに乗ってもいいか?」
「……鼻をブランコにするのでなければな」
先手を打たれて、シャールーズはそっぽを向いた。
シンハは小さな島だが、象がたくさんいる。どの象も天の女主人になついていた。
彼女が外に出れば、自然と象が集まり、まるでひざまずくように座るのだ。
なんで、こいつらなついてんの? と尋ねたことがあったが。確か、移住する際に連れて来たとか、牙を狙って殺されそうなところを救ったとか、聞いた気がする。
「シャールーズ。そなたは、荒っぽいからな。そんなことでは、主と契約を交わした時に苦労するぞ」
「べつに、俺は心配なんてしていらねぇし」
「いや。そなたではなく主が苦労するのだ」
「契約なんて、面倒くさいことしねぇよ」
誰かの下で働くとか、命令されるとか、まっぴらだ。
宝石精霊が人間より下って、誰が決めたんだ。
「俺が仕えたくなるような大人なんて、絶対いないしさ」
「おやまぁ、絶世の美少女かもしれぬぞ」
「女はすぐ泣くから嫌いだ」
「子どもだの。シャールーズは」
くっくっと天の女主人は笑った。
「シャールーズ。そういう口のきき方は、女主人に失礼です」
くそ生意気なアイスブルーがやって来た。見た目年齢が五歳くらいなのに大人ぶっているから、生意気さも倍増だ。
シャールーズより少し後に生まれた蒼氷のダイヤモンド。身長は、シャールーズより少し低くて、ひょろっとしている。
「なんだよ、アイスブルー。いい子ちゃんかよ」
「礼儀をわきまえろと言ってるんです」
「知らね」
シャールーズは、ラウルに舌を出すと、女主人にとびついた。
「うわっ」と声を上げた女主人が、世にも恐ろしい形相でシャールーズを見下ろしている。
「おばさん、あんまり怒ると老けてみえるぜ。せっかくの美人なのによ」
「それはどうも。だが、そなたも自分の石に見合うくらい落ち着いた性格になってみては、どうだ?」
「やだよ、あんな地味な石。俺、アイスブルーの石の方がいい」
「無理を言うものではない」
「だってよー。目立たないし、つまんねぇよ」
やれやれ、と女主人はしゃがみこんでシャールーズの頭を撫でた。
「地味ではなく、渋いと言うのだ。覚えておきなさい」
「分かんね」
「まぁ、子どもには難しいか。だがいずれ、そなたの石を何よりも美しいと言ってくれる人が現れる。そうだな、シンハでは無理だろうが。そなたらを待つ人が、西にいる。いずれはそこへ向かうがいい」
「こいつと一緒に行くのかよ」
シャールーズは、まだ細くて小さな指でラウルを指さした。
ぼくを指さすな、とラウルが怒るから、余計にやめられない。そういうもんだ。
「そなた達二人と、この子らだ」
女主人が開いたてのひらに、宝石が二つ載せられていた。
「まったく。先ほどはシャールーズのせいで、落としそうになったではないか」
「別に落ちたって平気だろ? そんなにやわな石なのかよ」
「そういう問題ではない。この子らは、鳥で言えばまだ卵なのだ。孵化する前のな。丁寧に扱ってやらねばならぬ」
諭すように告げると、女主人は一つをシャールーズの手に、もう一つをラウルの手に渡した。
「この子達と、島を出るんですか?」
「うむ、そうだ。サファーリンとコーネルピン。私が命を吹きこむ最後の宝石だ」
「なんで最後なんだよ。おばさん、仕事やめちゃうのか?」
「……仕事」
シャールーズの問いかけに、女主人は少しひるんだ。
子どもに説明は難しいとでもいう風に、指で額を押さえて目を閉じている。
その時、外から象の鳴き声が聞こえてきた。