表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
宝石精霊の溺愛  作者: 絹乃
5 三王国の湖
20/62

5-1 あなたがいません

 バシャン!

 派手な水音と水しぶきが上がる。湖畔にいた狐が、慌てて草むらに逃げていった。


(い、息ができません)


 水中で、アフタルのスカートがまるで花びらのように揺らいでいる。

 ドレスに絡みつく水が重くて、思うように動けない。

 苦しくて口を開くと、そこから空気の泡が逃げていく。


(シャールーズ!)


 背に矢が刺さったままのシャールーズが、沈んでいく。

 水に溶けるように流れているのは、赤い血だ。

 シャールーズの血だと、すぐに察した。

 そういえば水面に叩き付けられる痛みはなかった。きっとシャールーズが、衝撃から守ってくれたのだろう。


 アフタルは手を伸ばした。

 シャールーズの意識はある。弱々しいが、かろうじて手を動かそうとする。


(ダメです。このままでは溺れてしまいます)


 指先がわずかにシャールーズの服の裾に触れるが、掴むことが出来ない。


(シャールーズ! 待ってください)


 息が苦しい。

 アフタルは意識が朦朧とした。

 刹那、大きな影が目の前をよぎった。

 湖に棲む大魚かと思った。だが確認することもできずに、アフタルは意識を失った。


「姫さま、アフタルさま」


 軽く頬を叩かれる。

 瞼を開くと、目の前に心配そうな蒼い瞳があった。

 アフタルの顔を覗きこんでいたラウルが、ほっと息をついた。


「ここは?」

「三王国の湖です。蒼穹の聖道から逸れてしまい、私達は湖に落ちてしまったようです」


 たしかにラウルもびしょ濡れだ。服は細い体にはりつき、銀の髪からは水が滴っている。


「ご無事でよかったです」

「シャールーズは?」


 アフタルは、勢いよく上体を起こした。

 確か水中で彼を見た。


「ねぇ、シャールーズはどこなんですか」


 ラウルは答えてくれない。


「わたくしを助けてくれたのは、あなたですよね。ならば、湖の中で彼を見たはずです」


 アフタルは両手でラウルの腕を掴んだ。

 だがラウルは瞼を伏せるばかりだ。その睫毛が、小刻みに震えている。


「私がお守りするのは、第一にティルダード殿下。次がアフタルさまです」

「でもシャールーズは矢を受けていたんです。傷を負っているんです」

「ええ。それでも彼は、アフタルさまのお怪我を最小限にとどめようと奮闘しました。着水の際はアフタルさまをかばい、姫さまのお体を岸に向かうようにと私の方へ押したのです」


「い、今からわたくしが湖に潜ります」


 立ち上がろうとしたアフタルは、よろけて地面にへたりこんだ。


「およしください。彼が姫さまを助けようとした意味を無になさるのですか」

「でも、シャールーズが」


 木の幹にしがみついて、なんとか立ち上がる。

 けれど濡れたドレスが重いせいで、まともに歩けない。吹く風に、アフタルは身を震わせた。体が芯から冷えている。


「申し訳ありません。私も浅瀬とはいえ湖に落ちたものですから。乾いた服がないのです」


 少々お待ちを、と告げると、ラウルは地面に落ちた小枝を集めた。

 指を揃えて、てのひらを上に向ける。

 ぽうっ、と小さな炎がともった。その火を、するりとすべらせて落とす。

 すぐに焚き火が燃えだした。


「これで服と体を乾かしましょう。煙を見て、ヤフダ達が来てくれると思いますし」

「ラウル。金属製の桶のようなものがないでしょうか。それを逆さにして空気を入れれば、深くまで潜ることが出来ます」

「湖畔にそのようなものはなさそうですね」

「では、葦はどうでしょう。葦の茎は、たしか中空のはずです。先端を水面に出して、反対側を口にくわえれば、水中でも息ができます」


 アフタルは周囲に視線を巡らせた。だが葦のような丈の高い植物は見当たらない。


「よい考えだと思います」

「それなら……」

「ですが、ここには実行する者がおりません。私は姫さまのお側を離れるわけには参りません。もし姫さまに何かあれば、殿下がお悲しみになります」

「今はティルダードは関係ないです」

「いいえ。私にとっては、殿下のお心の安寧が一番です」


 アフタルはため息をつくと立ち上がった。

 ようやく二本の足で自分自身を支えることができる。そして震える手でドレスのボタンを外しはじめる。


「アフタルさま?」

「今のわたくしにとって、身を包むドレスは邪魔でしかありません。裸ならば、身軽に潜ることができるでしょう」


 日常着のドレスとはいえ、やはり水を含めば重く、動きが封じられる。

 肩をはだけ、体に張りつく濡れたドレスを地面に落とす。

 下着姿になったとき、背後からラウルに抱きしめられた。

 アフタルの肌が露出した肩に、彼の服が掛けられている。


「おやめください……どうか」

「やめません。だって彼を救いに行ってくれる人はいないんですもの」


 こうしている間にも、時間はどんどん経っていく。

 アフタルも王女なのだから、分かっている。

 傷ついた護衛が行方不明だからと、王女を残して捜しに行く者などいるはずがないことは。

 それでも、諦めたくはない。


「離しなさい」

「いいえ、できません」

「もしこれがティルダードの命令であっても、あなたは聞かないのですか?」

「はい。我らは主の望みよりも、主の安全を優先させます」

「……嫌いです。主従の契約なんて」


 アフタルは呟いた。


「シャールーズと契約なんて、するのではありませんでした」


 大事な人を守りたいというその気持ちすら、主であることで否定されてしまうのだから。


「本当に、いやなんです」

「分かっております。ですが、ここで姫さまを湖に入らせるようなことをすれば、シャールーズは私を許さないでしょう。そして姫さまのことも」


 ぱちぱちと焚き火がはぜ、夕暮れの空に赤い火の粉が舞いあがる。


「闘技場での誓いを覚えていらっしゃいますか」


 忘れられるはずがない。鮮烈な記憶だ。


「我らは創造主である天の女主人に誓いを立てたのです。我が石が砕け、光が失せるその日まで、つねに主を優先させると。きついことを申すようですが、シャールーズの石が砕け、光が消え失せても、それは彼の本望なのです」

「ええ、きついです」

「申し訳ございません。ですが、我らにとって精霊としての人生を捧げるお方に出会えたことは、何にも勝る喜びなのです」

「大嫌いです……自己犠牲の好きな精霊なんて」


 ぽろぽろと涙が溢れて止まらない。

 けれどアフタルは唇を噛みしめて、決して声は上げなかった。

 声を出して泣いたなら、シャールーズと二度と会えないのだと認めてしまうから。

 ただ今は、離れているだけなのだと……少しだけ不在なのだと……そう思わなければ前を向けない。


 溢れる涙は止まることなく、頬を伝い、草の葉に落ちていく。

 アフタルのつまさきに、カツンと当たるものがあった。

 見下ろすと、それは水晶の柄を持つ短剣だった。

 別れてしまった双子神ディオスクリの剣。

 それを拾い上げ、ぎゅっと握りしめる。

 もう一本はシャールーズが持っていると信じて。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ