4-3 妨害
厩舎にたどり着いたアフタルたちを迎えてくれたのは、ヤフダとミトラだった。
「ティルダードは?」
問いかけてくるヤフダに、アフタルは首を振ることしかできなかった。
「御者は見つからなかったわ。馬車もいつもは四頭立てなのに、馬が二頭しかいない。あたしが馬を操るから、ヤフダ姉さまも御者席に座ってもらうとして。ワゴンに四人ならなんとかなるでしょ」
「そんな、ミトラさま。私が御者席に座ります。せめてヤフダさまだけでも中に」
ゾヤ女官長の申し出を、ミトラは「平気、平気」と断った。
アフタルを守るべきシャールーズは、彼女の隣に。怪我をしているラウルを、風を受ける御者席に座らせるわけにはいかない。
そう考えての配置だろう。
「行くわよ、離宮へ」
二頭立ての馬車に乗り込むと、ミトラは馬の手綱を握った。
むろん、弔いの鐘の音を聞いて集まった民衆の中を通るわけにはいかない。裏門からの脱出だ。
「離宮までは遠いのか?」
「道が整備されていますから。半日ほどで到着します」
シャールーズの問いかけに、アフタルが答える。
「離宮のあるパラティア地方には、三王国の湖と呼ばれる地があります。サラーマとカシア、ウェドが国境を接する湖です」
「きな臭そうな場所だな」
「今は戦はありませんから」
とはいえ、隙あらば両国はサラーマを侵略しようと狙っている。
かの地で密偵が捕らえられることは、時折ある。
王都を過ぎると、道沿いにある石造りの水道橋と並行して、馬車は走った。
見渡す限り葡萄畑が広がっている。
なだらかな丘は遮るものがなく、見通しがよい。
葡萄酒づくりが盛んで、風光明媚な王都郊外の風景を、アフタルは眉根を寄せて眺めていた。
「どうした? ティルダードを残してきたことが心配なのか?」
「それもありますが。今は、この光景の方が気にかかります」
陽光を受けて青々と茂る葡萄の葉。低い葡萄棚には、紫色や緑の果実がたわわに実っている。
この葡萄畑で作ったワインを王都に運ぶために、道は広く、また石畳舗装で整備されている。
ワインの運搬に振動は禁物だからだ。
本来は船での運搬が望ましいので、運河を開く案があったのだと、父が生前話していたことがある。船のゆったりとした動きの方が振動が少なく、ワインを輸出する場合にも品質が保持できるからだ。
だが運河はどこにもない。
(この道路が整備されたのは、いつのことでした?)
十年前? いや、もっと前だ。
「女官長。この道はいつ舗装されたか覚えていますか?」
「時期は、詳しくは覚えていませんが。赤子であったアフタルさまを離宮にお連れした時は、さほど馬車は揺れていませんでした」
ならば、十八年前にはすでに整備されていたはずだ。
「葡萄……ワイン」
何かが引っかかるが、考えを掴もうとすると泡のように消えてしまい、どうにもならない。
ここしばらくは天候不順の年はなかった。葡萄の収穫が減っているという話も聞かない。
なのに最近、王宮でワインを出されたことがない。
「葡萄が食いたいのか? アフタル、腹が減ってるんじゃねぇか」
「……愚かな質問を」
口を挟んだのは、対面する席に座るラウルだった。
「冗談だよ。真面目だな、お前は」
「あなたは存在自体が冗談なんです」
「まぁな。文句が言えるようになったなら、安心だ」
シャールーズに微笑まれて、ラウルは言葉を失った。
まるで兄弟げんかみたいだ。
「そうですね。姫さまは、混乱のさなか王宮を脱出なさいましたから。ちゃんと召し上がらないと、考えもまとまりませんね」
「そんな風に言われると、恥ずかしいです」
ゾヤ女官長の母親のような態度が、嬉しくも照れてしまう。
それにシャールーズが食事をとらないから、自分の空腹が余計に気になってしまう。
「恥ずかしがることは、ねぇよ。生きるために大事なことだろ」
「そうですね、アフタルさま。殿下も、お好きなものばかり、召し上がっておいででしたよ。あのタルトは、殿下の好物でしたのに……」
ラウルの美しい瞳が翳る。
それは、この先のティルダードが幸せでいられないことを、案ずる瞳だった。
「追っ手は来ていないようですね」
窓を開き、アフタルは来た道をふり返った。やわらかな金髪が、砂混じりのきつい風になびく。
さして馬車が揺れるわけでもなく、離宮から王都までの快適な一本道。
三国の国境から王都へは馬車で半日。ならば騎馬ならば、どれほどの速さで到達するのだろう。
ともすれば、国境から騎馬兵が侵入した場合、王宮へはその報せよりも騎馬兵の到着の方が速い。
アフタルは、体を震わせた。
もし他国との戦争が起これば、迅速さは軍事にとって重要なこと。
サラーマの王族が離宮に赴くために敷かれた、この石畳舗装の快適な道は、サラーマを滅ぼす原因となりかねない。
これまで考えようともしなかった、自分の呑気さが恐ろしかったのだ。
ガタン!
突然の激しく馬車が上下し、体が揺さぶられる。
「きゃあっ!」
馬車のワゴン内にアフタルとゾヤ女官長の悲鳴が響いた。
横倒しになる馬車。
御者席から、ヤフダを抱えてミトラが飛び降りるのが見えた。ひらりと翻るスカートの裾。
「危ねぇな」
シャールーズがアフタルを、ラウルがゾヤ女官長を支える。
一瞬、外が鮮やかな青に輝いた。空の色とは明らかに違う。きらめくような青だ。
馬車に繋がれていた馬が自由になる。
馬車は地面に叩きつけられたのに。覚悟していたほどの衝撃は訪れなかった。
だが窓ガラスが割れて、その破片がアフタルを襲った。
シャールーズは舌打ちをして、その背でガラスの破片を受ける。
「シャールーズ!」
「平気だ。気にすんな」
「でも、怪我を」
シャールーズの腕の中に閉じ込められたままで、アフタルは身動きできずにいる。
「あのな、俺にとっては自分の怪我よりもアフタルが負傷する方が、よっぽどつらいんだ。いいかげん、そこのところを覚えておけ」
アフタルの髪に、シャールーズが顔を埋める。そして耳元に口を寄せた。今にも唇がアフタルの耳朶に触れそうな近さ。彼の息遣いを肌で感じてしまう。
「離宮に着いたら、アフタルに手当てをしてもらう。約束だぞ」
「……はい」
「ねぇ、大丈夫?」
倒れた馬車の扉を、棒でこじ開けたのはミトラだ。
いつも姉が携帯している釘つき棒が実用で役に立つのを、初めて見た。
シャールーズの怪我はたいしたことはなさそうで、アフタルはほっとした。
外に出ると、外れた車輪が道に転がっていた。
「……ここまでですね」
「なんで? 車輪をはめればいいんじゃないの? 曲がってはなさそうよ」
ミトラが車輪を棒で持ち上げる。かなりの腕力だ。
「いえ、ミトラ姉さま。問題は車軸の方です」
「割れてるっつうか、裂けてるな」
服についたガラスの破片を手で払いながら、シャールーズが車軸を確認した。
馬車がひっくり返ったせいで、底の部分が陽射しにさらされている。
「王宮の馬車は、常に整備が行き届いています。これは車軸に細工された可能性があります」
「姫さま。もう少し進めば、町があります。きっと馬車の修理もできるでしょう。わたくしが歩いて参りましょう」
ラウルと互いに支えあいながら、ゾヤ女官長が申し出た。
「故意に細工されたものです。その修理の業者もきっと不在でしょう」
そもそも王宮に複数いる御者が一人も見つからないこと自体、おかしな話だ。
アフタルは親指の爪を噛んだ。
王女たちが、このまま黙ってティルダードが傀儡になるのを見過ごすはずがないのは、エラも承知のはずだ。
だが三人の王女を幽閉することはできない。それはエラの方針を、王族が認めていないと明かすようなものだからだ。
「わたくしが誘拐され、闘技場に売られたのも、伯母さまの差し金でしょう。縛られていた杭は地下に落下する仕組みになっていましたが。司会の男の場合は仕組みは作動し、わたくしの場合は作動しなかったのでしょうね」
王の姉の命令であれば、アフタルの護衛を遠ざけることも、闘技場の王族専用の席に爆薬を仕掛けることも不可能ではない。
むろん、ティルダードのことは、殺すつもりはなかったろう。
だが同じ時に同じ場所で、王太子と王女が命を狙われたという事実が必要だったのだ。
治安の乱れは、王が不在であること。サラーマに秩序を取り戻すためには、摂政が不可欠であることを知らしめるために。
「なるほど、簡単に王宮を脱出できたはずだな」
「ええ。伯母さまは、わたくしたちを事故に遭わせるために、あえて逃がしたのです」
たとえ王女がいなくとも、向かった先が離宮ならば、休暇を過ごすためだと言い訳できる。
次代の王が即位する、この大事な時に、王女たちが不在などありえないのだが。
「だが、離宮に向かわねぇわけにはいかないんだろ。他にあてもねぇだろうし」
「ええ。馬は二頭。鞍も鐙もありませんし。六人が乗ることはできません」
「ま、なんとかなるんじゃねぇか?」
あまりにも気軽な口調だった。
アフタルは驚いてシャールーズを見たが、ラウルも二人の姉も納得したようにうなずくだけだ。
「幸いにも、ここには四人揃っておりますから。案ずることはありません」
「そーいうこと。ラウルの言う通りよ」
ミトラとヤフダが、微笑んだ。