4-2 従順なだけではなく
ティルダードの部屋は空っぽだった。
それまでお茶を飲んでいたのだろう。中庭が見渡せるベランダの机には、湯気の立つカップと食べかけのタルト、それに蜂蜜の入った器が置かれていた。
ただ椅子は倒れ、ベランダの床にフォークが落ちている。
「アフタルさま」
廊下から聞こえる声に、アフタルはふり返った。
部屋に入ってきたのは、ラウルだ。
よろけて倒れそうになったラウルを支えたのは、シャールーズだった。
「お前……」
シャールーズは息を呑んだ。
ラウルの服の背中部分が裂け、白い肌に無数の傷が走っているのが露出しているからだ。
「ラウル。あなた、ティルダードを庇って怪我を」
「私のことなど、いいのです。それよりも殿下を連れ去られてしまいました」
シャールーズの腕の中で、ラウルは悔しそうに歯を食いしばった。そうでもしないと、今にも泣いてしまいそうに蒼い瞳が潤んでいる。
「アフタルさま、申し訳ございません」
「あなたが謝ることではありません。ティルダードには護衛の者がついているはずなのに」
そう言いかけて、意味のないことだと気付いた。
まだ主従の契約を結んで日の浅いラウルよりも、王宮で育ったエラの方が信頼が厚くて当然だ。
それに王の死により乱れた王都を、エラは摂政となることで立て直そうとしている。
客観的に見て、エラは正しい。
けれど、その正しさは暴力と共にある。
ラウルを襲ったのは、ティルダードの護衛で間違いない。
(護衛たちの間で燻る不満に、エラ伯母さまは火をつけたのでしょう)
ティルダードが懐いているから、これまではラウルのことを黙認していた護衛たち。
だが彼らはラウル自身を認めていたわけではない。
王族であるエラが、ティルダードをラウルから引き離せと命じたなら、それに従うのは当然だ。
アフタルは、シャールーズの腕にしがみつくラウルの手にそっと触れた。
シャールーズよりもほっそりとした手だった。
叫び出したい衝動を抑えているのだろう。彼の指はこわばり、小刻みに震えている。
「ラウル。ティルダードを守ってくださって、ありがとうございます。混乱の中では、あの子が誤って護衛に傷つけられていた可能性もあります」
「アフタルさま」
「あの子のことです。きっとあなたと離れたくないと、しがみつきもしたでしょう。あなたの盾になろうと、護衛の剣の前に立ちはだかったのではないですか?」
「……仰る通りです。殿下は、私などのために……」
その時のことを思いだしたのだろう。
ラウルの言葉は苦しげだ。
「このような事態にならぬよう、お父さまの死は伏せておいたのですが。なぜ今、急にエラ伯母さまが摂政になるなどと……」
アフタルは額に指を当てて、考えた。
これまでのおっとりとした雰囲気は失せ、緑の瞳に鋭さが宿る。
エラは享楽的な性格だ。政略結婚でカシアに嫁ぎはしたものの、政治にも外交にも興味はなかったはず。
「伯母さまだけの考えではない可能性があります」
「誰かにそそのかされているということか」
「はい。伯母さまが帰国なさったのは去年のこと。夫を失った妻、父を失った娘は男性のように髪を短く切るのがカシアの習わしです。宗教を信じないあの国では、妻にとっての神は夫、夫にとっての信者は妻と言い換えることができます」
アフタルは、これまで眠らせていた知識を引き出した。
「カシアでは、髪の短い女性は女と認められないのです。父を失った娘の場合、また髪を伸ばすことが認められますが。妻にその権利はありません」
「相手が死んでも添い遂げろってことか。自分で選んだ相手ならともかく、政略結婚でもそれを強要されるんだろ。迷惑な話だな」
「夫を偲び、二夫にまみえないことは、美談になりますから。ただエラ伯母さまに、そんな風習が耐えられるはずもありません。だから早々にサラーマに帰国したのではないでしょうか。現に伯母さまは、日々社交に出かけておいででしたから」
アフタルはため息をついた。
どこの国に、あるいは誰に嫁いでも良いようにと、子どもの頃から学んできた知識をこれまで活かす場などなかった。
長じてからはなおさら、夫となる男性に従順であるよう。夫を支えつつも、その自尊心を立てるよう、控えめに振る舞うことばかり求められてきた。
その従順さが、婚約者のロヴナの目にはつまらない女と映ったのだから、皮肉なものだ。
「エラ伯母さまの目的は、この国、サラーマを私物化することかもしれません。ですが、彼女が手に入れたサラーマは、その後誰のものとなるのでしょうか」
「アフタルさま。私の石は、サラーマ王の証となります。エラさま……いえ、エラは蒼氷のダイヤモンドを使用人に命じて捜させています」
「繋がりましたね」
アフタルはうなずいた。
エラが蒼氷のダイヤモンドを手に入れた時、傀儡の王となるティルダードは廃される。
その時、誰が玉座に着くのか。
本質を見きわめ、それを阻止するためにも自分たちは逃げ延びなければならない。
幸いにもラウルが宝石の精であることは、エラにはばれていないようだ。
この王宮にラウルを置いていくわけにはいかない。
「参りましょう。離宮へ」
「いえ、私はここに残ります」
「なりません」
アフタルは語気を強めた。
「ラウル。厳しいことを言うようですが、ティルダードはあなたに逃げてほしいと願っているはずです。あの子は年齢は子どもですが、考え方は立派な大人です。寂しさも怖さも全部心の奥底に封じて、反撃の時を待つと思います。そのためにも、あなたが蒼氷のダイヤモンドそのものであるとばれてはならないのです」
もしエラに知られてしまったら、ラウルは石に戻されてしまうだろう。
ラウルも理解しているはずだ。けれどティルダードを残していくことに、感情が反発している。
「シャールーズ。彼をお願いします」
「仰せのままに、我が君」
シャールーズは頭を下げた。
ラウルは、なおもシャールーズの腕から逃れようとした。
けれど細身であり、傷めつけられたラウルは力ではシャールーズに敵わない。長身なのに、荷物のように軽々とシャールーズの肩に担ぎ上げられてしまう。
「下ろしなさい!」
「ラウル。お前の気持ちは分かるぜ。主を見捨てるなんざ、心が引きちぎられそうにつらいってこともな。けどよ、今はまだティルダードを助ける時じゃねぇんだよ。分かってんだろ」
「ですが! 私は殿下を」
「うるせぇ、くそダイヤモンド。お前にとって主であるティルダードは、アフタルにとっては大事な弟なんだ、家族なんだよ。撤退を命じたアフタルが、苦しくないわけねぇだろ」
「家族……」
呆然と呟くラウルは、抵抗をやめた。
「まったく。お前は俺のことを無茶するって言ってたくせに、その本人が一番無茶しそうじゃねぇか」
「共に来てください、ラウル。わたくしからもお願いします。国王直属の近衛騎士団は、次期国王であるティルダードを害することはないでしょう。苦しいでしょうが、耐えてください」
ようやく手に戻ってきた穏やかな日常なのに。あまりにも簡単に指の隙間からこぼれ落ちていく。
それまでシャールーズの肩で暴れていたラウルがおとなしくなった。それが了承であると、アフタルは理解した。
「我らは今は身をひそめ、機が熟すのを待ちます。いいですね」
凛とした声。
ラウルは、その言葉を目の前のか弱い王女が発したとはすぐに分からぬようだった。
何度も瞬きをして、ようやく怜悧な表情のアフタルが言ったのだと理解したようだ。
「姫さまは、利発なお子さまでいらっしゃいました。結婚相手の殿方を立てねばならぬからと、成長なさってからは知識も思考力も自ら押さえこんでいらっしゃったのです」
ゾヤ女官長が、懐かしむように目を細めた。
「ふっ。おもしれぇ。丸くなって眠っていた子猫は、実は獅子の子だったってわけか。よし、行くぞアフタル。自分で走れるな」
「はい」
「ちょうどいい、精霊が複数揃えば、俺らの力も強くなる」
シャールーズは駆けだした。
アフタルはふり返り、ゾヤ女官長に手を差し伸べる。
「女官長。一緒に参りましょう。離宮で好機を待つのです」
「姫さま。本当にお強くなられましたね」
「ありがとう。でも今は急ぎましょう。また、ゆっくりと褒めてください」
アフタルは、ゾヤ女官長の手を握りしめた。