4-1 鐘が鳴りました
アフタルは庭で調べ物をしていた。
古サラーマ語は難しいので、第一王女のヤフダも付き合ってくれている。
大きな池に面したあずまやの机に本を積み上げ、熟読していく。
この本は女官長のゾヤに手伝ってもらい、用意したものだ。
アフタルの教育係でもあったゾヤは、今は女官長として仕えてくれている。母が生きていたなら、同じくらいの年だろうか。
早くに母を喪ったアフタルにとって、ゾヤは母親のような存在だ。
池の畔では、なぜか第二王女のミトラとシャールーズが、剣のようなものを打ち合っている。
いや、正確にはミトラが持っているのは釘を打ちつけた棒だ。
「シンハライトの精。あんたがアフタルにふさわしいか、見極めてあげるわ」
ミトラはそう叫んで、シャールーズに襲いかかった。くせの強い赤毛と、スカートの裾を揺らしながら。ミトラとヤフダは母親が同じなのに、不思議なくらい髪色が全く違う。
「あっぶねー。俺を殺す気かよ」
「聞いたわよ、ラウルから。あんた、公衆の面前でアフタルに恥ずかしいことをしたそうじゃないの」
「あー、契約だからしゃあねぇよな」
ガスッ!
釘つき棒が、地面の土をえぐる。
「お前、なんで王女なんかやってんだよ」
剣を持ったシャールーズは、肩をすくめた。
「ヤフダ姉さま。ミトラ姉さまを止めなくて大丈夫でしょうか」
「平気でしょう。それよりも厄介な人が来ましたよ」
アフタルの隣に座っていたヤフダが、立ち上がった。きっちりと結い上げた黒髪、目の覚めるような青い瞳に警戒心が宿っている。
カツカツ……と足音を立てながらやって来たのは、伯母のエラだった。
「あら、三姉妹で遊んでいるなんて呑気だこと。今、サラーマが大変な時だというのに」
アフタルやティルダードによく似たエラの金髪は、うなじが見えるほどに短い。
今は亡き王の姉のエラは、カシアに嫁いでいたが、夫と死別して今はサラーマに戻っている。
「アフタル。聞いたわよ。大変だったそうね」
「え、ええ。エラ伯母さま」
「婚約破棄された上に、御者に売られたそうじゃないの。本当に無事でよかったわ」
椅子から立ち上がったアフタルを、エラがぎゅううと抱きしめる。
「あの、誰からお聞きになったんですか?」
「ティルダードの護衛よ。あの子も闘技場で危ない目に遭うところだったそうじゃない。王太子ともあろうものが、お忍びで出かけるなんて。本当に恐ろしい」
「護衛って、アイスブルーの瞳のラウルさんじゃないですよね。あの方はお目付け役のようですし」
「お目付け役?」
アフタルの言葉に、エラは片方の眉を上げた。
「馬鹿言っちゃいけないわ。あんなどこの馬の骨とも分からない男を、ティルダードはやすやすと信じて。あのラウルという男、貴族ですらないと聞いたわ。あなたも気をつけなさい。よく知らぬ下賤の者を王宮に入れてはダメよ」
エラはそう告げると、シャールーズとミトラを睨みつけた。
エラは、ヤフダやミトラのことをあからさまに無視する。正妃の娘である二人を軽んじて、側室の娘でしかないアフタルを気にかける理由が分からない。
「身元のはっきりしないティルダードのお目付け役に、不審者のようなあなたの護衛。気をおつけなさい、アフタル。この王宮を怪物の住処にしてはいけませんよ」
「怪物だなんて。シャールーズは……」
「アフタル!」
伯母に反論しようとするアフタルを止めたのは、シャールーズだった。
「何も言わなくていい」
「王女に向かって失礼な口をきくのね、その者は」
では、失礼とエラは短い髪をかきあげながら去っていった。
エラを守るように、長髪の騎士が隣に立つ。近衛騎士団長のアズレットだ。
銀の髪をかきあげ、アズレットはシャールーズを一瞥した。
不穏な雲が広がっていくのを、アフタルは感じていた。
その時だった。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、と重い鐘の音が鳴ったのは。
「ど、どうして?」
王宮で鳴る鐘に呼応するように、サラーマの王都で鐘が鳴り響く。
王の崩御を告げる鐘だ。
まるで王都自体が絶叫しているような音に、耳が痛くなる。
それまで釘の棒を構えていたミトラが、立ちつくした。ヤフダも椅子から立ち上がり、瞼を閉じる。
「お母さまが、離宮で静養なさっています。ティルダードとともに、離宮へ向かいましょう」
「アフタル、いいわね。ティルダードを連れてきて。あんた、手伝いなさいよ」
ミトラに命じられ、シャールーズは無言でうなずいた。
「どういうことなんですか? お姉さま方」
ガツンッ! と激しい音とともにミトラが棒をあずまやの柱に打ち付けた。その赤い髪は燃えるような憤りを、暗い緑の瞳はやるせない怨嗟に満ちていた。
こんなミトラを見るのは、初めてのことだった。
「エラ伯母さまに先手を打たれたわ」
「伯母さまの好きにさせてはなりません。アフタルとティルダードは、彼女にとって格好の駒なのですから」
時が来たのだと、ヤフダは呟いた。
これまで国王の崩御を隠蔽されていた民の怒りは大きかった。
王宮の門には民が押しかけ、騒いでいる声が風に乗って王宮の奥にまで届く。
「ティルダード。返事をして」
いまだ鳴りやまない鐘の音。アフタルは自身の準備はそこそこに、ティルダードを捜した。
「こっちにもいねぇぞ」
シャールーズが手分けをして捜してくれるが、弟の気配はどこにもない。
ヤフダとミトラは、馬車と御者の準備をしている。
おかしな話だ。
これだけ騒ぎが起こっているのに。大臣たちの姿を見かけない。
ふとシャールーズが、アフタルを背後に隠すように立った。
「誰か来る」
広い背中から顔を覗かせると、廊下を駆けてくるのはゾヤ女官長だった。
「姫さま。早く脱出なさってください」
「まだです。ティルダードを連れて行かないと」
けれど女官長は首を振った。
「殿下は即位の準備があるとおっしゃって、エラさまがお連れしました」
「即位って、あの子はまだ十歳なのに」
女官長は唇を噛みしめ、眉間にしわを寄せた。
「……エラさまが、摂政としてお立ちになるようです。議会の承認も得ていらっしゃいます」
「まさか、そんな」
ゆっくり時間をかけて、あの子が育つのを待とうと。王族や大臣たちの考えは揃っていたはずなのに。
見えない圧力に押しつぶされそうだ。
アフタルは苦しさに、瞼を閉じた。
「エラってのは、そんなにまずい奴なのか?」
「エラさまは、元々サラーマの王族が精霊と関わることを、良しとされていませんでした。王が蒼氷のダイヤモンドと契約を結んでおられなかったのも、エラさまに配慮してのことです」
「けどよ、あの女はカシアに嫁いでたんじゃねぇのか」
「まさか、未亡人となりサラーマに戻ってこられるとは」
ゾヤ女官長の口調は苦々しい。
「姫さま、現在の王都をどうご覧になりました?」
「とても乱れていました。闘技士といってましたが、サラーマにはいるはずのない剣奴……奴隷の存在。それに神殿での……」
神殿の小部屋でのことを思いだし、アフタルは拳を握りしめた。
「フォルトゥーナ女神を信ずる者にとって、聖娼とは、普通に行われていることなのですか?」
「いいえ」
王宮に閉じこもっているアフタルと違い、ゾヤ女官長は外の世界をよく知っている。しかも年齢は、三十代後半か四十代くらいだ。
その彼女が、聖娼など知らないと断言するのならば、秘されていた慣習が表に出てきたのだろう。
ぞくりと、背筋を悪寒が走った。
(王が不在というだけで、こんなにも簡単に国は堕ちていくのものなのですね)