3-4 困るんです
夜更けてもアフタルは本を読んでいた。もとは羊皮紙に古サラーマ語で書かれていた内容を、語学の得意なヤフダと文官たちが、現代のサラーマ語に翻訳してくれたものだ。
こうして勉学に耽るのは、久しぶりのことだ。
「……キラド邸でフィラが話していたことは、間違いではなかったのですね」
びっしりと書かれた文字を追っていたアフタルは、顔を上げた。
フィラは確か、サラーマ王の祖先が呪術で政敵を倒したと言っていた。
この本によれば、古代に三国の国境を接する湖で、ウェドと戦ったときに精霊の加護を受けたとある。
ウェドは一神教の国、そしてカシアは神を奉じない国。どちらの国にとっても、多神教であり精霊と契約をするサラーマは認めがたいだろう。
「呪術……」
なにか引っかかる。
けれど答えはもやもやとした白い霧の向こうにあって、すぐにたどり着けそうにもない。
その時、お腹がくぅーと鳴った。
はしたない音に、アフタルは辺りをきょろきょろと見回す。
調べ物をしているアフタルの邪魔をしないようにか、シャールーズはソファーにごろりと横になっている。
「聞こえてないぜ。盛大な腹の音なんか。飯なら、あそこに置いてあるぞ」
「……聞こえてるじゃないですか!」
つかつかとソファーに歩み寄ると、アフタルはクッションを投げつけた。
もちろん顔に命中するはずもなく、片手で受けとめられたけれど。
夕食をとらずにいたアフタルのために、部屋には夜食が用意されていた。ミーリャという目の細い侍女が、運んできてくれたものだ。
小麦の薄い生地の中に、羊肉や玉ねぎ、ハーブを炒めた物が入っている。
飲み物はレモン果汁と蜂蜜がたっぷり入ったジュースだ。
去年までは食事には、ワインが添えられていたものなのだが。
「本当に食べなくて平気なんですか?」
アフタルはシャールーズに問いかけた。
一人で食事をするのは慣れている。ティルダードと食事を共にすることは、たまにはあったが。姉のヤフダとミトラは偏食が激しいとの理由で、それぞれ自室で食事をとっている。
「腹が減ったら、アフタルを抱きしめるさ」
「……そういうのは、どうかと思います」
「なに言ってんだよ。俺の腕の中、好きだろ?」
かぁぁー! とアフタルは顔が真っ赤に染まった。
確かにシャールーズの腕の中にいると、安心できる。だからつい甘えてしまったけれど。
改めて言葉にされると、とてつもなく恥ずかしい。
「嫌いなのか?」
「どうしてそんなゼロか百なんですか」
「んー」とシャールーズは、自分の顎を手で撫でた。あの大きな手が、自分の背中に回されていたのだと思うと、もう恥ずかしくて死ねる。
アフタルは慌ててレモンジュースを飲んだ。そしてその酸っぱさに噎せてしまった。
「おいおい、大丈夫かよ」
「へ、平気です」
顔を覗きこんでくるシャールーズを、手で制止する。
ここまでアフタルの中に踏み込んできた人はいなかった。
だから、どう距離を取っていいのか分からなくなる。
「ゼロか百って言ったよな。俺は『なんとなく好き』とか『嫌いじゃない』とかって曖昧なのはいやなんだよ」
アフタルの隣の席に座り、シャールーズが顔を見つめてくる。
その美しい瞳に、戸惑った表情のアフタルが映っている。
「覚悟決めろよな。俺はアフタルを選んだ。アフタルも俺を選んだんだろ」
「……はい」
「じゃあ、迷うことねぇな」
シャールーズは柔らかく微笑んだ。
本当にこういうのは困る。
アフタルが再びグラスに手を伸ばそうとしたが、慌ててグラスを倒しそうになった。
「おっと」
とっさにシャールーズがグラスを押さえてくれる。
骨ばった長い指。そのせいか、アフタルが持っている時よりもグラスが繊細に見える。
恋人のよう……いや、人と精霊が恋人になっているのだと自覚した途端に、羞恥に見舞われた。
「ご、ごめんなさい」
照れてしまって、アフタルは両手で顔を覆った。
「謝るこたぁ、ねぇぜ。恥じらうのは、俺のことをすごく好きだからだろ? そうじゃねぇなら、嫌悪するよな」
「う……ううっ」
正論すぎて、反論できない。
こういう感情は、皆どうやって習うのだろう。どうやって慣れるのだろう。
家庭教師はそんなこと、教えてくれなかった。これまで習った学問の中に、そんな項目はなかった。
「まぁ、落ち着け。もう噎せるなよ」
グラスを受け取ろうとするアフタルの手は無視された。
シャールーズはそのまま手を伸ばすと、グラスの縁をアフタルの唇に触れさせた。
「ほら、少しずつ飲めばいいから」
「じ、自分で飲めます」
「僕の仕事を主が奪ってどうするんだ」
「そうなんですか? 侍女にこんなことをしてもらったことは、ありませんけど」
「侍女は仕事で王宮に仕えているだけだろ。アフタルに忠誠を捧げた侍女がこれまでいたことがあるのか?」
言われてみれば、そうかもしれない。
アフタルは素直にグラスの縁に口をつけた。
甘酸っぱいレモンジュースが、流れ込んでくる。
こくり、とアフタルは一口飲んだ。ワインでなくて良かった。こんな状況で酔ってしまったら……大変だ。
「なーんてな」
アフタルがジュースを飲むのを確認して、シャールーズが悪戯っぽく片目を閉じた。
「あんまり簡単に信じるなよな。冗談だぜ」
「え?」
「素直すぎるから、からかいたくなるだろ」
今度は盛大に噎せた。そして咳きこんだ。
行儀が悪いが、アフタルは椅子に座っていられなくなり、床にへたり込んでしまった。
(信じられない!)
「おいおい、大丈夫かよ」
シャールーズがアフタルの側にしゃがみ込んで、背中を撫でてくれる。
それでもまだ咳は止まらない。
「……ばっ、馬鹿っ」
「うーん、馬鹿かもしんねぇな」
「嫌いですから!」
「それは困るなぁ。俺がアフタルのことが好きだからさ」
「うっ」
「アフタルは本気で俺のこと、嫌いじゃないだろ? 好きって言ってたもんな」
「……うぅ」
冷静にならなくては、平静でなくてはと思うのに。自分の心なのに思うままにならないなんて。
「ほら、まだ食事は終わってないぜ」
ひょいとアフタルを抱えて、シャールーズは立ち上がった。
無精ひげは相変わらずだし、髪もぼさぼさだし。意地悪もされるのに。
「……なんで、こんな人を好きになっちゃったの?」
「光栄だな。嫌いになりたくても、なれねぇってことだからな」
シャールーズの嬉しそうな笑い顔を見て、自分まで幸せを感じるなんて。
おかしい。おかしすぎる。
「食事をしますから、椅子に降ろしてください」
「んー。もうちょとくらい、いいだろ?」
「そういうところが嫌なんです!」
「そうやって顔を赤くするところが、可愛いな」
もう、いや。