3-2 約束の地でいいんだよな
そよ風がひんやりとした湿り気を帯びたのを感じ、シャールーズは目を覚ました。
腕の中では、アフタルが熟睡している。
ようやく王宮に戻れて安心したのだろう。微かな寝息は、健やかだ。
こんな日を夢見ていた。小さな箱の中でずっと。
美しいと眺められ、身を飾り立てるだけなら、ただのモノでしかない。
流れていく時と、愛でる人が変わっていくのを見送るだけの存在でありたくない。
宝石の精霊は、主を求めるものだ。
宝石を買った人間、贈られた人間が主になるとは限らない。
精霊を宿した宝石は貴重であるがゆえに、王宮の宝物殿にしまいこまれ、ただ無為に時を過ごすしかない者もいる。
「あいつも、そうなるもんだと思ってたんだがな」
シンハで生まれ、このサラーマに送られた宝石たちが、再び集結しようとしている。
「なぁ、おばさん。ここが約束の地でいいんだよな」
今はもういない相手に向かい、シャールーズは問いかけた。
答える声などないことを知っていながら。
シャールーズはアフタルを抱き上げると、ベッドに移した。
フォルトゥーナ神殿の枯れ草を詰めた寝具と違い、アフタルの体が沈み込むほどの柔らかさだ。
眠るアフタルの華奢な手を、シャールーズは握った。
「……んっ」
眠りが浅いのか、アフタルが手を握り返してくる。
白くて細い指。王女らしくなめらかな肌だ。
シャールーズは瞼を閉じると、指先にくちづけた。
「離さねぇよ。俺は」
眠りの中でも、政略結婚の話は聞こえてきた。
シャールーズは自分でも気づかぬうちに、ため息をこぼしていた。
「いやだよなぁ。この手が、他の奴に握られるとかさ。この指に、どっかの宝石がついた指輪が嵌められるとかさ。それを見てろってのか。拷問かよ」
そんなことのために、逃がされるようにあの島を出たのではない。
約束の地を求めたはずなのに。皆と別れ、箱の暗闇の中にしまい込まれて、誰にも顧みられず。初めて美しいと言ってくれた人は、また誰かと婚約させられるかもしれない。
シャールーズは寝台に腰を下ろして、窓の外を眺めた。
すでに中庭は夜に包まれ、水の匂いが風に乗って部屋まで届く。夜啼く鳥が、どうやら池のほとりで囀っているようだ。
静かな夜。
と思ったのは、一瞬だった。
廊下を早足で近づいてくる足音が聞こえたからだ。
ドタドタというような大きな音ではないが、扉をノックされたらアフタルが目を覚ましてしまう。
疲れ果てた主の眠りを妨げる不粋な者を、この部屋に侵入させるわけにはいかない。
足音が扉の前で止まるのと同時に、シャールーズは力任せに扉を開いた。
「うっ……ううっ……」
廊下で鼻を押さえて俯いているのは、闘技場で出会ったアイスブルーだった。名前は、まぁどうでもいい。
「何やってんだよ」
「それはこっちのセリフです。どうしてノックを待てないのですか。あなたは粗暴すぎ……むぐっ」
「はいはい、うるさいうるさい」
シャールーズはアイスブルーの口を手でふさいで、そのまま廊下へと押しだした。
泣き虫だったくせに、えらそうな大人になったものだ。
「お前さ、闘技場でアフタルを見捨てろって言っただろ」
「そのようなことは言っていません。私はただティルダード殿下が関わることはないと、申し上げただけです」
「なんでだよ」
「アフタル王女には、あなたがついていると分かったからです。我々は、主を守ることを最優先させます。それがたとえ契約したばかりであっても。違いますか?」
「違わねぇ。ところで、アイスブルー。お前は王子を放っておいていいのかよ。闘技場で爆発があったのは、王子を狙ってのことじゃねぇのか」
「不本意ですが、仰る通りです。あの日は、急に殿下が闘技場に行きたいと仰られて。お忍びで見学に行ったのですが」
アイスブルーは、眉根を寄せた。
「護衛は?」
「むろん、つけていました。殿下に気づかれぬよう、顔を知られていない者を周囲に配置しました」
なら、王子を押しつぶしそうな重量感のあった女も、護衛ということか。
「王女のことに気を取られて、殿下は爆発のことには気づいていらっしゃいません」
「そりゃ問題だな」
「たとえ聡明とはいえ、まだ幼くていらっしゃいますから。殿下は今は勉強をなさっておいでです。即位に向けて、課題が多いのです。ちなみに私はラウル。名前で呼びなさい」
「了解した。アイスブルー」
「あなたという人は、変わらないのですね。シンハにいた頃から、そうでした」
「何年前だっけな。百年か」
「……私とあなたがサラーマ王国の交易船に乗ったのが、九十八年と三月に十八日」
「お前、そんなに細かいことを覚えていて、面倒くさくないのか?」
「記憶力がいいと言ってほしいですね」
アイスブルーは、眉をひそめた。
シャールーズを偉丈夫とするなら、ラウルは美丈夫だ。
冷たそうな銀の髪に凍てついた蒼い瞳。
(こいつ、生まれる島を間違えてんだろ)
温暖な南海の島よりも、北の最果て、氷河が崩落し、氷山が海に浮かぶ島の方がしっくりくる。
「そういやお前の主って、王じゃなかったっけ?」
「いいえ?」
「けどよ、お前って王家の至宝なんだろ。じゃあ王に仕えてたんじゃねぇのか?」
「契約は代々の王とは交わさず。ティルダードさまとだけ、交わしました」
「おいおい、子どもとはいえ相手は男だぞ」
それを言うなら今は亡き王も男だが。どうせ仕えるなら女性の方がいい。その方が断然楽しい。
「主従の関係に性別は関係ないでしょう」
「儀式はどうすんだよ。略式かよ」
アイスブルーは、露骨に顔をしかめた。冷たい瞳の中に、地吹雪が吹き荒れたような気がした。
「……精霊の血を与え、ただひざまずいて契約の言葉を述べるだけですよ? 他に何かする必要がありますか」
「まぁ、お前にはねぇだろうな」
「あなたのようなエロ精霊がいるから、困るのです。ずっと宝石の中に閉じ込められていればよかったのに」
「そいつぁ、ごめんだね」
そういえば同じ船に乗せられて、サファーリンと、コーネルピンもこの国に渡ったはずだ。
鮮やかな青のサファーリンと、緑色だが角度によって多色に見えるコーネルピン。
あいつらも天の女主人に愛され、命を吹きこまれたはずだが。
「で? 単に懐かしさに駆られて、俺の顔を見に来たわけじゃねぇよな。アイスブルー」
「ラウルです」
「うん、分かった。アイスブルー。それで弟くんに何かあるから俺に会いに来たんだろ?」
はぁぁー、とこれ見よがしに大きなため息をアイスブルーは洩らす。
「あなたは馬鹿なのですか、それとも察しがいいのですか? あるいは馬鹿を装っているのですか?」
「端的に言えよ」
「もういいです」
アイスブルーは額に指を当てて、うつむいた。
おいおい、宝石のくせに頭痛かよ。
「王が突然崩御なさったことは、あなたでも知っていますよね」
「アフタルから聞いた。二日前まで俺は箱の中だったんだぜ。この国の情勢は詳しくねぇさ」
「その死が仕組まれたものであった可能性があります」
「暗殺かよ」
「声が大きいです」
アイスブルーの手で口をふさがれてしまった。アフタルみたいに柔らかくないし、ふんわりしていない。
アフタルはシャールーズにくっついたときに、ひんやりして気持ちいいと言っていたが。
宝石の精霊に触れられたところで、涼感を覚えないのは。体温というか温度が同じせいなのだろうか。
「私たちは王子を守ります。あなたは王女を守ってください」
「お前に頼まれる筋合いはねぇ」
「念のためにですよ。あなた、いい加減ですから。大事な約束も忘れてしまうし」
アイスブルーは眉をひそめた。さらに何か言いたそうに口を動かしかけたが、首をふって結局やめた。
「言いたいことがあるんなら、言えよ。聞いてやるぜ」
「……いえ、繰り言ですから。まぁ王女に関しては、中途半端なことはしないでしょうが。あなたは彼女のためなら、自らが割れて朽ちてしまうことも厭わなさそうです」
「俺が消えちまうような無茶はしねぇ。その上でアフタルを守護する。で、お前が俺らに指示するってことだろ」
「勘が良くて何よりです」
「四人いた方が、心強いし、精霊の力を発揮することができるからな」
そう答えると、アイスブルーは綺麗に微笑んだ。
あんなに子どもっぽかったのに。きっとこいつなりに苦労してきたんだろう。