3-1 王宮に戻りました
アフタルは王宮に戻ることができた。
帰れなかったのは二日足らずなのに。とても長い間離れていたように感じる。
見知らぬ男性を連れて歩いて戻ってきた王女に、門番は警戒し。頬を腫らして神殿娼婦の衣装を着ている王女に、侍女たちは悲鳴を上げた。
「ヴェラ、湯の用意を。ミーリャ、王宮医師を呼んできてちょうだい」
ゾヤ女官長に命じられて、まずは怪我の手当てだ、湯浴みだと大騒ぎだ。
侍女たちは、シャールーズの存在に戸惑っていたが。ゾヤ女官長から説明を受けると、彼がアフタルと共にいることを受け入れたようだった。
ゾヤ女官長は当たり前のように、アフタルの部屋に彼を通した。
足を投げ出して椅子に腰を下ろしたシャールーズは、女官長と話をしている。
「まぁ、シンハライトですか。王宮に勤めて長いですが、初めて伺う宝石ですね」
「一見地味だけどな、よく見ると綺麗なんだぜ。そうだなアフタルによく似合うって思ってくれりゃいいかな」
怪我の手当てが終わるのを待って、シャールーズがアフタルの隣にやって来た。
ソファーに並んで座る格好だ。
侍女たちはすでに部屋を辞している。
開かれた窓からは中庭を望むことができる。水をたたえた広く浅い池。
ちょうど夕暮れ時で、水面は空の色を映して紫や茜色に染まっていた。
王宮の塔の向こうには、なだらかな山が連なっている。あの山の向こうはパラティア地方で、王家の離宮がある。
「まだ痛むか?」
「いえ、もう……」
そう言いかけて、アフタルは顔をしかめた。さすがに切れた口の中までは手当てできないから、喋ったりすると痛みを感じる。
腫れた左頬にはガーゼを貼られ、靴擦れを起こした足には包帯を巻かれている。
「たいした怪我ではないのに、恥ずかしいです」
「たいした怪我なんだよ。アフタルは王女なんだからな。男に二日連続で叩かれたり、あまつさえ襲われそうになったり。ふつうはあり得んだろ」
シャールーズの長い指が、アフタルの髪に触れた。
そのまま指先に金の髪を絡ませたり、ほどいたりして弄んでいる。
「あの……離してもらえませんか?」
「なんでだ? 人間は髪を触れられると痛いのか?」
「そういうわけではありませんが。なんというか……」
アフタルはうつむいた。
そうすれば、隣に座るシャールーズに赤く染まった頬を見られなくて済む。
ロヴナに二度叩かれたのは、どちらも利き手だったから。アフタルの頬は左にだけガーゼが貼られている。
いっそ両頬だったら、赤面もばれないだろうに。
「そういえば精霊は、思いを糧にすると伺いましたけど」
「主の愛情が糧だからな。俺にとってはアフタルだ」
低い声で囁いたシャールーズが、手にしたままのアフタルの髪にくちづけた。
心臓が跳ねた。痛いくらいに鼓動が速い。
「俺はアフタルの愛情さえあれば生きていける」
「シャールーズ」
澄んだシンハライトの瞳に、アフタルの顔が映っている。
切なくて、どうしていいのか分からないような表情。それはシャールーズの表情と同じだ。
「婚約破棄をされずに、ロヴナと結婚していたとしても。俺はアフタルの僕になっていただろうな。あいつに放っておかれ、当たり前のように暴力をふるわれるアフタルのためなら、俺はロヴナを殺すことに何のためらいもない」
シャールーズは、アフタルの睫毛にそっとくちづけた。
「俺は本当は、神殿でヤツを殺してしまいたかった。だが、アフタルはそれを望まねぇ。そうだろ」
「……はい」
「脅しをかけただけで済ませたのは、あいつに情けをかけたからじゃない。ようやく手に入れた今この時を、失うのが怖かったからだ。ただ、それだけなんだ」
「シャールーズ」
アフタルは、シャールーズの腕に手を添わせた。
「俺は……俺たちは人じゃない。だが、人みたいに望んでしまうんだ。愛されることを。そして天の女主人もそう望んだから、宝石に命を吹きこんだ」
故郷は、シンハだとシャールーズは教えてくれた。
けれどアフタルが知っている現在の地理に、そんな島はない。天の女主人を信仰する宗教も、今はない。
島の名前が変わってしまったのだろうか。宝石たちを送りだした神への信仰は、消えてしまったのだろうか。
「なぁ、アフタル。ここは約束の地だよな」
「約束の地、ですか?」
聞いたことはない。だが、そう答えるのは良くないような気がした。
シャールーズの声が、まるで途方に暮れた子どものように思えたから。
アフタルは抱きしめられて、シャールーズの胸にもたれた。
「俺もアフタルも、ロヴナに捨てられた。だがな、それで良かったと思っている」
アフタルはうなずいた。
今後、自分はまた政略結婚をすることになるだろう。それは王族としての義務だ。
今は未亡人となり、サラーマに帰国している伯母も、かつては政略結婚で隣国に嫁いだ。自分だけではないのだ。
(でも、もう他のどんな男性のことも、愛することはできないです)
出会ったばかりなのに。すでにこんなにも離れがたくなっている。
アフタルはシャールーズの手に触れた。指と指を絡め、静かに瞼を閉じる。
結んだのは主従の契約。でもシャールーズは騎士ではない。
「……好きになってもいいですよね?」
「当り前だ」
「ありが……」
言葉の終わりは、シャールーズの唇に奪われた。
「いい匂いがする」
「お風呂上りに、香油をつけてもらったんです」
「花の香りか? 懐かしい匂いだな」
「ジャスミンです」
シャールーズは柔らかく微笑んだ。
「ああ、シンハにもたくさん咲いていた。白くて可憐な花だな。そうか、あの花がアフタルの香りなのか」
香油は、首筋と足首に塗っている。
そのせいでアフタルの首元にシャールーズが顔を埋めるから、身動きが取れなくなる。
アフタルは、シャールーズの頭を抱きかかえる格好になってしまう。
窓から吹き込む夕風が、カーテンを揺らした。
「一緒にいさせてくれ。もし俺が邪魔になったら、叩き割ってくれていいから」
◇◇◇
「姫さま、お食事のご用意が出来ました」
部屋にアフタルを呼びに来た侍女が、寄り添って眠る二人を見て目を丸くした。
「女官長さま。さすがにあれはどうかと」
「おやまぁ」
女官長は、目を細めた。
白いうなじが清々しい侍女が、嘆息をつく。
「そっとしといておやり、ミーリャ。ようやく姫さまも守護精霊に出会うことが叶ったのですからね」
「ですが、いずれまた姫さまには輿入れのお話が……」
「しーっ」と、女官長は口の前で人差し指を立てた。
「政略結婚を介さずに、このサラーマと共に歩んでくれる国があればと願いますよ。さぁ、姫さまたちに毛布をかけてさしあげて」
その声は優しかった。