2-6 来てくださいました
激しい破壊音が小部屋に響いた。
蹴破られた扉。木の破片が、モザイクの床に散る。
「呼んだか、我が君」
背後からの光に照らされ、シャールーズの髪が金糸のようにきらめいている。
ロヴナと二人、閉じ込められて澱んでいた空気が一瞬にして清らかになる。
砂ぼこりの舞う空を、雨が洗い流した後のように。
こんな時だ。人を越えた存在として彼を感じるのは。
「ええ、待っていました。あなたを」
知り合ったばかりだけれど。誰よりも近しい人。
シンハライトそのもののような深く澄んだ瞳が、アフタルをとらえた。
シャールーズは、アフタルの前に屈みこみ、頬に手を触れてきた。
丁寧な手つきは、痛みを感じさせないようにだろう。
「可哀想に。頬が腫れているし、口も切れている」
「どうりで血の味がすると思いました」
シャールーズが、アフタルの血を親指で拭き取った。
宝石の精だからなのか、ひんやりとした感触だった。
「またお前か、放蕩息子。よくよく縁があるようだ」
肩をすくめて、ため息のようにシャールーズが呟いた。
「なんだ、貴様は」
「ここは何のための部屋だ。なぜお前がいる」
「貴様に関係ないことだ」
「質問の答え以外、いらぬ」
シャールーズの口調は厳しく、室内の空気が張り詰めた。
「こ、ここは聖娼の間だ。神殿に寄進した者は、女神の加護を受けるために娼婦を抱く」
「……アフタルは王女だと思っていたが? 俺の勘違いか?」
「ぼくにだって分かるものか。なんでこの女がここにいるんだ」
「なら、手違いだな。行くぞ、アフタル」
シャールーズは、アフタルの肩に手を添えた。逞しい腕でアフタルの背中を包み込んで、外へ出るように促す。
「待て! その女を置いていけ。元婚約者に暴力をふるっておいて、このまま見逃せるか」
アフタルの腕を、ロヴナが掴む。
「汚い手で、主に触れるな」
掴んだ手を、シャールーズに払い落とされたが、それでもロヴナは諦めなかった。
アフタルの髪を掴み、強く引っ張る。
バランスを崩して倒れそうになったアフタルを、シャールーズが支える。
琥珀の瞳がロヴナを見据えると、シャールーズは、床に落ちた長い木の破片を持ち上げた。
さっき彼が蹴破った扉の破片だ。破片とはいえ、棒のような長さがある。
無言のまま、シャールーズは扉の残骸を持った腕を突きだした。
「ひぃ!」
短い悲鳴と、硬い音が重なった。
アフタルの目に映ったのは、壁に突き刺さった棒だった。
その横には、恐怖に目を見開いたロヴナの顔があった。
「残念。目測を誤った」
シャールーズは力任せに、棒状の残骸を抜く。壁には深い穴が開いていた。
「な、なな、なにを」
「お前はアフタルを叩いた。普通、叩いたら叩き返されるもんじゃねぇのか?」
割れて尖った木の先端を突きつけられたロヴナは、言葉もない。力なく壁にもたれて、座りこんでしまっている。
「だが俺やアフタルは、お前みたいに相手を痛めつけて遊ぶ趣味の悪さは持っていない。お前が言うべきことを言えば、解放してやるぜ」
「……ま……せん」
「聞こえない」
「ひぃっ」
シャールーズがしゃがみ込んで、ロヴナの顔を覗きこんだ。それだけでロヴナは、ひきつった悲鳴を上げる。
「も……もう、アフタル王女に……手は出しません」
「信用できねぇな」
ようやく絞りだした言葉だったのに、シャールーズの返事は予期せぬものだったのだろう。
「口約束なんか、あてにならねぇ」
それまで冷ややかな怒りをたたえていた顔に、陰りがよぎる。
深い喪失を感じさせるような、暗さだ。
「あんた商人の息子だよな。証文とかあった方が……ああ、ここには筆記具がねぇな。血文字でも構わねぇぜ」
「……血文字?」
「指先を切るってのも、つまらねぇ。どこがいい? 選ばせてやる」
シャールーズを見上げるロヴナの視線は泳いでいる。
「どこって……いったい」
シャールーズは木の先端で、まずロヴナの首に触れた。ひぃ、としわがれた声をロヴナが上げる。次に触れたのは手首だ。
「ぼ、ぼくに死ねと?」
「深く切らなきゃ、死には至らねぇだろ」
「待って、シャールーズ」
さすがにアフタルは飛び出した。
ロヴナは恐怖に打ち震えている。もう充分だ。
「いいのか?」
アフタルはうなずいた。
「俺は納得できねぇけどな。だが我が主の望みなら、従う以外にない」
「ありがとうございます」
「一人で無茶すんなよな」
「……頑張ったんです。これでも」
アフタルはシャールーズの腕の中に閉じ込められた。
「俺を呼ぶのが遅い。まず真っ先に俺を呼べ。いいな」
「はい」
小部屋から外に出ると、陽射しの眩しさに目がくらんだ。
その途端、アフタルはへなへなと柱廊にうずくまってしまった。
「おい、どうした?」
「いえ、急に力が抜けて」
困っているのに、シャールーズは苦笑いを浮かべた。
「な、なんで笑うんですか?」
「いや、頑張ってたもんな。アフタルは」
からかう口調に、アフタルは口を引き結んだ。
(どうせミトラ姉さまみたいな破壊力もないですし、わたくしが凄んでみせたってたいした威力もないですし……)
「でも、俺は一番に頼ってほしいんだよ」
「シャールーズ」
「愛しい俺の主」
アフタルの前にひざまずくと、シャールーズは手の甲にくちづけてくれた。