海原の中で 5
お待たせしております。
俺が指揮権代行を宣言した直後、甲板に流れた空気はなんとも言い難いものがあった。
それを一言で的確に言い表すなら”何言ってんだ、こいつは?”であろう。
この糞忙しい時に下らない寝言をほざくなとここに居るすべての男の視線が俺に集中するが、こちとらそんなものに気後れするような繊細な神経をしていない。
俺は隣で生涯最大の過ちを犯したという顔をしている航海長に指示した。
「航海、まずは船内の掌握だ。甲板の仕事が出来る奴は全員集合させろ」
「い、いや、今の私の発言は……」
「今更ガタガタ抜かすな! さっさと動け! 俺は既に命令を下したぞ!」
「り、了解しました!!」
飛ぶような速さで船内へと駆け戻る航海長を見送る俺には突き刺さるような敵意に満ちた攻撃的視線が集中する。
そして一人の男が顔に憤怒を刻みながらこちらに近寄ってきた。
「おいこのクソガキ! お前のようなガキが船長だと!? こちとらお前の遊びに付き合うほど暇じゃねぇんだよ! 今がどんな状況下か解ってんのか!?」
肩を怒らせるこの水夫は小柄ながら筋肉質で浅黒い肌をしていた。まさに海に生きる男という風貌であり、個人的には好感が持てるがこの男の言うとおり、今はそんな状況ではない。
「俺は正式に航海長から指揮権を移譲された。文句は陸に上がってから聞いてやる」
「ガキに船長が務まるわけ、ぐぎあっ!」
この非常時に更に何か言おうとしていたので、その水夫の頭を掴んで持ち上げた。どちらかといえば小柄な俺だが、この水夫も俺と同じくらいだったので難なくこいつを掴みあげる事ができた。
「こ、こいつ! や、やめ……」
自分の半分ほどしか生きていない俺に頭を持ち上げられて驚く水夫だが、次第に俺が力を籠めて頭蓋骨が悲鳴を上げ始めるとこれまでの威勢はたちまち消えうせた。
「つべこべ抜かしてんじゃねぇ。こっちはテメェらの不始末のケツを拭いてやってんだぞ。誰が好き好んで他人様の船で誰も望まれてない船長なんざやりたがるかよ。俺が気に入らねぇんなら今すぐほかにこの修羅場を乗り切れる船長を連れて来い」
腕一つで宙吊りにされていた水夫はしばらく足をバタつかせていたが、頭から嫌な音がするとすぐに力を失った。それを確認した俺はそいつを船の壁目掛けて投げ捨てる。頑丈に作られた船の壁は人間一人が叩きつけられても壊れる事はなかったが、船上は恐ろしいほどの緊張が支配している。吹き荒れる風だけが嫌に大きな音を立てていた。
「解ったらさっさと持ち場へ戻れ! 仲間割れしてる場合じゃねえ事くらいは解るだろうが」
続いて俺が投げつけたポーションの小瓶が水夫の頭上で割れ、重傷を負っていた彼を即座に癒した。こいつは20層台から結構な頻度で出るハズレ枠のハイポーションなのでこのように気軽に使っても惜しくない。オウカの帝宮で暴れた後もこいつで多くの衛兵を治してやった事もある。
「う、あ……はっ、痛みが消えてやがる……」
「ボースン、持ち場に帰れ」
「掌帆長……わかりやした」
やはりひとかどの男であった甲板長は上職の掌帆長の一言に素直に従った。その時に俺を一瞥したが、これまでの非難めいた視線は消えていた。やはり海に生きる男だけあって、力の論理に素直に従う男のようだ。俺としてはこっちの方がやりやすい、なにより男は単純な方がいい。
それになにより、これは仕込みだ。必要なことだと解っていたし気にもしてないが、それを仕掛けた相手を俺は呼んだ。
「掌帆長はなにかあるか?」
「いや、あんたにこの難局を乗り切る力があるなら俺達はあんたに従いますよ、船長代理」
先ほどまでの部外者を見る目が消えている掌帆長は俺に対する形式的な敬意を見せた。彼もこのままではどうあってもこの船の未来は絶望的だとわかっていた。甲板と帆の面倒を見ないと船は沈むが、それだけをやっていればいいというものではない。それ以外の面倒を見るやつが必要だったのだ。
そしてその責任者に俺が本当に適当なのか、甲板長を使って試させたわけだ。俺もいきなり現われた男に船の全て委ねますと言われるほうが困るから、こちらも甲板長の行動は渡りに船だった。
「俺もここで死ぬ気はないからな、頼むぞ。俺はユウキという者だ、力を貸してくれ」
俺が年長者(俺の実際の年齢はともかく)である彼を立てるように頭を下げると掌帆長は一つ頷き、周囲の水夫達に声を張り上げた。
「聞いたかお前ら!! これより俺達はこのユウキを頭に据えてこの嵐を乗り切る!!」
「そんな! 掌帆長ともあろう人があんな得体の知れない奴の指示に従えって言うんですか!?」
周囲から懐疑的な声が幾つも上がるが、掌班長は口を開いた全ての男たちをその鉄拳で容赦なく殴りつけた。
荒れ狂う大自然と闘う海の男たちは普段から理不尽な暴力に曝されて育つが、それでへこたれる様な軟弱者は理不尽の塊である海で生き残る事は出来ないから、彼等も慣れたものだ。
「これだからお前たちは半人前なんだ、この馬鹿野郎どもが! 良く見とけ、あれが只者じゃねえって理解できねぇのか! 俺には先代にも引けをとらねぇ凄腕に見えるぜ!」
不運続きなこの航海だが、ここへ来て運が回ってきやがったと妙に俺を持ち上げる台詞を吐く掌帆長だが、半分以上は世辞だろう。何しろ記憶喪失の俺に船の知識など皆無だ。それでも何とかなるんじゃないか? という謎の自信が俺をここに立たせている。
今この瞬間も不安など一欠片も抱いていないし、まあ、天候だけが問題だから何とかなるだろ。対空警戒や対潜警戒もしなくていいんだから、楽なもんだ……はて、俺は何を言っているんだ。
そして水夫の皆も内心で不満はあれど、掌帆長が従うならと俺に反抗的な視線は消えた。彼等にしてみれば俺より掌帆長のほうがよほど怖い存在だ。彼が納得しているなら自分達が口を挟む事ではないと理解している。
これも海の男ならではだ。全ての男がこんな単純であれば世界はもっと上手く回るのだが。
「船長! 船員を集めました!」
そのとき、航海長が甲板での業務経験のある船員を連れてきてくれたのだが……あまりにも少ない。10人にも満たない数だ。元々甲板にいた人数と合わせると30人ほどしかいない。
「掌帆長、来てくれ。航海もここにいろ」
部下達に指示を出し終えた掌帆長が俺の声にこちらに寄ってくる。風雨はますます強まり、経験の浅い航海長などはどこかに掴まっていないと立っていられないほどだ。
「なんです、船長? 貴方に反抗的な奴は私の権限で押さえ込みますが?」
「生贄は一人で十分だ。使える奴を壊していいほど余裕はないだろう」
先ほどの行動の意味は解っているとぼかして話すと互いに苦笑した。本来は急造の編成なのでそれぞれの性格を掴む会話を楽しみたいが、状況はそこまで余裕はない。
「この船は3交代制で回しているのか?」
「普段はそうですか……非常時ですので2交代制で行う考えです。勘ですが、この嵐は長引きそうだ」
船は四六時中動いているから誰かが常に船の面倒を見ている状況になる。3交替なら8刻(時間)ごと、2交替なら12刻(時間)ごとに水夫が交代するように決められている。そうなると相応の水夫の数が必要になるわけだが……。
「掌帆長、この嵐でも戦力になる奴はどれだけいる? 疲れ果てたあんたが泥のように寝ても船を任せられる基準だ」
「今さっき航海長が連れて来た頭数を入れて20といった所ですな。後の連中は半人前以下です。この嵐を乗り越えてようやく一人前に足がかかったといえるレベルかと」
「そうか。不測の事態に備えて常に何人貼り付けておきたい? 俺は船は詳しくない、遠慮は無しで頼む」
「船に詳しくないと言う冗談はさておき……13人は欲しいですな。無いものねだりですが」
半人前はいてもいなくても同じだ。つまり最低でも6人足りない計算ということか。10人でも甲板作業自体は行えるだろうが、荒天で見張りを絶やすと船が転覆するから危険と隣り合わせた。これほどの巨船でも大波は簡単に飲み込んでしまう。対処一つ誤ると全員が溺死する羽目になるから、絶対に欠かす事のできない仕事だ。
「船長権限で乗客を徴用する。二人とも見たか? 3等客室には明らかに水夫と思われる男達がいた。彼等もこのまま海の藻屑となるくらいなら協力するだろう」
3等客室は船底付近にある大部屋で、暇つぶしに船内を探索した際にそのような男達を見かけていた。
俺はそう提案したが、二人の反応はいまいちだ。
「船長、それが可能なら名案だが、私が実際に口説いてくるのは難しいですな。船長直々に行動していただく必要があります。航海長では貫目が足りませんし」
ヒヨッコ扱いにされてもなにも言えない航海長は下を向くが、確かに掌帆長はここを動けない。それが出来るなら船長職も兼務できたはずだ。俺が行く他ないと思われたが、ここには頼れる人がいる。
「その役目、私が引き受けましょう。確か10人ほどの集団でしたな、覚えておりますぞ」
背後で事の成り行きを見守っていたルーカスさんがそう申し出てくれた。
「あんたが? それは有難いが……」
「掌帆長、彼はシュタイン商会の商会長だ。あんたもライカールの人間なら彼の商会は知っているだろう? 信用じゃ俺より上さ。ルーカスさん、頼みます。必要ならこれも使ってください」
「あのシュタイン商会の会長様でしたか! こりゃ失礼な態度でしたな」
ライカール全土に深い根を張るその国最大の商会の主であることを明かすと、流石の掌帆長も態度を改めた。彼はそれほどの人物なのだった。俺から見てもエドガーさんに匹敵する人材である。
俺が懐から金貨のつまった皮袋を取り出してルーカスさんに渡した。正直ここで死んだら金も意味のない物になるのだが、それでも黄金は人の欲望を刺激する。重い腰を上げさせる効果があるなら、何でも使うべきだ。
「なんて大金なんだ……あの袋は全部金貨が入っているのか……」
まだ子供の航海長が呆けたような顔でルーカスさんに渡した袋を見つめていた。どうせだ、これでやる気が出るなら惜しむ必要はない。
「よし、よく聞けお前ら! もしここにいる誰一人として欠ける事無く港に帰還したら褒美をくれてやろう!! 金貨100枚を山分けだ!」
ざわ、と周囲の空気が変わるのを肌で感じた。俺は皆に見せるように新たな金貨の詰まった皮袋を取り出すと、これ見よがしに中身を見せてやった。極寒の海の上なのに周囲の気温が上がったような気さえした。
この場限りの嘘で終わらせない証明としてその袋を掌帆長に手渡すと彼は重々しく頷いた。
「聞いたなこのウスノロども!! 船長のご期待に応えてみせろや! もしのろくさした奴がいやがったらそいつの取り分は俺様が没収するから覚悟しておけ!」
怒号のような歓声が甲板に木霊した。あまり誉められた方法ではないが少なくとも水夫達の士気はこの上なくあがった。何度も行えない手段だが、どうせ今回限りだから大盤振る舞いしてもいいだろう。
「あの、ユウキさん、私にもできる事はありますか?」
俄然動きがよくなった水夫達を眺めていたら、隣から遠慮がちの声がかけられた。見ればリアムが寒さを我慢しながらも、自分に出来ることをしようと俺に尋ねてきたようだ。
まだ10年と少ししか人生を歩んでいないというのに大した責任感だ、ご両親の教育の賜物だろう。
「実はそう言ってくれるのを待っていた。リアムにはこれから大事な仕事を頼みたいんだ。後で話すから無理をせず待機しててくれ」
「では、ここでユウキさんの姿を勉強させていただいてもよろしいでしょうか。ルーカスさんが貴方を非常に高く評価していた理由がようやくわかりました。人の上に立つ資質をユウキさんは自然に備えています。その姿を見て学びたいのです」
「君は乗客だから、俺が何かを言う権利はない。好きにしろと言いたいが、まずは姉のミネア嬢に状況を話して来るんだ。彼女にもお前と共にお願いしたい事があるしな」
既に雨に塗れ、寒さに震えた体を微塵も感じさせず、話してきますと告げて走り去ったリアムの後姿を俺だけでなく、多くの水夫達が見送った。視界の端に見覚えのない貴婦人が彼の後をついていった。
<彼の安全は私が確保しますので、ユウキ様はご安心を。存分に為すべき事を為されますよう>
<宜しく頼む>
ユウナに任せれば何の問題もない。実は船長代理をすると告げた辺りから仲間が危ないから帰って来いとしきりに<念話>が来ていたが、俺が大丈夫だからと取り合わないでいると諦めたようだ。
「全くユウは私がいないと本当にダメなんだから」
俺の懐に何時のまにか相棒のリリィが転移して来ていたが、本人は雨に濡れるのが嫌なのか顔を出そうとしない、だが、これからを考えると雨どころか海水もたっぷりと浴びる事になると思う。
「そのときはちゃんと<結界>張ってね!」
一々要求が多い相棒だが、俺を心配して嫌いな海までわざわざ来てくれた事は解っている。この程度の嵐なら過保護な気もするが、気持ちは有難い。
「おう、俺達の力が借りたいってのはあんたかい?」
野太い声に振り向くと、これまた海の男と形容する他ない男達がルーカスさんと共に9人、甲板に上がってきていた。
「ああ、そっちも理解しているだろうか、今は非常時だ。荷物として何もする事無く溺死するよか働いた方がマシだろう? 手を貸してくれ」
「マジでガキじゃねぇか。この船の連中は何を考えてこんなガキを頭に据えてやがんだ? おいガキ、俺様たちをロハで使おうってんなら大間違いだぜ?」
どうやらそこらへんの話をしていなかったらしいルーカスさんに視線を向けると、処置なしとの返事が目で返ってきた。なるほど、そういう輩か。
「全く、今がどういう状況か解ってないようだな。悠長におしゃべりする余裕なんざないんだが」
「おいおい、状況は俺達だって解っているさ。このままじゃ全員魚の餌になるほかないって事もな。だがよ、乗客の俺達を使おうってんだ、金貨の一つも約束するのが誠意ってもんじゃねえの……ごへっ」
こいつらの魂胆は緊急事態だから自分達を高く売りつけようとした、それだけだ。足元を見るのは別に悪い事じゃないが、俺に相談を持ちかけた事が運の尽きだな。商人のルーカスさん相手なら交渉も出来ただろうが、彼はそれらの問題をこっちに投げてきた(金の出所が俺だから俺に判断させるのも悪くない。だが俺はそれ込みで金を渡したつもりだが、そこまで求めるのは酷か)ので、俺なりの方法で解決を図ることにした。
さっきの甲板長と同じく、体に話を聞く事にしたのだ。先ほどと異なる所は掴んだのが頭ではなく首で、掴んだまま舷墻を越えてこの男を首一つで宙吊りにした格好である。
「面倒臭いから簡単に選ばせてやる。黙って俺達に協力するか、ここで落ちて死ぬか、二つに一つだ」
「ま、待て、待ってくれ! 俺、はそん、なつもりで……」
「グチグチ煩ぇぞ、さっさと選べ。お前と遊んでいる暇なんざこっちは無ぇんだ。お前さえ潰せば他の連中は大人しくなるのは解ってる。死ぬか、生きるかどっちだ?」
苦しそうなので手の力を緩めたら、その男は必死で俺の腕に抱きついてきた。むさ苦しい男にまとわりつかれて喜ぶ趣味はないので、振り払おうとしたらより必死になった。まあ下は海なので落ちたら確実に死ぬけど。
「手伝う! いや、是非とも手伝わせて下さい! お願いします!」
「最初からそう言えばいいんだよ。手間かけさせやがって」
甲板に戻してやった男が生還の喜びに浸る間もなく、大波が襲ってきた。大きく揺れる船、そしてこれしきのゆれで体勢を崩して倒れこむ半人前どもなど、面倒ばかりだ。
せめて使えるこいつらくらいはまともであって欲しいもんだ。
「これからはあそこにいる掌帆長の指示に従え、解ったな……返事!!」
「「「了解しました、船長!」」」
「ユウキ殿にはご面倒をお掛けして申し訳ない。私の資金で解決しても良かったのですが……」
「いえ、頼んだのは私ですからね、面倒を背負うのも私の仕事でしょう。しかし、あいつ等は欲をかいたばかりに分け前が減ったな」
ルーカスさんに渡した金貨の袋が返って来たので、そのまま掌帆長に渡す。新たな大金の詰まった袋を手にした彼は嫌そうな顔をしたが、それでも拒否はしなかった。
ちなみに今の行為は水夫達の褒美に加算される。合計を全体の頭数で割るので、先ほどの乗客の水夫たちは結果として取り分が減った事になる。あの袋を9人で割った方が多いのは明らかだ。本人は金貨を欲していたようだが、欲をかかなければ10枚近い金貨を得ていたことになる。
だが、経験者だけあって彼等の動きは良い。使える戦力の増強は安心感につながり、掌帆長の顔にも安堵が見えた。
よし、これで目下最大の懸案は片付いたとみていい。次は他の案件を始末するか。
「さて、航海」
「はい、船長」
俺は航海長に声をかけた。先ほどの乗客とのやり取りを経て、航海長の態度に俺を訝しむ要素は消えたようだ。直に俺の言葉に耳を傾けている。
「この船の針路はどうなっている?」
「はい、不幸中の幸いと言いますか、風向きは目的地へ向かって吹いています。セイルを張り続けている影響で速度も非常に出ており、距離を稼げている現状です」
「針路上に問題はないとみていいのか?」
「一つだけ懸念があります。風向きはより正確に申しますと北北東に吹いており、このままの風力を利用して進みますと、目的地のクレソンから大幅に北上すると思われます。セイルの状況が改善されない限り、事態は解決しないと考えます」
先ほどまでの放心ぶりはどこへやら、航海長は明瞭に問題点を述べた。やはり若いながら優秀さを買われてあの船長に航海長としての経験を積むようにと抜擢されたのだろう。後はその職に相応しい経験を積めば文句なしだったのだが、それを積む前に船長が天に召されてしまった。あの豪運といい、死に様といい確率の偏りが半端ない人物だったな。
「掌帆長とルーカスさんも聞いておいてくれ。航海、今の説明を」
説明を受けた二人の反応は明暗が別れた。渋い顔をする掌帆長と楽観的なルーカスさんである。
「俺達の仕事はクレソンの港にこの船を着けることだ。可能な限りクレソンへの航路を取るべきだが……」
「今はこの嵐を乗り切る事が先決でしょう。航海長どの、一つお尋ねするが、この嵐を貴方はどう見ますか?」
しばらく黙っていた航海長は、覚悟を決めた顔で口を開いた。
「全てが異常です。これまで丸二日以上凪いでいたのに、突如としてこの強風です。そしてなにより皆さん、上をご覧ください」
航海長が上を指差したので、つられて上空を見た俺達の視界には満天の星空が見える。一瞬その美しさに気を取られかけたが、不意にそのおかしさに気づく。
「嵐の只中で星空が見えるだと!? 雨が降っているのに雲がないと言うのはどういうことだ!」
掌帆長の困惑を隠せない声が全てを物語っている。
「それは私にもよく解りませんが、星が見えるので方角の確認が可能なのは幸いです」
「凪いだ後に突然の嵐……まるで海の神の伝説のようですな」
ルーカスさんの誰に向けた訳でもない呟きは、ここにいる全ての者の耳に届いた。そして海に生きる二人は途端に嫌な顔をした。
「ルーカス様、それ以上はよして下さい。海神ネプトーノスは出会ったもの全てを奈落の底に落とすと言われていますので」
つまり出会ったら必ず死ぬと言われているようなものか。それは船乗りは嫌がるわな。
「これは失礼。しかしこの嵐が異常なのは紛れもない事実。何にせよまずはこの嵐を抜ける事が肝要かと。いずれの港町であれ、港湾施設を持つ街なら我が商会の支店が存在します。乗客の皆さんにはクレソンの港までの移動手段を保証しますと私の名前で説得しますぞ」
シュタイン商会のルーカス商会長がここまで言ってくれるなら、と二人も目的地の最終的な変更には納得してくれた。もちろんこの嵐がすぐに止めば通常の航路を取る事は当然だ。
「掌帆長、帆の状況はどんなもんだ?」
「難航中だ。破れたセイルの索具が複雑に絡まって解くだけでも一苦労なのに、この嵐と船の揺れだ。熟練の水夫でさえ手を焼いている有様だ」
3本あるマストにある帆の内、一本は破れて使用不可能に、もう一本は完全に畳む事に成功したが、最後の一本が破れた帆の索具が絡まって畳めていない現状だ。しかしそのお陰で嵐の風を受けて船は相当の速度で進んでいるのも事実だ。
絡まった索具が帆の補強の役目まで果たしているような節まであり、これまで数多くの強風にも破れる事無く爆走するこの船の原動力となる皮肉な状況だ。
「よし、方針を決定する。進路はこのままに東に取る。どの道方角は合っているんだ、ライカールに生きてたどり着くことを最優先に考える」
「「「了解」」」
「航海長、主計長に伝えて厨房を動かせ。これから長い戦いになる、腹が減っては戦ができぬというだろう? それに湯気の立つ食い物を用意してやらんと水夫達が凍え死にかねん。これから風雨がさらに強まると仮定すれば、今のうちにすべての準備を整えておく必要がある。人手が足りないなら乗客にも助力を頼め。何でも使っていい、この船が海の藻屑と化せば残った物資に何の意味もないからな」
「伝えます!」
駆け出してゆく航海長を見送った俺は掌帆長を見た。
「掌帆長は甲板要員を3交代制で体制を組んでくれ。これまで甲板にいた奴等は疲労が溜まっているはずだ、仔細は任せる」
2交代制で行くつもりだったようだが、人員の問題が解決した今は安全第一で行くべきだろう。全てを心得た彼に部外者が何かを口出しする必要などない。誰と誰を交代させるべきかなど、俺よりもよほど上手くやるだろう。
「冬に夜で嵐だ。間違いなく厳しい事になるだろう。上手く差配してやってくれ。あ、そうだ、休息を取らせた奴等にこれを支給してくれ」
俺がマジックバッグから取り出したのは雨具である。それも異世界産の謎素材で出来ており、非常に水を弾く優れものだ。これをダンジョンで手に入れたと適当に誤魔化したが、どうせ出所など誰も解らない。この短時間で玲二と雪音が創造してくれたのだ。
「今はずぶ濡れで意味などないが、休息明けなら意味がある。少なくとも雨で体温を奪われる事は無くなるだろう」
「こいつはいい! 有難く使わせてもらいます」
本当ならからだの冷え切った彼等のために風呂の一つも用意してやりたいが、揺れる船内では無理な相談だ。今のうちに大量の暖かい食い物を用意して暖を取るしかない。
その後で雨具は水夫達を大いに助けてくれるだろう。
「ルーカスさんにはもう一つお願いしたいことがあります」
「なんなりと」
自信満々に請け負った彼にはちょっと驚いてもらおうか。
「この船の復原力を高めます。船の両舷近くの倉庫に大量に格納してある貨物類を貴方の能力で船底近くに移動させて欲しいのです」
復原力とは文字通り、傾いた船が元に戻ろうとする力だ。この力が強いほど船は転覆しにくくなる。嵐を乗り越えようとするこの船では絶対に必要な行動だが、俺に言われたルーカスさんは固まっている。
ああ、彼は自分の能力が他人に知られているとは予想もしていなかったようだ。
「ユ、ユウキ殿。貴方はまさか……」
「ああ、そうだ。移動の際はこれを使ってください。このマジックバッグは口が非常に大きいので大きな木箱だって簡単に飲み込んでしまいます。貴方の能力がどれほどの容量なのかわかりませんが、このマジックバッグなら難なく入りきる筈です」
俺が彼の事情を慮って助け舟を出すと彼は即座にうなずいた。ルーカスさんも隠蔽には自信があったのだろうが、俺もそれを持っているので所有者特有の癖で存在がわかってしまった。
シュタイン商会のルーカス商会長は商人として最高の資質を持っている。それは商人であれば誰もが一度は夢想する夢のスキル保持者だった。
つまり彼は<アイテムボックス>持ちなのである。
楽しんで頂ければ幸いです。
現実逃避パワーで更新できました。
次の水曜日も現実逃避するぞ!
もしこの拙作が読者様の興味を引いて頂けましたら評価、ブックマークなど入れていただくとこれに勝る喜びはございません。何よりも作者のモチベーションが鰻登りになります。更新の無限のエネルギーの元になります。何卒よろしくお願いします!




