閑話 後宮にて
お待たせしております。
「現状報告は以上となります」
オウカ帝国の深奥、余人が立ち入る事もできない後宮で帝国摂政である凛華は信頼できる部下からの報告を受けていた。その額には深い皺があり、もたらされた事実に苦慮している事が伺えた。
「よくぞまあ、一刻(一時間)足らずの僅かな刻であそこまで暴れたものよ。衛兵は後宮を除いて全滅に等しい損害ではないか。それ以外にも御蔵や御印(古文書)所、果てには厨にまで侵入し、荒らし回りおった。これが知られれば帝国は満天下に恥を曝した事になるな。こちらの益が圧倒的に多いとはいえ、消えぬ醜聞となろう」
ふくれ面をしつつも凛華の脳内では、既に損得勘定は済んでいる。衛兵は全て八卦衆の息の掛かった者しか採用できなかった現状を根本から変えることが出来るし、荒らされて盗まれたとされている宝物類も稀人しか開けられないと言われた鍵のかかった蔵に仕舞われた事は本人の目で確認をしている。
得たものと失ったものを天秤に載せれば利益のほうが圧倒的に大きいのは明らかであった。
「して、衛兵の被害はいかほどか? 潜在的な敵であったとはいえ、帝国の為に戦った事は事実。見舞いの一つもしてやらねば道理が立たぬというもの」
尋ねた凛華に対する部下の返答は簡潔なものだった。
「必要ありません。衛兵は現在全ての人員が任務に復帰しております」
「なに? どういうことだ? 衛兵達はあの者の手にかかり、大損害を受けたはずではなかったのか? 先ほどの報告ではお前がそう申しておったではないか」
「はい。その通りです。ですが、かの侵入者が自らが倒した苦悶に呻く衛兵達にポーションをかけて回ったそうです。武家3院の有力者は全員が瀕死の重傷で救護室に運び込まれましたが、そこにも侵入者が現れ全員を治癒して回ったとの報告があります」
「なん……だと……!?」
「それゆえ、今回の事件における怪我人は一人も出ておりません。現在は全員が任務に復帰しております。身体的損傷、という事に限ればですが」
「あやつのことだ。生半可な事はするまい」
雷華より敵には一切容赦しない男だと聞いていた凛華は、確信に似た思いを抱いて問いかけたが、彼女の予想は現実のものとなった。
「皇道院、祁答院、不動院の縁者たちは、その全てが帝宮より退出しております。手の者の調べでは己の家に篭もって出て来ようともしないとか。侵入者により四肢と顎の骨を砕かれた後、精神を破壊するまで恐怖を刷り込まれたようです。あの豪胆な者どもが周囲の目がありながら泣いて命乞いをするなど、実際に見た私も幻を見ている気分でした」
報告者は続ける。
「そして全てが終った後に残らず治癒を行っていました。あれほどの重傷を一瞬で癒すには相当質の良いハイポーションが必要なはずです。それとお伝えしていない事がもう一つございます。既に治癒が行われており報告いたしませんでしたが、怪我を負った衛兵達には一つの共通点がありました」
「なんだ? もうよほどの事では驚かんぞ?」
「はい、怪我を負った衛兵、1435名全てが等しく右腕を骨折、あるいは骨を砕かれていたそうです。そのほかに昏倒させられたものは居ましたが、負った怪我はそれ一つだけとの事です」
「……そういえば、あの者は何度も遊びと言っていたな……ふふっ、ふふふ。そうか、遊びか」
「凛華様?」
突如として笑い出した主君を見上げた報告者は怪訝な顔をした。冷静、厳格、そういった言葉が相応しい主がこのように快活に笑い出す事は滅多にないことだった。
「はは、これが笑わずに居られるか。八卦衆の者どもめ、なにが”我等こそ御国を守る醜の御盾”じゃ。あの者に、一矢報いるどころか怪我まで癒してもらったとな! まさに虚仮にされ遊ばれておる、大人と子供以下ではないか。私ならあれほどの大言を吐いてこのような仕様になれば恥ずかしゅうて首を吊って死んでおるわ。ああ、愉快じゃ」
こうしては居れぬと外に控えていた女中に酒の支度をさせる凛華に既に仕えて長く、気心も知れている報告者は溜息をついた。
「まだ報告すべき事は残っているのですが……」
「これが飲まずにいられるか。この4年、頭を悩ませてきた難題が一夜にして解決したのだぞ。しかし雷華め、なにが”普通の人”じゃ。お前からの報告で滅茶苦茶をやる男だと聞いていたが、ここまで風評に違わぬ男だとは思わなかった。うむ、美味い。やはり勝利の酒は格別じゃ」
遠い異国から取り寄せた最上級の葡萄酒を流し込む凛華に報告者は尋ねた。国内外の情報を一手に管理する権限を目の前の少女から与えられているが、それゆえに気になる点もあった。
「一つお訪ねしたい事が、そのお喜びようには違和感もございます。凛華様のご指示された通りにかの者は動いたと思われますが、この結果は想定通りではございませんか?」
「ん? ああ、成程、その反応、やはりそう思っていたか。事実は異なるのだ。私は八卦衆の名と何を管轄しているか程度しか話しておらぬ。お前が調べてくれた事実を全て明かす気などなかったのでな。だがあやつはたったそれだけでどこをどのように叩けば敵に一番損害を与えられるかを勘案して実行したのだ。考えてもみろ、私があの者のそばにいたのは5寸(分)に満たぬのだ。詳しい事情なと話していられるか」
透明なグラスの中で揺れる赤い液体を弄びなから凛華は思案した。あの男は生まれさえ定かでないのに政治を理解している。特に政争、相手の痛い急所を突く術に非常に長けていた。
いや、一番特筆すべきなのはその行動力だ。凛華も長年の調査で、八卦衆を政治的に叩ける武器は幾つか用意していた。いつか来る反攻の日のためにそれらを暖めてはいたが、いきなりやって来たあの男が全てを叩き潰してしまった。実際に攻撃したのは8家の内、6家のみであり、残り2家は無傷であるがこれはこの事件が八卦衆潰しの帝家の策略ではないという政治的表明だ。もちろんその2家に慈悲をくれてやる気はなく、当主をすげ替えるほどの攻撃材料を持っていた。
面倒だったのは実力行使に打って出る可能性のあった武家3家だった。帝宮の衛兵があちらの息のかかったものばかりという現状は帝位簒奪が起こされた際に致命的であり、凛華もこれまで我が物顔で帝宮を歩く傲慢な連中に歯噛みしながらも慎重に立ち回る必要があった。
その強敵が半日足らずで憤死ものの恥辱を与えられて一人残らず政治的に死んだのだ。凛華が浮かれて一人で酒盛りし始めるのも当然であった。
「与えた情報はたったそれだけなのですか!?」
「だから私も驚いておる。その後すぐに私を連れて宝物殿や御蔵に直行してめぼしい宝物を根こそぎ回収して回った。<アイテムボックス>持ちである報告も雷華から受けていたが、想像以上に有効じゃな。陰謀や策謀にも使える稀有な力じゃ。雲燐院め、自ら管理する御物を奪われた失態をどう釈明する気であろうな?」
「雲燐院は当主自ら殿下への面会を希望して参内しておりますが、御下命どおり殿下は慮外者に拐かされた衝撃で床に臥せっていると謝絶しております。しかし、よろしいのですか?」
「私があの男に連れ去られた事実は多くの者が見ており、捜索までされている。これを隠す方が不自然だ。それにこれで政務が滞ったとしても、それさえ連中の責にできるのだ。もう既に屍であろうが、警備を担当する不動院の罪状が一つ増えた事になる」
「殿下の風評にも差し障りが出ます。今からでも関係者の口止めを……」
16歳の凛華はその美麗な風貌も相まってオウカ帝族最高の美姫と謳われ、各国から縁談の話が引きも切らなかったが、摂政就任時に縁談を白紙に戻している。本来なら輿入れか婿養子を迎えていてもおかしくない年齢なのだが、どうせ婚約者は八卦衆の若い男なのでそれらを全て断っていた。
ただでさえ適齢期を逃しつつあるのに、慮外者にさらわれるなどという噂が立てば彼女の名声に消せない傷が残るだろう。
それを報告者は心配していたのだが、当の凛華は鼻で笑うだけだった。
「そんなもの不要だ。それに緘口令は私が出さなくても八卦衆が勝手に口を閉ざすだろう。これほどの大醜聞、奴等にとっても消せぬ汚点だ。受けた被害は私の比ではないからな、間違いなく関係者の口を塞ぐであろう」
そう告げてグラスを傾ける凛華にまだ不安そうな瞳を向けていた報告者だが、次の瞬間、場違いさを感じるほどに明るい声と供に扉が叩かれた。
「失礼しまーす。あ、凛様。お酒なんて珍しい!」
部屋の主からの返答も待たずに扉を開けるという信じられないほどの無礼を平然と行った銀髪の少女は、報告者からの咎める視線もなんのその、ずかずかと部屋に入ってきた。
「雷華殿。仮にも殿下の御部屋に入るのですよ。もう少し慎みをですね……」
「あ、女官長、いらしてたんですね。凛様へご報告ですか?」
「貴方は……幾つになっても変わりませんね。あれほどの苦難を経て少しは成長したと思ったのですが」
報告者、この後宮の全てを取り仕切る女官長にとって、元八卦衆である千住院家の娘は幼少の頃から見知った間柄である。
というより、同い年である凛華とは学友、千住院家が政争に敗れ平民堕ちするまでは最側近として子供の頃からの幼友達であったので余人のない場所では相当に気安い間柄だった。
「私は構わない。雷華は昔からこうだからな」
「はあ、解りました。しかし雷華殿、貴方はいったいいつの間にこちらに? 後宮に再び入られたという報告は来ておりませんが」
嘘を許さない視線で女官長は雷華を見据えるが、凛華以上に上機嫌で浮かれ切っている彼女は何処吹く風だ。
「秘密の方法でっす! あ、凛様、これ師匠からです。今日は迷惑をかけたからですって。窮地を救ってもらったのは私たちなのに、ほんと、師匠らしいっていうか」
なぜか惚気を聞かされている気分になった凛華はつまらない表情で雷華の差し出した黒い包装品を受け取った。なにやら非常に高級品な予感を感じた彼女は酔いも手伝って普段は決してやらないような乱暴な手つきで包装紙を破り捨てた。
この紙自体が金貨数枚に相当する貴重品である事に翌朝気付いて自分の馬鹿さ加減に頭を抱えたくなったが、その時はそれさえどうでも良くなるほどの衝撃を受けていたからだ。
「こ、これはまさか……”しょこら”なのか?」
「ええ、それも特別に良いやつだと思います。こんないい香りがする物は私だって食べた事ありませんもの。さあ、お渡しした事ですし、臣下の私めがまずは毒見を……」
「待てぃ! 雷華は帝国になくてはならぬ人材。このようなことをさせるわけにはいかぬ。なに、摂政など代わりはいくらでもおる! 彩さえ無事なら帝国は続くのだ。なのでこの品は私が有難く……」
「何を申されますか! 凛様こそこの国に必要な御方です。毒見役は平民落ちした私にこそ相応しい役目かと。まずはこの一つしかないミルクショコラを……」
「何故よりにもよってそれを選ぶ! ええい、元はといえば私宛の品であろう。何故私が食べたいものを食べられぬのだ!」
途端に姦しくなった部屋の空気に溜息をついた女官長が、手にした紙の束を叩いて場を鎮めた。
「二人とも、淑女がなんとはしたない! それでも尊い血を引くオウカの貴種ですか! 天界に旅立たれたそれぞれのご両親がこれを見たらなんと思うでしょう」
「あ、はい、スミマセン」「いや、これは雷華が……なんでもない」
一時は二人の礼節の教師役も勤めていた女官長の一喝に凛華と雷華は背筋を伸ばした。どうにもこの人の怒る声を聞くと昔を思い出してしまうらしい。
「毒を恐れるなら毒避けの魔導具を用いれば良いではありませんか。まったく、このようなものがあるから諍いの元になるのです。ほら、こんなものはこのように……なんと、これが天上の甘露……!!!」
「「あああーーーっっ!!」」
二人を叱りつけて小さくなっているうちに件の甘味へ近づいた女官長は、流れるような最小限の動きで二人が争っていた白いショコラを口に放り込み、そのまま想像以上の甘さに固まってしまう。
「おのれ、鳶に油揚げをさらわれるとはこのことか。8つしか入っていないのが悔やまれる」
演技ではない本気で悔しさを滲ませる凛華であったが、不敵な笑みを浮かべている雷華を見てふと脳裏に閃くものがあった。
「さて、雷華よ。何か私に言うことがあるのではないか?」
「いえ、こういうこともあろうかと、私あらかじめ師匠から同じ物を三つせしめてきたんですよね」
「それを先に言わぬか! さては雷華、お主、残りの二つは自分の懐に入れるつもりであったな!」
凛華の糾弾に雷華は露骨に目をそらした。長い付き合いなので、雷華が嘘が下手なのは誰よりも理解している。
「だって、師匠ったら、私にはこんな高級品一度も……いえ、もちろん凛様宛の品ですから、こうして全てお渡しするつもりでしたよ?」
「ええい、白々しい。私に忠実な臣下はおらぬのか? 集うのはどいつもこいつも一癖も二癖あるものばかり」
「またまた。普通の人材では物足りないと常日頃から仰っているのは凛様ではないですか」
「ふん。まあいい、今日は良き日だ。雷華も付き合え」
女官長は新たな酒を都合つけるべく、そっと部屋を退出した。
「しかしなんという甘さ。これが歴代の稀人が幾度となく挑戦して挫折したという異世界の甘味か。話を聞いたときは何故そこまで血道をあげるのか不思議だったが、これなら納得だ」
「玲二が言うにはこちらとは砂糖の質が全く違うそうですよ。だからこれほどまでの甘みが出るんだそうです」
実際のショコラは甘さよりコクと苦味の調和が取れたものの方が評価は高いが、甘さに慣れていない自分達にはこちらの方が喜ばれると知って選んだそうだ。
「これもあの雪音の能力か。雷華もそうだが、ユニークスキルというのは本当にとんでもないものだ。そして何故これまで私に持ってこなかったのだ? あの様子からするにこれまでも幾度となくあの男から菓子を貰っていた筈だ。彩も今日は何を食べたと嬉しそうに報告してくるからな」
「後宮に余所者が食材を持ち込むのは不可能だってご存知でしょうに。他の品は何度も献上にあがっていたではないですか」
「これを味わった後では何もかも空しく感じるぞ。帝国の摂政をもってしてもランデック商会の品を取り寄せるのは難しいのだ。大黒屋の伝手がある我が国でこれなのだから、他国では尚更だろう。そうだ、ランデック商会といえば神の雫があるではないか。酒は手に入らぬのか?」
かの商会は今この大陸全ての好事家の注目の的だ。特に酒類は天井知らずの値がついている。高級奴隷の身でありながら大番頭として帝国屈指の大店である大黒屋を切り回していたエドガー会頭はこの国でも立志伝中の人物であり、関係は深いはずだがランヌ王国とは地理的要因が邪魔をして活発な往来は為されていない。
そう、これまでは。
「そういえば雷華殿。先ほどの話ですが、どのようにこの後宮まで? 先ほど確認してみましたが、やはり貴方の出入りは記録にありませんでした。横紙破りは困ります」
「あ、すみません、後で詳しくご説明します。それより凛様。一つご相談があるのですが」
後宮の秩序を守るのが職務である女官長としては当然の質問だが、雷華はそれをはぐらかした。
「なんじゃ? また金の無心か? 収入も少ないのに背伸びしてよい場所に屋敷など構えるからだ。わたしの化粧代から捻出するのも限度というものかある」
平民落ちして困窮していた雷華を見捨てずに力と手を貸していた凛華だが、貴族として復権しつつあった雷華は相当に背伸びして帝宮近くに大きな屋敷を構えてしまった。Sランク冒険者として功績に見合った収入を得ていられれば良かったのだが、破壊に特化した雷華のスキルは敵の素材回収という点では最悪の性能をしていたので、金回りは最近まで良くなかった。
「お、お借りした金銭は全て利子付きでお返ししたじゃないですか! 師匠のおかげで私は劇的に進化したんです! お金だってもう左団扇ですし!」
「そういえばそんなこともあったな。雷華が金貨の山を持ってきた時はどんな罪を犯したのかと不安になったわ」
「凛様まで薫と同じような事を。師匠の下で修行すれば金貨が当たり前のようになるんです、師匠は凄いんです!」
師匠師匠と煩い雷華だが、凛華としては強い驚きも感じていた。雷華は自分以上の男嫌いであり男を視界に入れることさえ嫌がるほどだった。それが今では何かにつけ師匠師匠である。何かされたのではないかと不安になるくらいだったが、今日実物を見て納得した。
あれは世が世なら一国一城の主になっていてもおかしくない。
「その冒険者についてなのですが、色々探ってゆくと不可思議な事ばかり判明します。特にあの最高難度と知られるウィスカの迷宮を個人で攻略しているなどという意味不明な噂があるのですが」
「あ、それ事実です。私ともう一人の姉弟子がウィスカのダンジョンで特訓させてもらってました。そこで得たドロップアイテムを師匠に買い取ってもらって、凛様へ借金をお返しできたんです。これまで師匠が黙ってろって言うからお話できませんでしたが、今日ならもう師匠来たし大丈夫かな」
「そんな馬鹿な、と言いたいですが、実際に金貨を受け取った者としては、理解できなくとも納得するしかないでしょう。そうでもなければ雷華殿があれほどの金貨を用意できるはずもありませんし」
「もう皆して、そんなことばっかり! あ、その話してる場合じゃないんだった。あの、先ほどのご相談の件なのですが、今日こちらに参内する際に彩華様の護衛である皇道院の二人と揉めまして……」
雷華は正直に彼女の屋敷で起きた事を話した。それを聞いた凛華はさもありなんと頷く。
「ふむ、まあそうであろうな。愚かな事だが、あの家は選民意識ばかりが突出しておる。諍いが起きても不思議はない」
だからこそ今日の一件はさぞ堪えただろうなとこの場にいる美女三人は悪い笑みを浮かべた。
「その際に師匠の顔を見られています。私も頭に血が上って師匠と何度も口にしましたし、認識阻害の魔導具はその後で使われたので、皇道院が師匠の存在に気づく可能性があるのです」
雷華が何を不安視しているか理解できない凛華は鼻を鳴らした。
「なんだ、そんな事か。あれほどの者なら自分の始末は自分でつけるであろう。むしろこちらが余計な気を回すと勘気を被るやも知れぬぞ」
「そのこと自体は同感です。ですがこれは薫に言われたのですが、仮にも八卦衆を長らく務めてきた大貴族家の皇道院家が突如消滅したら、御国が受ける不利益や損害はいかほどになりますでしょうか?」
「……消えるか、皇道院が」
酒精の影響が消え去った真面目な顔で凛華が呟くが、雷華の言葉は無情だった。
「消えます。まず間違いなく。師匠は周囲の影響をちゃんと考慮される方ですが、異国や自分が無関係な場所では本当に遠慮しない方なので。今日は私や凛様のことを考えてくださいましたが、それでアレですよ? もし何かの手違いで師匠の家族やお仲間に危害を加えることになりでもしたら……帝都が焦土になりかねません」
師匠はお優しい方ですし情深い方ですが、絶対に善人じゃないです。それは今日のなさりようを見ればご理解いただけるかと。
それでいてわたしの事は絶対に助けてくれるのがまた良いんですけどね、と言い出す雷華の後半の言葉は完全に無視した。
「わかった、すぐに手を回す。あの双子も皇道院の要求に抗えず任命したのだ。此度の件でいくらでも理由はつけられる」
「ありがとうございます」
深く頭を下げる雷華にその必要はないと顔を上げさせた。
「もともと双子の護衛にあるまじき行動は報告を受けていた。今日に至っては彩がいるのにも構わず槍を突き込んだ無能に護衛をさせるなとあの者から文句をつけられたから時間の問題ではあった」
ああ、それとと思い出したように凛華は続けた。
「彩の養育係も全て担当を外し新たな者を任命することにする。これについても文句を言われた。彩が歪まずに真っ直ぐ育つかどうかは今が最後の機会だそうだ」
「それは……私も薄々感じていました。彩様が師匠の屋敷に何度も足を運ぶ理由も。あの御方は親の愛情に飢えておいでです」
「そしてそのことを私には何一つ口にしなかった。私には養育係を呼び出させたのみだ。彩の養育は私に責任があるのに、何故言わないと理由を問いただしたら、あんたも親の愛情を受けずに育ったんだろうから言っても無駄だと思ったそうだ。事実過ぎて何一つ言い返せなんだ」
「凛様」
「解っていた、口煩い私があの子を脅えさせていた事は。だが、私にはそうするしか方法を知らぬのだ。父も母も、私を養育した者も、誰一人として教えてはくれなかった。だからそれで正しいと思っていたのだ」
これまで黙っていた女官長が意を決して口を開いた。
「殿下、皇帝とは孤独なものにございます」
「だから愛情を与えず育てるべきだと? お前も無理に望まぬ言葉を言わぬでもよい」
「凛様にはその代わり私たち同年代の者が居ましたから。殿下もそう思われたからこそ連日のお出かけを黙認していたのでは?」
「それは……そうだが」
図星を指摘され黙り込む凛華に雷華はそのほっそりした手を取った。
「凛様! 彩様はまだ間に合います。師匠は見込みのないものには何も言わない方ですから。それに凛様、殿下には笑顔が足りません。いつも難しい顔して眉間に皺を寄せているから、周囲から怖い方だと誤解をされてしまうのです」
ずいっと近づいた雷華が凛華の口角を持ち上げた。たったそれだけで場の空気が明るくなったのは気のせいではないだろう。
「雷華、お主本当に強くなったのだな。このような言葉をかけてくれるとは思わなかったぞ」
「主君をお助けするのか臣下の勤めですから」
いささか芝居がかった雷華の言葉はそれを告げた本人もおかしみを感じたものだったようで、互いに噴き出してしまった。
「よく言ってくれた。これからも期待させてもらう。雷華の力はこれから更に必要になるであろうからの。グラ王国が新たな稀人を抱え込んだのが確実となった今、これから戦は更に激化する可能性が高い」
「少し前に承認された新たなSランク冒険者ですか……」
これでグラ王国には2人のSランク冒険者が在籍している事になる。特に”神雷”ギルダーツ・ボーマンを実力で破ったとされる新たなSランクは今の雷華をしても驚異的な力を持っていた。
「間違いなく如月や雪音と同時に召喚された異世界人だろう。教団め、面倒ばかり引き起こす」
「それがグラ王国に偶然流れ着く可能性を考えれば……」
女官長の思わせぶりな言葉を凛華が次いだ。
「教団とグラ王国が強固に繋がっていると見るのが自然であろう。もはや勝つ為に手段を選んでおらぬようだが、後先考えないものと正面から受けて立つにはちときつい。だからこそ、あの3人をこちら側に引き込む必要がある。これで誰かが戦闘に関わるユニークスキルを持っていれば言う事なしだったのだが」
溜息をついた凛華だが、雷華は逆にその言葉に慌てていた。
「滅多な事を仰らないでください。師匠に聞かれたら激怒されますよ。あの人、ご自身のことは無頓着ですけど仲間や家族の事になると沸点が本当に低いんですから。もし彼等を利用するおつもりなら早めに教えてください。凛様の代わりに師匠にさっさと土下座して謝罪に行きますから」
「そうはいうが、Sランクに対抗できるのはSランクだけだ。このままでは雷華に矢面が行くのは間違いないのだぞ。お主にばかり危険な事をさせるわけには……」
凛華は誤解されやすいが、性根の優しい少女だった。それを知っているからこそ雷華も彼女と帝国のために命を張ることに躊躇いはない。
「それがSランクとしての、オウカ貴族としての勤めですから。それに今の私は結構気楽に考えていますよ。私はただ全力で戦えばいいんです。もし力及ばず斃れたとしても、必ず師匠が助けに来てくれますから」
雷華の瞳にはそのことに微塵の疑いを抱いていないようだ。
「……信じておるのだな」
「当然です。だって私の師匠ですよ?今日だってあの人には何一つ見返りもないのに、私を助けてくれました。もちろん、ただ助けを請うだけじゃ来てくれない人ですけど、私が最後の瞬間まで戦えば、絶対に見捨てない人です。その時、私の命があるかは微妙ですが、凛様と聖上は必ず護ってくださるでしょう」
ある意味最後には絶対に勝つと解っているんで気楽なものです、と本当に気楽そうに雷華は口にした。
「ですが、そこまで楽観視してよいのでしょうか。ユニークスキルは戦況を一変させる能力があるといいますし、新たなSランクも相当の腕なのは確かなのです」
女官長の指摘に雷華は少しだけ困った顔をした。どう説明したものか悩んでいるらしい。
「なんというか、師匠って別次元で強いんです。その、ユニークスキルが強いとか、魔法の腕が際立っているとか、そういう話じゃなくて。例えばなんですけど、師匠の両手足を固く縛って使えなくしても結局は相手の喉笛を食い千切って勝ってそうっていうか……どれかひとつが強いんじゃなくて、強さ弱さの問題を超越していると言うか……上手く説明できなくてすみません」
「……つまり出鱈目に強い、と」
女官長の言葉に雷華は1も2もなく頷いた。
「だって今、あの人全てのスキルを封印された状態でオーガの最上位種と毎日山ほど闘って普通に勝っているんですよ? 正直師匠が誰にどうやったら負けるのかイメージできません」
凛華と女官長は逆に雷華が何を言っているのか理解できなかったが、彼女の師匠が異常なほど強いと表現している事は理解できた。それに今日の事件では帝族を守る近衛騎士の序列一桁台が為す術もなく打ち倒されている。
その強者がいざと言う時自分達の味方になってくれる公算が高い事は二人を安心させた。
そしてもう一つ、凛華が知る事実が最悪の事態を回避する保険として得られたことも大きかった。
<雷華、雷華、聞こえておるか? 妾は戻るぞ、今日はシャオと供に寝ることにしたからの>
雷華の懐から聴き間違えるはずもない自分達の皇帝の声がした。そして彼女が取り出したのは通話石である。
「聖上!? 今聖上の声がしましたが? 今はお部屋でお休みなのでは?」
本来ならば女官長として彩華のスケジュールを把握していて当然なのだが、今日はこの事件の後始末に奔走していて仕えるべき主君が今何処にいるのか知らなかったのだ。
「凛様、女官長にはお話してよろしいですよね?」
「むしろ管理はこの者にしか出来ぬだろう。私は無理だし、雷華はもっと無理だ」
「何をお話されているのですか?」
「私がどのようにしてこの後宮にやって来たかご説明します。この世界には自分達の常識を遥かに超えたアイテムが存在するのですよ」
「師匠からの預かりものでよくぞそこまで自慢顔になれるな」
訝しげな女官長を連れて二人は後宮の応接間に移動した。応接間には絨毯と畳、椅子と座布団という和風と洋風が入り乱れているが、後宮を知り尽くしている女官長の目に見慣れない物体が置かれている。
「あの輪はいったい……」
女官長の疑問の声は、次の瞬間に転移してきた彩華によって解答がもたらされた。
「聖上! いったい今何が? それにどちらにおいでだったのです!?」
「ん? おお、女官長か。なに、友の屋敷で遊んでいたのじゃ。伝説のエビフライもいっぱい食べてきて満足じゃ」
彩華の隣には黒髪の幼女が立っていたが、その瞼は今にもくっつきそうでふらふらしている。
「これシャオ。寝所は向こうじゃ、まだ我慢するが良い」
「彩、歯磨きはしたのですか?」
「もちろんなのじゃ。ユウキは意外と細かくての、ちゃんと磨けたか確認してくるのじゃぞ」
「うにゅ? とーちゃん?」
父親がすぐ近くにいるかと思った黒髪の娘が、目を開けて周囲を見回すが、目当ての者がいないとわかってまたまぶたを閉じてしまう。
「ああ、シャオ、ここで寝るでない!」
三人が幼子二人を寝かしつけてくると、問題の輪っかに再度集合した。
「お話を総合しますと、この輪の向こうはランヌ王国の地方都市に繋がっていると、そういう認識でよろしいですか?」
「そうなります。直線距離にして約4000キロを一瞬にして繋ぐ転移環という古代の神器です。これも師匠のお力の一端です」
雷華は自慢げだが、女官長の顔色は曇るばかりだ。
「凛華様! 何をお考えなのです。ここは後宮で、御身は婚前の淑女であられます。それがこの先には見知らぬ男がいる場所と繋がっているなどと、この事実が漏れれば致命的な醜聞となります!」
「だから秘密が漏れぬように女官長が管理せよと話しておるのだ。私も問題がないとは思っておらぬ。だがこれで毎日彩が雷華の屋敷に遊びに行くなどと言う事は避けられる。更にはいざと言う時の緊急脱出にも使えるのだ。その利点を考えれば、これを使わない理由はないではないか」
「ものには限度がございます! もし向こう側から男がやってきたら如何するのです!?」
「場所は自分の意思で変えられるとあるから、それこそ鍵のついた部屋にでも設置すれば良い。事前の連絡は今見たように通話石で可能だから、鍵はこちらから開けられるようにでもすれば問題あるまい。詳しくは任せるが、元々ここに来るのは稀人ばかりだ。大して変わらぬだろう。彩の我儘でこれ以上雷華の精神を痛めつける必要はあるまい」
「それはそうですが……」
女官長はまだ不服そうだが、凛華は既に決定事項だとしている。歯向かっても無駄だろう。
「それに何よりこれほどの神器をあの男の厚意で置いてくれたのだ。感謝しこそすれ、怒る筋合いがどこにあろうか。雷華の屋敷にある転移環を譲り受ける時、どれほど苦労したかなど想像するのは容易いだろう」
「そうですよ女官長、師匠の屋敷は凄いんです。色んな場所の中継地点になってまして、他にはランヌ王国の王都や更には新大陸にまで繋がっているんですよ」
「新大陸ですか……聖上のお話にラビラ族が登場するので、どういうことなのかと思っていましたが、そういうことですか。この北東の地からはるか新大陸まで……冷静になれば素晴らしい事ですね。ここが後宮でなければ素直に賛成するのですが」
「人が少ない後宮だからこそ遠慮なく使えるのだろうが。これほどの秘宝を多くの者が行き交う帝宮で隠しとおせずに使えると思うか」
ここまで言われれば女官長も従う他なかった。
「今の話ではランヌ王国の王都にも繋がっておるのだったな。あそこには名高い”美の館”があるという。いずれ行ってみたいものよ」
「凛様、有るも何も直接その”美の館”に繋がってますよ。あの店は師匠がオーナーですから」
「なんじゃと!? 何故それを早く言わぬのだ! こんなことなら昼間会った頃にその話をしておくべきだった。だがそうか、考えてみれば当然だ。雪音が生み出した品をエステで使っているのだから、関係がないはずがないではないか」
「これまで立場もあって頻繁に後宮にお邪魔するわけには行きませんでしたけど、この転移環のお陰で気軽に来れるようになります。日々の執務でお疲れの凛様もリフレッシュが必要です。近々お休みを作って頂いてエステに行きましょう! 天上の悦楽を味わう事ができますよ」
「なんと! 例の肌が輝くと言う奴か! それはいいが……丁度これから今日の件の後遺症の名目で三日ほど寝込む予定だったのだ。だが、ただでさえ予約が埋まっている店だと評判だからな。ううむ、なんとも間の悪い」
「きっと大丈夫です。あの店にはいざという時の”師匠枠”がありますので、師匠にお願いしてそれを使えば明日にでもねじ込めるはずです!」
「そ、そんな事が可能なのか! なんでも有りだなあの男は!」
年頃の少女らしい会話を始める二人は、それぞれの立場を今だけは忘れてこれからの楽しい時間に思いを馳せた。
それを優しい顔で眺めた女官長は、静かにその場を退出するのだった。
楽しんで頂ければ幸いです。
今回はやはり閑話となりました。しかも長いし。
元々はこの後書きにオマケとしていれようかと考えたいたのが、無茶苦茶な分量になってしまいました。
ちょい補足ですが、桜華帝国は上流階級の子女に「華」をつけるのか慣わしなのですが、お陰でオウカの人々が出てくると華ばかりになります。
次回からは新展開です。
もしこの拙作が読者様の興味を引いて頂けましたら評価、ブックマークなど入れていただくとこれに勝る喜びはございません。何よりも作者のモチベーションが鰻登りになります。更新の無限のエネルギーの元になります。何卒よろしくお願いします!




