第五話 不思議の国と理。
「さあ、ルナ。わがままばかり言っていては駄目だよ」
微笑む木崎さんの顔がどこかいやらしいと思うのは私だけでしょうか。いや、動物にそういう感情抱いたらただの変態なんだけどさ。
現在、私は部屋の隅に追い詰められている状態です。何故かって? 昨日の彼の言葉を思い出していただきたい。
「ほら、お風呂は嫌いじゃないだろう? 何度も入っているじゃないか」
いや、そうなんですけど。私をこの家へ連れ帰る途中で不穏な事言ってたじゃないか、木崎さん。覚えてるんだからね! す、隅々までなんて洗われたくありません。お願いします、勘弁してください。
必死で首を振り拒否をしたけれど、体が多少汚れていたのは事実。結局は追いかけっこの末、強硬手段に出た木崎さんにつかまりました。
「ず、ずるいわ、木崎さん!」
ぎゃんぎゃん吠えながらばたばたと暴れる私は、すでに木崎さんの腕の中。風の魔法を使って私を懐まで運ぶだなんて、ずるい! ずるすぎる!
「本当はこんな事をしたくはないんだよ? わかっているだろう?」
懐でも暴れる私に少し哀しそうな笑顔を向ける木崎さんに、私は吠えていた口を閉じる。そんな風に言われてしまうと……そりゃ、洗われるの自体は嫌ではないし、ましてやあなたを嫌いなわけではないし。でも……。
「隅々まで洗うだなんて響きがいかがわしいじゃないの……」
くうん、とせつなく響いた声音に何を思ったのか、木崎さんは私の顔を覗きこむ。
「大丈夫、普通に洗うだけだよ。お楽しみは最後まで取っておくものだからね」
木崎さんの言葉にほっと安心かと思いきや、後半部分はどういう意味ですかね。……考えるの放棄してもいいですか?
なんだか、とんでもない人に貰われてしまったかしら……くすん。
さて、しっかりばっちりといえどまあ普通に体を洗われまして、温かい空気に包まれたかと思うと、一気に体が乾きました。なにこれすごい。
「繰り返しやっていればこの魔法は慣れやすいんだよ。風に熱を加えるわけだけれど、温度調節はとにかく繰り返していけばどう加減するかわかってくるからね。そういう微調整が苦手な人ももちろんいるから、市販されている術式が組み込まれている物を買ってこういう魔法を発動させる事もあるけれどね」
なるほど。冷蔵庫や温熱庫みたいに永続的に発動させ、なおかつ高度なものは術式が埋め込まれている物を買う他ないけれど、そこまで高度じゃないなら自分でその都度発動させる方が早いって事なのね。魔石ってエネルギーそのものみたいだし、あまり使うと体に負担がかかるのかな、やっぱり。というか、私には使えるのかしら。この魔石とやら。
「魔石は体内にエネルギー反応がある限り使えるから、ルナでも恐らく発動は可能だと思うよ。魔力というのは生命力そのものだからね。言ってしまえば、これを使いたいという意思、思考に魔石は反応を示すから。それがトリガーだ」
へえ、なるほど。市販されているものは子どもでも使えてしまうというわけか。……でもそれって危なくないですか?
「この世は全て理で出来ていると言ってもいい。簡単に言うと、その道具がなんであるかを知っていないと使えないんだ。だから、火を熾す魔石があるとすれば、それがそういう物であると知らなければ術式は反応しない。元々、一般家庭内において魔石はかなり厳重に保管されているから、子どもがいたずらに発動させてしまったなんて事件も滅多に起きないよ。箱にしまって、その箱に鍵の術式を埋め込むんだ。これは、術者がそれぞれの理に則って作られたものだから、本人にしか開けられない。尤も、そういう物を解析するのを生業にしている人々もいるけれどね。そもそも大掛かりな術式が埋め込まれた物だとその分必要となるエネルギーも多いから、子どもには結局使えない物のが多いんだよ」
ほうほう。じゃあやっぱり使える物には限りがあるし、回数も限りがあるのね、きっと。鍵――パソコンのパスワードのようなものね。……というかさっきから私と会話出来ちゃってるけど木崎さん鋭いなあ。心を読む魔法とかあったり……しない、よね?
「ルナ、君は犬なのにあまりに表情が豊かだね。考えている事がすぐわかる」
くすくすと笑う木崎さんを眺めていると、頭に手を置かれ、そっと撫でられた。ふたりがけのソファに腰掛けていた私たちの距離は、一気に縮まる。撫でていたはずの手は次には私の体へと回され、あっという間に木崎さんの膝の上だ。……こんなに落ち着くものなのね、知らなかった。
「魔石がなくても魔法を行使する事は可能だとはもう理解出来ているよね。けれどそれは仕組みをきちんと理解出来ているからこそなんだ。それこそ単純な魔法ならば術式を埋め込む物は必要ないけれど、複雑化すればする程に頭の中のみで展開するよりも、楽だしより正確に行使する事が可能だ。その場合、魔石ではなくても術式を描ける媒体があればかまわない。あくまでも魔石というのは、自身のエネルギーを消費しない為に作られた物だからね」
そっか。魔石がなければその分、自分の削られる力が多くなるって事なのね。なんとか頭で理解しながら頷くけれど、ついていくのは今のところなんとか出来ているというレベルだ。元々、回転はそう早いほうじゃない。
「今日はどこまでお勉強をしようか。三日間は休みをもらえたから、ぼんやりと過ごすのもいいし、魔法について、この世界についてを三日で詰め込むのもいい。もしくは――」
木崎さんはそこで言葉を切ると、頭を撫でていた手を止め、私の瞳を覗き込む。
「ルナとの意思疎通をどうするか、その方法を模索していこうか。今も出来てはいるけれど、より正確に何かを伝えたい時もあるだろう?」
ああ、それは名案かも! 私は、数ヶ月の間で木崎さんをすっかり信頼していたし、何よりも昨日差し伸べられた手を一生忘れない。だから、彼が望むならばきちんと言葉を交わしたい――というか、私も彼と話したいのだ。ほのかに芽生えた希に、私はくすぐったさを覚えると同時に、少しの寂しさも抱いていた。
あちらの世界にこうも未練が沸かない私は、なんて薄情だろう。いや、ひょっとすると、記憶がないからだろうか。知り合った人々の事を思い出せば、あちらが恋しくなるのだろうか。自分が一体誰なのかわからないのは不安でもあるけれど、でも。
記憶を取り戻した所で私は幸せなのだろうか。
「ルナ? どうしたんだい?」
木崎さんの声で、私は思考の海から現実へと戻る。少し不安気に見つめる瞳に微笑んで――といってもそう見えるかはわからないが――大丈夫だよ、と鳴いた。私の顔を見て木崎さんが小さく笑う。よかった、伝わったみたい。
「まず、ルナは言葉がわかるけれど……たとえば文字はどうなのかな」
文字か。こちらの文字って、日本語と同じなのかしら。木崎さんが立ち上がり何かを持って来る。パンフレットのようなものみたいだ。表紙にはどこかの外観の写真が載っている。これ、何か私が育った所と雰囲気が似ている。石造りみたいだけれどどこか近代的で、学校がいちばん外観的には近いだろうか。お城というよりはお役所みたいな。
「これは俺の勤め先、ルナが育った場所だよ」
あ、やっぱりそうなんだ? しかし思った以上に大きいんだなあ。でも当たり前か、国の管理下にある建物だものね。ここで色々な研究や、学校を卒業前の子たちが適正試験を受けるらしいから、そもそもかなりの規模がないと無理か。他にも魔法関係のトラブルやら、とにかく色々な事を相談に来る公的機関なわけだ。働く人々だって、きっとかなりのエリートに違いない。ちらりと木崎さんを見ると、パンフレットに視線を落としていたと思えば急にこちらを向くものだから、私の心臓が小さく跳ねた。
「ここになんて書いてあるかわかるかい?」
木崎さんの言葉に数秒固まっていた私は、慌ててパンフレットに視線を落とす。表紙をめくられたそこには――あらまあ、本当に日本語じゃないのこれ。ていうかそもそも、表紙にでかでかと「国立魔法研究所」って書いてあるじゃないですかー、やだー! さっきは写真にばっかり目がいってたわ。中身は、それぞれの課の説明とか、仕事内容みたいなものが書かれてる。訪れた人がどういう相談をすれば、どういう場所に通してもらえるのか、とか、けっこう分かり易く書かれていて、ほうほう、と思わず読み込んでしまう。
学校を理由あって出られなかった人も、適正試験を無料で受けられるのかあ。そういえば、動物って魔法が使えたりするのかしら。物語の中だと使い魔だなんて言葉も出てくるくらいだけれど。
『ねえ、木崎さん。私って魔法を使えるのかしら?』
振り向いて質問してみると、木崎さんが微笑んでいた。……そうでした、私は犬でした。あまりに自然に会話出来るから忘れていた。
「その様子だと、文字もわかるみたいだね。残念ながら、今何を俺に訊ねたのかはわからなかったなあ」
撫でられるのって気持ち良い。ふふ、と笑いながら頭を撫でるその手は、決して私を傷付けない。言葉を失くし、自由に動く手足もなくなった今だからこそ、思う。慈しむこの手は、僥倖以外のなにものでもないのだと。
しばらく木崎さんの手を堪能して満足すれば、私は改めてパンフレットに視線をやる。そうだなあ……とりあえず。
私は国立魔法研究所の文字を指し示すように、「魔法」の上に自身の前足をトン、と重ねた。木崎さんが首を傾げる。
「魔法?」
私は頷いて、今度はページの端を前足で数回叩く。めくれって事かな、と木崎さんが微笑むので、私は再度、頷いた。めくられたパンフレットの端から端まで視線をめぐらせて、今度は周囲に視線を向ける。私はソファと一緒に置かれた低い木製のテーブルの上にあるペン立てのような物に目をつけた。口にくわえるまではそうだと思っていたけれど、ペンではなくて棒状の何かが入れられている。箸でもないしこれは何なのだろうと疑問を抱いたが、とりあえずそれは隅に置いておく。
「……使用?」
ソファからテーブルに乗り移って、口にくわえた棒状の、ペン先がないペンみたいな形状をしているものでトン、と文字を示した。さすがに細かい文字は、私の前足で示すのは都合が悪かった。がっしりとした前足はとってもラブリーだけどね――て私は今犬なんだからこれじゃあナルシストか。いやでもな、可愛いのは事実だし。
「魔法、使用……ああ、ルナは魔法を使ってみたいのかな?」
その通りです! 私は木崎さんの勘の良さに思わず吠える。しっぽをぱたぱたと振っているから、私が嬉しくてそうしたのだとわかっているのだろう。木崎さんは優しい色の瞳を細め、しかしすぐに顎に手をやり考えるような仕草を見せた。
「そうか……そうだね、前例はないけれど、この世界の理と照らし合わせて考えれば――きっとルナならば、可能だろう」
木崎さんの言葉に首を傾げながら、どうしたの? と訊ねる。くうん、という私の声に気が付いたのか、彼は私に微笑み、先ほどまで私がくわえていたペンのような何かを手に取った。……よだれとか大丈夫かしら。
「ルナ。先ほども話したね。魔法とはつまり――命と思考で出来ている、と。体内にうねる生命の力を外へと放出する意思があれば、どんな生命体でも魔法を使用する事は可能だ。しかし実質、人間以外に魔法は使えない。エネルギー面ではそれこそすべての生命がその条件を満たしてはいるけれど、それを外へ放てと命令する思考を有した生命体は、人間しか存在しないからだ」
思考する生き物しか……。でも、たとえば何かを攻撃する時って、本能的にそういう力が発動してもおかしくないような気がするけれど、そういう事はないのかな。相手を傷付けたい、という意思さえ存在すれば、それは魔法を発現する条件はすべて満たされるという事にはならないのだろうか? 浮かんだ疑問から口を開こうとして、そうだった、と思い直す。こういう時すごくもどかしいな。木崎さんの言った通り、意思疎通はいちばん最初の課題かも。私のフラストレーションが蓄積されそうだわ。
「ある程度の知能を持つ動物、それこそ獰猛な肉食獣なんかがどうして魔法を使えないかはわかるかい?」
多少苛立っていた私は、木崎さんのあまりにタイミングの良い質問に目を丸くしながら、慌てて首を振った。木崎さん、魔法で私の心の中をまるっと読んだりしてないですよね?
「至極簡単な事だ。彼らは魔法が使えるという当たり前の事実を知らない」
え? どういう意味? 首を傾げて木崎さんを見つめると、木崎さんはさらに説明を続けてくれた。
「人間が魔法を使えるのは理を、魔法という概念を理解しているからなんだ。魔法を使いたいからこの体内の力を外に放出させてくれ、と自分の身体に命令する事が出来る。だから力は具現化される。動物にはそれが出来ない。いくら相手を攻撃したいと思っても、魔法を使って相手に何らかの傷を付けたいと思考しない限り、ただ攻撃したいと本能的に思うだけでは駄目なんだよ。そもそも、魔法という概念自体を知らないからね。翼があるのに、それを飛ぶ為の道具だとわからずに、そもそも飛ぶという概念すら知らず、一生、大空へはばたけないまま終わるようなものさ」
なるほど。道具を与えられても、それを使いたいと思っても、それが何に使う物なのか、どう使うものなのか、説明書がないと何も出来ないのと一緒って事か。ましてや例え説明書があったとしても、読めなきゃ意味がないんだ。いくらまじまじとその道具を使いたいと眺めていても、説明書を読む能力がない限り、魔法を使う事は出来ないんだ。
「そもそも今話した内容も、本当に単純な初期も初期の魔法の話だ。術式を必要とするもっと複雑な想像力と理を必要とされるような魔法は、人間以外にはとうてい成し得ないものだ」
そりゃそうか。家電の代替品みたいな種類の魔法は、その理屈を理解して使ってみろって説明したって、それこそ利口な犬にだって出来る芸当ではない。そんな事が出来るのは、確かに人間だけだ。
「けれどもルナ、君ならば――恐らくそれが可能だろう?」
微笑みながら木崎さんが放った言葉は、恐らくなんて言いながら、ずいぶんと確信めいた響きだった。