第三話 不思議の国と孤独。
はあ。
深いため息と共に肩を落とす私を、アリスお母さんの舌が優しく舐めあげる。頭をぺろぺろされて、私はくすぐったくも嬉しい。顔を上げると、お母さんが鼻を鳴らした。
「大丈夫よ、あなたにもきっと引き取り先が見つかるわ。万が一があっても、ここの皆であなたを見てくれるはずだから心配しなくていいのよ」
「うん……そうだよね、わかってる」
お母さんの言葉に私は頷く。確かに、捨てられるとか、処分――口に出したくもないけれど――されるかもしれないだとか、そういう懸念は不思議なほどしていない。それは、ここの人達が私の面倒をきっと見てくれるだろうという信頼が既に出来上がっているからだろう。けれどそれでも――飼い主が見つからないという事がこれほどに哀しいなどとは思っていなかった。まるで、迷子のような気分だ。
三ヶ月が過ぎて、きょうだい達は次々と貰われて行った。ほとんどがここに勤めている方の知り合いだったようだけれど、中にはお客さんで引き取りたいと申し出る人もいた。私もきっと、そのうち誰かに貰われるのだろうと楽観していたのだけれど、現実は私に厳しかった。
寂しそうにここを去って行くきょうだい達をひとり見送りふたり見送り……最後のきょうだいにばいばいを告げた瞬間、私の目の前は暗くなった。どうして? 私って可愛くないのかな。どこか変な様子があったとか? やっぱり人間味がありすぎて気味悪がられた? 考えても、決定的な答えは出て来ない。ひょっとすると小さすぎる体が原因かとも思ったけれど、そこは皆、心配そうにはしていなかった。ひょっとすると私の考える大型犬の成長速度とは違うのかもしれない。もう中型犬、もしくは大き目の小型犬ほどの大きさになっているであろうと思える時間が過ぎたけれど、何故か私は小型犬、例えるならチワワの成犬? くらいにしか大きくなっていない。でも他のきょうだいだって私と体の成長速度は変わらなかったのだから、やっぱり体型が原因でもない。私は途方にくれてしまった。
とにかく最後のきょうだいを見送って少なくはない時間が過ぎ、私はもう生後四ヶ月目に突入していた。このままじゃあっという間に五ヶ月、六ヶ月過ぎちゃうよ。成犬になってもここに居る事になるのだろうか。
「アリスお母さん、ごめんなさい。私の引き取り手が決まらないからって予定より長くここに居なくちゃいけなくて……」
項垂れて呟くと、お母さんはいいのよ、と笑った。
「本当ならもっと早くあなたと離れるはずだったのに、長く居られて幸せよ。他の皆とはもう会えないかもしれないものね」
私ひとりをここに残すのは心細いだろうと気をつかってくれた天音さんが、アリスお母さんの滞在を延ばしてくれたのだ。通いでも私は大丈夫だと伝えたかったけれど、さすがに簡単な意思疎通ならばまだしも、言葉を理解してもらう手段を持たない私にはどうしようもなかった。
いつか引き取り手が決まるかな。優しい人なら誰でもいい、なんて思ったりもするけれど……出来るなら、木崎さんみたいな人がいいな、なんて思ってしまったのは内緒だ。……別にセクハラを受け入れたわけではないんだけれどね。それとこれとは別だから。うん。
お母さんに慰められながら日々を過ごしていた私は、ついにあと一週間で五ヶ月目を迎えるという所まで来ていた。大きさはシーズーが小さくなったくらいかな。チワワよりは成長したかもしれないけれど、やっぱり小さい気がする。
そんな中、子育てを終えて、疲れが出たのか、お母さんは少し体調を崩してしまい、天音さんと一緒に彼女の家へ帰る事となった。お母さんも天音さんも不安気な顔をしていたけれど、私は大丈夫だという意味を込めて元気よく尻尾を振る。そんな私をたくさん撫でてくれたふたりの心が、私には嬉しかった。
「独り、か」
最後の日はお母さんの毛皮で眠って、起きると天音さんに頭もお腹もたくさん撫でられた。私を心配そうに見つめていたお母さんは、しかし帰れるという事実も嬉しいようで、ゆっくりと尻尾が振れるのは止められなかったようだ。天音さんに連れられてゆらゆらと大きな尻尾を左右に揺らすお母さんの後ろ姿は可愛くて仕方がなかった。ああ、その身体をとことん愛でたかった。子犬の身体――もう大分大きくなったけれど――にももう慣れてきてはいたけれど、やはり人間の身体が恋しいと思ってしまう事実は変えられなかった。
迎えた夜は、覚悟していたはずなのに、いつもより寒く、思った以上に孤独だ。静まり返ったオフィスはどこか、長年私を苦しめた場所を思い起こさせる。
消毒の匂い。真っ白な壁にシーツ。点滴。刻まれる機械音――止まる寸前の、呼吸。すべてが消えて無くなったあの瞬間を思い出して、私の身体はかたかたと震える。
嫌だ。もう、独りで死ぬのは、嫌。誰か、傍に来て。温もりが欲しい。
誰か――。
「ルナ!」
垂れた私の耳が、ぴょこん、と動く。犬としての本能なのか、耳を動かす術を私は知っている。人間の頃よりも随分と聞こえるようになった耳を動かしながら、私は音の正体へと意識を集中させた。
「ルナ。ごめんね、独りで怖かった?」
床を蹴る靴の音。乱れた呼吸。小屋を覗くその顔は、少し赤い。走って来たから、なのだろう。
「どうして……?」
戸惑いに呟いた言葉は酷く情けない、何かを乞うような鳴き声になった。どうにも、今の姿になってから嘘が吐けないようだ。感情が直に音として出てしまうようで、私は声を上げてしまった事に少しの後悔を覚えた。
「お待たせ。俺と一緒に、帰ろう」
帰る? 木崎さんと……?
首を傾げて彼を見つめると、今度は木崎さんも私のように首を傾げた。
「あれ? 俺、少し前に言ったよね? これからよろしくって」
不思議そうに私を見つめる木崎さんの言葉を反芻してみる。そういえば、あのセクハラ事件の日に言われた。けれど、それだけだよね? 他には何も聞いていないはずだ。私はますますわからなくて、木崎さんに向って更に首を傾げる。
「……ひょっとして、伝わっていなかった? ごめんよ、ルナ。君の事を引き取るって、もう随分と前から決めてたんだ。今日まで迎えに来れなかったのは仕事が忙しくて、俺自身、ずっと家に帰れなかったから。そんな状態ならここに居るほうがましだろうと思ってたんだ」
ええ!? じ、じゃあ……つまり、木崎さんは、私の。
「きちんと、俺がルナの飼い主になるんだよって伝えておけば良かったね。不安にさせてしまった? ごめんね、ルナ」
私の身体を抱き上げて、木崎さんが眉を下げる。こんな顔もするんだと思ったらなんだかおかしくて、私は尻尾をぶんぶん振ってみせた。もう気にしていないよ、っていう合図だ。
「ありがとう、ルナ」
それが伝わったのだろう。木崎さんが微笑む。
「ぶ」
が、しかし。そこまでは許してないのよ、木崎さん。
私が尻尾を振った瞬間、微笑む彼の顔が間近まで迫ってきた。そうはいくかと私は前足を上げ、木崎さんと私の鼻面の隙間に滑り込ませたのだ。
柔らかいでしょう、肉球。存分に堪能してくれて構いませんよ、おほほほ。
「いいじゃないか。これから俺とルナは一緒に暮らすんだし……」
そういう問題じゃないよ。乙女の唇をそう何度も奪われてたまるものですか。私が首を振ると、木崎さんはひとつため息を吐き、どうしたのか次には微笑んだ。その微笑がなんというか……いつもとはどこか違う雰囲気なのは、気のせい、だろうか。
「帰ろうか?」
ひょい、と私を抱き上げると、木崎さんはどこかへと歩き出す。きっと家へ帰るのだろう。私は黙って彼を見つめていると、先ほどの含みのある笑いを、また彼が浮かべて見せた。
「明日はお休みだし、まずお風呂に入ろう。最後に入ってからけっこう経つだろう?」
え? お風呂……?
「もう俺は君の飼い主なんだ。隅から隅まで綺麗にしてあげるよ」
笑みを深める彼の顔が恐ろしくて思わず逃げの姿勢を取ったが、時既に遅し。どこかに繋がる扉を開いた彼と私は、次の瞬間には見慣れない場所へ立っていた。
ああ、本当にここは私の知っている世界ではないんだ。木崎さんの腕に抱かれて、独りではないのだと実感した嬉しさと、世界とすらお別れしてしまった悲しみが同時に私の内を襲い、彼の部屋なのだろうと認識した頃には酷い疲労感で眠気に抗う事は難しかった。
「おやすみ、ルナ」
優しい声音を意識半分でとらえながら、私は目を閉じた。
なんだろう……妙に温かいなあ。別に今は寒い季節じゃないから、毛布なんてなくても大丈夫なのに。むしろ暑い。
不快感に眉を寄せた――気になっているだけかもしれないけれど――私は、自身の体にのっかっている温かいものをどかそうと前足に力を込めた。けれどどうした事か。軽いと思われたそれは、ずっしりと私に覆いかぶさり、頑張って押してもびくともしない。これ、本当に布団なのだろうか。質感も違うような……。
疑問符が頭に浮かび、私は重たい瞼をゆっくりと開く。
「くすぐったいじゃないか、ルナ……」
かすれた声で私の新しい名前を呼ばれる。そういえば、もうルナって決定なのかな。素敵な名前だし気に入っているけれど。あれ? そういえば……私って人間の時はなんて呼ばれていたかな。犬になってからずっと思い出せずにいるかもしれない。
「ルナ? 起きたの?」
再度名前を呼ばれて、ぼんやりとした視界がクリアになっていく。そういえば、私、布団をどかそうと……。
「ぎゃわわわわん!?」
私は悲鳴を上げたつもりだったけれど、悲壮な犬の鳴き声にとってかわったそれを、木崎さんは煩わしそうな顔で受け止めた。
「ルーナ。もう少し寝よう。まだ早いよ」
微笑む彼の顔が異様に近い! それもそのはずだ。何故だか私たちは同じベッドの上で、寄り添いあうように眠っているのだから。先ほどまでかけ布団だと思っていたそれは、木崎さんの腕。抱え込むように私を懐にしまいこんでいる。どうりで重いわけだ。木崎さんの腕なら私のまだまだ小さい体じゃどかせられない。ていうか私もうすぐ五ヶ月なのにどうしてシーズーくらいの大きさなんだろう。アリスお母さんは大型犬らしい大きさなのに。お父さんが小さい犬種なのかな? にしてもこの月齢までいっててこの成長具合じゃあ、多分小さい方だよなあ。もしかしてこの世界のわんこって寿命長いのかしら? だから成長もゆっくりだったりして? ってだからそうじゃないのよ。
「近いよ木崎さん。暑いし! ちょっと離れようよ、いっしょのベッドで寝るのは別にいいから」
考えたら人間と犬なんだし、別に私だけ照れ臭い気になっているだけなのだろうけれど、単純に感情を取っ払っても暑い。
私がぐいぐいと前足で彼の胸を押していると、木崎さんはますます私を抱きしめる腕の力を強くする。
「木崎さん!」
さっきから、わんわんきゃんきゃん言ってるようにしか聞こえないんだろうけど、私は必死で言葉を紡ぐ。木崎さんは勘が良いから、少しは伝わるかもしれないし。
「んー……仕方ないなあ」
木崎さんが呟くと、つい、と指を振る。何か、魔法使いみたい……って、え? 木崎さんの指先から、緑色に光る何かが出て来た。大粒の真珠程度の大きさであるそれは、まるでエメラルドの宝石みたいだ。目を見開いてそれを眺めていると、木崎さんは結晶化された光が指先から落ちる前に、ぱし、と器用にキャッチして自身の手の中へと握りこむ。
「ほら、ルナ。お食べ」
え? これ食べるの!? こんな得体の知れないものを!?
「俺の一部を凝縮しただけだから、お腹なんて壊さないよ。相性が悪ければちょっと体がだるくなるかもしれないけど」
え、それってお腹壊すのと、どっこいどっこいじゃない? ていうか木崎さんの一部って何? 言っている意味が全然わからない。
考えてる間に私の大きな口を開けて、ぽいっとそれを放り込んでしまった。しかし舌がそれに一瞬触れたかと思うと、まるで氷か何かのようにさあっと溶けてしまう。味も何も感じなかった。え、本当に何これ?
「ほら、少しは涼しくなったでしょ? ルナの体内は冷たい風を感じているはずだから。それは、俺が風と水を作り出す時に使う力の塊なんだ。色々と改良して、体温調節が出来るようになったから、ルナに分けてあげたんだよ」
何それ、何そのファンタジー。ひょっとしてこの世界って、魔法が存在するって事なの?
混乱する私を他所に、木崎さんはとても眠そうな顔でひとつあくびをした。そういえば、激務の後はじめてのお休みなのか。そう考えると、起こしてしまって悪い事をしたなあ。私の腹の虫も暴れていないという事は、まだ朝早いみたいだし……。
「詳しい説明はまた起きてから……ね」
またぬいぐるみのように抱きしめられたけれど、確かに暑さは感じられない。というか、快適。なんだろう、とっても複雑だけれど……眠い。ああもう我慢出来ないわ……ちょっと悔しいけれど。おやすみなさい、木崎さん……。それと、ごめんね。起こしてしまって。