第二話 不思議の国と木崎さん。
くあ。
大きなあくびをしていたら、ころん、と後ろに転がってしまいました。腹丸出しでいやん。どうにもまだ慣れないなこの身体。きょうだいたちにくすくすと笑われております。君たち少し前まで赤ちゃんで何も喋れなかったじゃないか。犬の成長って早いね。
「おいで、もう寝る時間だよ」
お兄さん――木崎さんと言うらしい――が微笑んでお母さんに呼びかけると、お母さんはとても賢い犬のようで、きょうだいに呼びかけながら私たちを窓付近へ誘導していく。
私たちの為に小屋と寝床はこの庭園にも用意されているんだけど、夜は冷えるから、と中に入れてもらえる。毎日誰かが時間になると声をかけてくれるのだ。
「ほら、眠る時間だって」
私がきょうだい一やんちゃな彼に呼びかけると、彼はむすっとした顔をする。
「わかってるよ! まともにあるけないくせにせっきょうするなよな!」
お母さんよりも少し濃い色をした茶色の子犬がきゃんきゃんと喚く。可愛いけれど、発言は可愛くない。なんか、こういう時は言葉通じない方がいいって思う。
がくんと項垂れていると、お母さんがきょうだいの首根っこを甘噛みして持ち上げた。
「おかあさん! ぼくあるけるよ!」
他の子たちに笑われて、彼は足をばたばたと動かし抗議するけれど、お母さんは無言でロビー内へと彼を運んでしまった。
ちなみに私たち、名前はないのです。呼びかける時に不便なんだけどねー。働いている人達の会話でわかったけれど、あと一ヶ月程したら一匹ずつ貰われていくみたいなんだよね。だから正式に飼い主が決まってからそれぞれ名前を貰うみたい。
お母さんの飼い主さんはここの職員さんで、天音さんという綺麗なお姉さんだ。一時的にここで面倒を見ているだけで、私たちが無事貰い先を見つけたらお母さん――アリスという名で天音さんに呼ばわれていた――も、天音さんの家へ帰るらしい。忙しい日は一緒に出勤して来る時もあるみたい。基本的に、動物同伴でも怒られない職場みたい。おおらかだよね。
「今日は木崎さんが当番なのね。あれ? 三日前もじゃなかった?」
私は木崎さんを見て首を傾げつつも、えっちらおっちら慣れない四足歩行で窓まで歩く。私たちの面倒を見るのはどうやら当番制で、天音さんはアリスお母さんの飼い主という事もあってか他の職員さんよりも多く私たちと接してくれているのだけれど、木崎さんもなんかここに立ち寄る事が多い気がするのよね。気のせい?
「本当は今日、風来が当番だったんだけどね。あいつ残業になっちゃって」
あらまあ、それは大変。風来さんてやたらテンション高いお兄さんだよね。私たちの扱いは多少乱暴だけど、ものすごく犬好きみたいで、でれでれした顔でお母さんを撫でたりしてる。力加減がうまく出来ないようだから、風来さんを苦手とするきょうだいもいるみたいだけれど、私は好き。全身から好きだよーってオーラを出してくれる人を嫌うってのも難しい話だ。
それにしても、残業とは大変ね。うんうんと頷いていると、何やら刺さる視線。
「……残業の意味も知っているみたいだねえ?」
ふふ、と笑みを零す木崎さんに、またも私はやられた! とショックを受ける。って、また反応して固まっちゃったよ。だからこれも駄目だって。思う壺だって。しっかりしろ私。誤魔化すように尻尾をぱったんぱったんしばらく振って、木崎さんを見上げつつ首を傾げる。でも……ばれてるっぽいよなあ。
今みたいに誤魔化すのはもう何回目になるのか。これすらも言葉が通じているからこその行為だと既に思われていそうだ。いやまあ、そうなんだけどね。犬はまあ、ある程度は意思疎通が出来る動物だ。飼い主との信頼関係がきちんと築ければ、とても真摯にそれに応えてくれる。私はそんな健気な彼らをとても愛しているのだけれど……うん、私のは異常だよね。自分でわかってる。私だって同じような反応を示す犬がいたら、疑うもの。あれ、この子、私の言う事わかってるんじゃない? て思っちゃうよ。
はふう、とため息をつきながら――犬もため息つくけどこれもやっぱりタイミング的にちょっと人間臭すぎるよね――私は諦観の念を齢二ヶ月? にして抱きつつ、窓枠に手をかけた。しかし皆器用に登るけど、私にはこの段差辛いんだよね。まだ身体の使い方も慣れなくて……この身体になってから一ヶ月くらい経過しているからそろそろ慣れ始めていると思いたい……というかもう立派に動けているはずなのかな? 順応するの遅すぎるかしら。
登るのに苦心して随分と時間がかかってしまったけれど、何とかロビーに入れた。へっへと呼吸を整える為に舌を出していると、ふわりと温かい何かが私を包み込む。
「よくできました」
気付けば木崎さんに抱き上げられていた。最初は驚いていた行為も、すっかり慣れてしまった。人に抱っこされるのってこんなに心地良いのかと最近では新たな発見に目覚めております。
「本当は助けてあげたいけれど、君がこれから生きていく上で必要な訓練だからね」
そうだよね。あまりに足腰弱いまま育ったら後々大変だもの。少し鋭い所があって、怖い人なんじゃないかと疑っていたけれど、すぐにそれは杞憂だとわかった。心配そうに見ていた視線も、心からのものだってなんとなくわかる。動物の、本能みたいなもの、かな? 元人間だけど。
多分、木崎さんは好奇心旺盛なんだよね。そろそろ誤魔化さなくてもいいかなあって思わないでもないけれど、もしも私を貰い受ける飼い主さんが私を怖がったりしたら大変だから、と今から犬らしい仕草の特訓をしているのだ。言い方は悪いけれど、木崎さんくらい鋭い人を欺けたら、いよいよ合格ってものよね。
ロビーの隅にあるお母さんときょうだいの寝床に私を下ろした木崎さんは、おやすみ、と微笑んで頭を撫でた。その瞬間、私は魔法のように眠りの森へと旅立つ。わんこになってから、本当に寝付きが良くなったと思います……ぐう。
窓から差し込む光が眩しくて、目が覚める。ああ、朝か。くあ、と小さくあくびをする。眠る時と同じく、起きる時も随分としゃっきり目が覚める。基本的に犬って眠りが浅いからなのかな。でも私すごくとっぷりと寝ている感覚があるんだけど……まあ、いいか。
平地だと足取りもそこそこ軽く、私は一度も倒れずにお皿のある場所へと辿り着いてからお水を飲んだ。もうお母さんのお乳を吸わなくなってから随分経った。まあ子犬の授乳時期ってけっこう短いのだけれどね。目が開いてすぐくらいだったんだろうなあ、私の意識が目覚めたのって。
うん? 待てよ……そういえば、生まれた瞬間からこの子になっていたわけじゃなかったのよね。今まで考えた事はなかったけれど、ひょっとして本来の魂が宿る器を奪ってしまったのかな……ああ、考えると暗くなりそうだ。とりあえず今は考えまい。成犬になってからまた悩もう。なんだかこの身体、すぐ疲れるし眠くなるのよね。赤ちゃんだからだと思うけれど、けっこう不便。
「おはよう、アリス。ちびちゃん達も、ごはんよー」
優しい声音に耳がぴくり、と動いた。微笑む女性はやはり天音さんだ。黒髪のストレートヘアをなびかせながら歩いて来る。まるでモデルのような体型に、細すぎやしないかと心配になってしまう。私の行動範囲は広くないからわからないけれど、天音さんはシンプルな灰色のロングスカートに白衣を着ていて、どうやら研究職のような仕事をしている方々はそれが仕事着らしかった。ちなみに木崎さんもそうだ。受付のお姉さんやお兄さんは、やはり灰色のズボンとスカートを履いていて、男の人は白いティーシャツみたいな素材のものにボタンが付いているものに同じく灰色のベストを着ていて、女の人は男の人と同じだけれど、上部分と下のスカートが繋がっているみたいだから、正確にはワンピースのような形状だ。そしてベストは着ていなくて、スカーフのようなものを巻いている。制服なんだろうな。でも研究職の方と違い、スカートは膝丈になっている。素材もやっぱり受付の人のが軽いものみたい。研究職の方はどちらかというと伸縮性はあるけれどスーツのような素材のものを着ている。ひょっとすると危険な薬品みたいな物を扱うからかもしれない。
「くろちゃん、おはよう。今日も美人さんね」
「くうん」
天音さんがそれぞれの毛並みから愛称を付けてそれぞれに呼びかけながら頭を撫でる。その手が心地良くて鼻を鳴らすと、天音さんは眩しい笑顔を私に向けてくれる。はあ、美人さんの笑顔って格別。
そう、私の毛並みって黒いんだよね。他のきょうだいもそれぞれココアみたいな色とか真っ白な子もいるからそんなに並んで違和感ないかもしれないけれど、真っ黒なのは私だけ。お父さん犬が黒かったのか、私が元々日本人だからなのか、わからないけれど。でも後者の説が濃厚かしら。毛並みも私の髪質とそっくりなんだもん。細くて基本的には真っ直ぐなんだけど、ちょっとだけくせっ毛だったのよね。柔らかくて、毛先だけくるっとなってるのが私の髪にそっくり。反射した窓に私の顔が映った時、瞳も黒いし髪も黒いからまじまじと観察してしまった。生前の私とどことなく顔も似ているかも? なんて思ったりして。
「くろちゃん? 食べないの?」
言われて気付いた。もう他のきょうだいはごはんを食べはじめているではないか。私もいただきます、と呟いてから慌ててお皿からごはんをいただく。きちんとひとりひとりお皿があるのは有難い。
いちばんほっとしたのは、ごはんが口に合わなくて食べられなかったらどうしようという事だったのだけれど、この世界には恐らくペットフードのような物が存在しないようだ。職員さん達の会話から、動物のごはんのレシピなるものが存在するようで、わざわざ毎食手作りしてくれるみたい。今日も薄味だけれどお肉とお野菜が適切な大きさに切られていて、慣れない動物の口でもとても食べやすい。人間の赤ちゃんもひょっとするとこういうものを食べるのかなあ、なんて考えながら、もぐもぐと咀嚼していた。あんまりやると犬だからぽろぽろこぼれちゃうんだけど、丸呑みはさすがに出来ない。
「美味しい? くろちゃん」
ん? どうしてピンポイントで私に訊くの? 首を傾げながらも私はごっくん、と口の中にあったものを飲み込むと、美味しいよー、と言った。ああやっぱり定番のわん! ていう鳴き声にしかならないですね。ってまたこれ会話しちゃった事になるかな? まあいいかこれくらい。だって味の感想を言うのはマナーだものね! 人間だった記憶があるのだから仕方がない!
開き直ってまたあぐあぐとごはんを食べていた私は、目の前のお皿に夢中で、目を丸くする天音さんの様子には気付かなかった。
「木崎君の言っていた事、あながち嘘ではないかもしれないわね……」
天音お姉さん、このごはん本当に美味しかったです。食べ終えたお皿を鼻面で少し押して、居住まいを正す。
「ごちそうさまでした!」
私の言葉はやはり犬の鳴き声にしかならないけれど、いただきますとごちそうさまを言わないのは気持ちが悪い。お皿を動かすのは、食器を下げてくださいって意味だけれど、伝わらないとなんかおかわり要求しているみたいにも見えるかなあ。まあいいか。
「くろちゃん、まるでいただきますとごちそうさまをしたみたいね」
天音さんの言葉に犬耳が思わずぴくぴくと動く。す、鋭い。木崎さんと言い、研究職の人には一層の警戒が必要かもしれない。しかしここで動揺しては駄目だわ! 落ち着け、落ち着くのよ私。とりあえず、ここはとぼけるのよ!
私は内心の動揺をなんとか隠しつつ、あくびをしながら後ろ足で耳を引っ掻いた。もう完璧ただの犬にしか見えないよね。研究対象とかしちゃいやよ。解剖なんてしちゃいやよ! 私安全安心なただの子犬ですから!
必死でアピールしていると、天音さんは首を傾げてしばらく私を見つめながらも、犬たちの食器を黙って下げ始めた。窓を開かれ、アリスお母さんときょうだいは庭へと移動する。私も四つ足で駆けて後を追った。
それにしても、どうして私には記憶があるのだろうか。それが幸せか不幸せか、考えても答えは出なかった。
昼間はきょうだいと遊び、一眠りして、夜にはまたごはんを食べる。……犬とはいえこんなに楽をしていいのだろうか。ちょっと気が咎めるのですが。
「やあ、おチビちゃん。歩き方もやっとしっかりしてきたかな?」
夜ごはんを食べ終えた所で木崎さんがひょっこりと顔を出した。あら、少し疲れた顔をしていらっしゃる。大丈夫かしら? 首を傾げながら尻尾を振ってみると、木崎さんが小さく微笑んだ。
「佳境になりつつある研究があってね。一時間ほどしか寝ていないからちょっとやつれて見えるかも」
ええっ!? 一時間なんて! そんなの健康に悪すぎる。睡眠ていうのは何よりも大事だってどこかで聞いた事ある。間違った知識かもしれないけれど、一時間だけっていうのが身体に良いはずはない。
「駄目じゃない、木崎さん! 忙しくてもなんとか三時間は寝ないと! 三時間でも辛いけど!」
私の声はいつになく切羽詰ったものだったようで、きゃんきゃんという吠え声はお母さんやきょうだい達を驚かせた。どうしたのだ、と皆が様子を窺いに来る。
不思議なのだけれど、人に向って発した声は、別に日本語になるわけでもないのに、犬には何を言っているのか伝わらないようなのだ。だからこそお母さんも、きょうだいも、どうしたの? と鼻をくんくん鳴らして私に疑問を投げかけていた。
「ひょっとして、もっと眠らないと駄目だってお説教してる?」
きょうだいやお母さんに何でもないよ、と告げていると、立っていた木崎さんが窓枠に腰をかけて庭園に足を下ろす。ちょうど縁側で座っているような格好になった。……いやここ縁側っていう雰囲気まるでないけれどね。
私は木崎さんの言葉に、その通りだと何回も首を縦に振る。その様子に、木崎さんはおや、と目を丸くした。
「いつもならとぼけそうな質問をしたのに。誤魔化すのはもうやめたのかい?」
だって――木崎さんは悪い人ではないってもう分かっているし、言葉がわからないふりをするのは正直疲れるんだもの。木崎さんは誰よりも根気良く私に話しかけてくれた。それはきっと彼の研究熱心な姿勢や、元々の好奇心の強さに因るところなのだろうとは思う。けれどそれ以上に、私とお話をしたいと思ってくれてるんじゃないかなって、期待をしてしまったのだ。
いいえ――そうじゃない。私が、いつしか木崎さんとお話をしたいと望んでしまったのだ。きっと。
私は木崎さんの足元まで歩いて行き、前足を彼の足にかけた。抱っこ要求である。……伝わるかな。尻尾もゆらゆらと揺らしてみる。
「今日は甘えたさんだね。嬉しいけれど」
ふふ、と笑って私を抱き上げる木崎さんは、やはり誰よりも勘が良い。そして私と意思疎通をはかってくれる意識が強い。それがやっぱり、すごく嬉しい。
「木崎さん、無理しないでね」
ぱたぱたと尻尾を振りながら、前足に体重をかけて木崎さんの腕をお借りしつつ間近にある彼の顔へと自身のそれを寄せる。
ぺろり。
想いが伝わりますように。そう願いを込めて、木崎さんの頬を親愛の情を込めて一舐めした。
「…………」
あれ? てっきり喜んでくれるかと思ったんだけど……外したかな。どうしよう、潔癖とかだったら。怒らせちゃった!?
あわあわと慌てる私をしばし呆然といった風情で見つめていた木崎さんは、やがてどうしたのか直視するには眩しすぎる笑顔を顔中に湛えた。
あれ? どうしてだろう、キラキラした笑顔を見て幸せに胸がほっこりすると思ったのに、なんか、こう、悪寒のようなものが……?
「俺も愛しているよ――ルナ」
戸惑う私を他所に、木崎さんは何を思ったのか私と視線を合わせると――キス、をした。
く、口に! 間違いなく! 今! 何か、柔らかい何かが触れた!
ていうか、何、俺も愛してるよって何? そしてルナっていうのは私の名前ですか? どういう事? ねえ、もうちょっと色々と追いつかないんですけど!
ていうか私のファーストキスうううう!
気付けば私は犬パンチで木崎さんの顔をべしべししながらキャンキャンと甲高い声を上げていた。
「あはは、痛いよルナ。ごめんごめん、突然でびっくりした?」
突然とかそういう事は問題ではない。確かに私は犬だけれど、中身は乙女なのだ。私だって飼い犬にチューくらいしてたとかそんなもの関係ない。なんたって誰がなんと言おうと心は乙女な私なのだから! いくら木崎さんを人間的に好いているとしたって、あなたに恋をしているわけじゃない。そこの所を勘違いしないでくれたまえ! 無断キス、ダメ、絶対!
混乱した私は必死で木崎さんに抗議の言葉を浴びせていたけれど、もちろん彼には子犬が喚いているようにしか映らない。必死で吠える私を、木崎さんはただ微笑ましいといった様子でにこにこと見つめているだけだった。くそう、子犬だからって馬鹿にして! 二度目はないんだからねっ! あとそろそろ下ろしてください。セクハラ木崎さんの近くにいるのは危険だわ。
木崎さんの胸を押して私が懐から抜け出そうとするのを、しかし木崎さんは許してくれない。子犬と大人では当然、力ではかなわないので、しばらく抵抗していた私は結局疲れて動きを止めた。ああ、情けない。
「これからよろしくね、ルナ」
私の頭を撫でながら微笑む木崎さんの発言に首を傾げながらも、その手が心地良くて瞼が重くなる。
ああもう、我慢出来ない……おやすみなさい。