第一話 不思議の国と私。
身体が重い。いつもの事だ。ここ一年、急激に弱っていく身体を目の当たりにしながらも、周囲には笑って大丈夫だなんて言っていたけれど。
真っ白い風景にも見慣れて、そろそろ自身の部屋がどんな壁紙だったか思い出せなくなっていた。点滴。規則的な機械音。最初は独特だと感じていた匂いも、もはや違和感はない。健康だった頃、私は何が好きだったっけ。
急激に意識が遠のいていく感覚があり、ああ、もうなのかな、と思った。両親や気の置けない仲間たちが、あまり悲しまないでくれるといい。欲を言えば、恋人ってやつがどんなものか知りたかった。この年齢で恋人が出来た事がないだなんてもう枯れてる所じゃない。
この年齢? 私、今何歳だっけ。成人はしていたはずで……それで、それで――あれ?
私って、なんて名前だっけ?
途切れ途切れだった電子音が鳴り続けるのを耳が確認した時には、何かに引っ張られるかのように、急激にその場所から引き剥がされる感覚が私を襲った。
おなかがすいた。
とてもシンプルな感情が私を支配した。だってものすごくお腹が減ったのは事実なんだもの。ぐうぐうと鳴ってるの、これ完全に腹の虫ですよね。どうした私。確か……あれ? 死んでも人間ってお腹すくものなのかな。
死んだ?
認識した瞬間、体内をざわりと駆け巡る悪寒。震えながら目を覚ますと、目の前には見慣れぬ何かがあった。
あれえ? 目が、覚めた? どういうことだろう。ひょっとして死後の世界とか? でも視界いっぱいに広がるこのふさふさはなんだろう。
私は疑問符だらけの頭を抱えながら、首を傾げつつ右手で目の前にあるそれを触ってみる。カーペットみたいな壁だなあ、なんて思っていたのだけれど、それはあまりに柔らかい。よくよく見ると、どうやら巨大な生物の腹のようだ。と、理解した所で、私はまた青くなる。ま、まさか私、食べられちゃうとか?
「きゃいんっ!」
えっ!?
パニックになりかけた私は悲鳴を上げると、何故かその声は人間のそれではなく、まるで子犬が鳴いたかのような声になった。
え、え、え? ちょっと待った、本当にちょっと待ってよ。これってどういう事なの?
益々パニックに陥りそうな私の背中を、ぬるりとした何かが触れた。ひええっ! とまた悲鳴を上げた気でいたけれど、口から出たのは、きゅおん! という子犬独特の鳴き声。これって、やっぱり……。
恐る恐る先ほど右手だと認識していたものを見てみると、やはり。肉球だ。紛う方なし肉球である。ていうか、ラブリーだ。桃色の肉球は柔らかそうで、飽くことなく延々とぷにぷにしたい。私が人間だったらの話だけど。そうだよこれ犬じゃん、犬の手じゃん。いや、犬なんだから手なんてないよ前足だよ! っていう自己ツッコミも、もういいよ!
「くぅん……」
どういう事なの? と口に出すとまた可愛らしい鳴き声。自分だったら思わず抱っこしてどうしたのって撫でてしまいたくなるようなラブリーな……ってそれももういいわ。私そういや生前犬好きだったし実家でも長年犬飼ってたわ。だからか、さっきから可愛いなと思っちゃうのは。ややこしい感覚だなもう。
でも、おかしいな……普通、犬や猫は色を認識出来ないはずだから、世界はモノクロになるはず。だというのに、私はふにふにの肉球が桃色だと認識出来ている。目の前のお腹にしてもそうだ。ミルクティー色の、白に近い茶色の毛並みがきちんと認識出来ている。これってお母さん犬かしら?
「あれ? そういえばさっきのって」
またきゅうきゅうという声になったけれど、もう気にしない。私はとりあえず一歩離れてみようと立ち上がると、四つ足が慣れていないせいか、はたまた赤ちゃんだからなのか、ころりんころりんとその場で転倒したあげくに三回ほど身体が転がってしまった。目、目が回るぅ~。
「あらあら、駄目よ、離れては」
困ったような声を出すのは、ミルクティー色の毛玉の正体。
「……ゴールデンレトリバー?」
思わず犬種を呟くと、お母さん犬はきょとんとした顔で首を傾げる。うおおおおなんて可愛い……! いや、だから。今の私じゃあ頭を撫でる事も出来ない。その事実に落ち込みながらお母さんらしい犬を見る。わあ、お乳飲んでるよ子犬が! ひい、ふう……全部で五匹。てことは私含め六匹も産んだのかあ、すごいなあ。困り顔していたのがよくわかった。私を回収したくとも、動けないよね、それじゃあ。
段々と冷静になった私は、生まれ変わったのかなあ? なんてぼんやり考えながら、お母さんに大丈夫だと声をかけてみる。すると可愛いゴールデンちゃん――なのかはわかんないけど――は微笑んであまり遠くに行っては駄目よ、と言った。犬の言葉わかるのね、当たり前かもしれないけど。けっこう感動です。
それにしてもここどこかしら? 檻の中でもないし……かといって普通の人の家って感じでもないのよね。公園? でもないか。整った庭は広いけれど、さすがに公園まではいかない。綺麗に整えられている庭園の木々よりも高い壁のようなものは石造り? なのかな。ぐるりと囲っているようだから、やっぱり豪邸か何か、お金持ちの家の庭なのかなあ? 目の前に大きな窓がある。足場があるから、行ったり来たりすぐ出来るようになってるみたいだ。カーテンはされていないから中の様子はよくわかる。
「……オフィスっぽく見えるのよね」
会社なのかな? 家なのかな? どっちだろう。左側の、もっと奥に恐らくは出入り口があるのだと思う。人が流れていくのがわかる。出入り口自体は見えないのだけど、窓の視界ぎりぎりに見えるのはちょうど病院なんかの待合室のようにたくさんのソファや椅子が置かれている様子。窓の正面にはこちらを向いたお姉さんやお兄さんが座って、受付の様相を呈している。お姉さんたちの真正面に椅子が用意されてるから、本当に受付だと思うんだよねあれ。どう見ても対応窓口だもん。あ、やっぱり、お客さんらしき人が対面してる。……本当にどこなんだ、ここ。
なんていうのだろうか。日本ぽさがなくはないんだけど、現代的な部分が薄いんだよね。そもそも石造りの建物なんて滅多にないだろうし、インテリアもどことなく中世? というか。でも時代遅れのようにも見えない。服装は現代のものよりシンプルながらも、ロールプレイングゲームのようなごつごつとした格好をしている人はいないし。けれど感じる違和感は、なんだろう。
しばらく首を傾げて、気が付いた。ああ、電子機器のようなものが視界に映らないからだ。待ってる人たちも携帯電話のようなものを持っていないし、待合室にテレビがない。もしかすると、そういう文化がないということだろうか。あれ、本当にここは、というか、この世界は、なんなのだろう。
「おチビちゃん、どうしたんだい、こちらをじっと見つめて」
思考に耽りそうになった時、眼前にやたら整った顔が迫ってきた。どうやら窓を開けてこちらの様子を窺いに来たようだ。お兄さんは足場を下りて、庭園に足を踏み込みつつ屈んでは私の方へと迫る。
うおおおお!? やめろおおお! こちとら免疫なんてないんだぞ! さらさらの赤みがかった茶色い髪とくっきりとした二重の綺麗な青い瞳。肌の色は日本人に近いからか、彫が多少深くともどこか馴染みがあった。そういえば、窓から覗いた人たちも一目見て日本人ぽい顔とか、明らかに外国の血っぽい顔とかいたな。けっこう色んな人種の方が住んでいる土地なのだろうか。
あ、でも日本語喋ってたこの人。口の動きも日本語だし。じゃあここって日本? ますますわからないな。
うんうん唸っている声は、どうやらくんくん鳴いている声に変わっていたようで、目の前の男性が困り顔を見せた。
「お母さんの近くじゃないから怖いのかな?」
よいしょ、という言葉と共に私の身体がふわりと浮いた。
うわあ! しゃがんで顔を覗きこまれていたさっきよりも顔が近い! 抱き上げられたんだ! 身体がけっこうがっしりしてるから鍛えてるのかな……ってもうやっぱり近いよ!
あわあわとパニックになりながらおろしてーと叫ぶと、お兄さんは苦笑する。
「わかったわかった、お母さんの所に連れて行ってやるだけだからおとなしくして。落としてしまうよ」
じたばたと四本の足を動かしていた私は、お兄さんの言葉に動きを止めた。
そうか、なんだ、ただ運んでくれようとしてただけだったのか。考えたら当然だ。私は今、子犬なのだから、叩いたりされない以上、相手に害意などあるはずがない。鏡で見たいなー。ころころしててそれはもう殺人級の可愛さなんだろうなあ。でもやっぱりそのもふもふを愛でられないなんて、せつないわあ……。
しかし、私が暴れなくなったのを疑問に思ったのだろう。怪訝な表情でお兄さんは私の顔を懐におさめた状態で更に覗きこんだ。
「……僕の言葉がわかるのかい?」
え? そ、それは……。やばい、まずったかな。実験動物よろしく解剖されたらどうしよう。この人がどんな人なのかもわからないし、ここは無難に、首を傾げておくことにした。
くうん、て鳴きながら首を傾げる犬ってもうそれはそれは可愛いよね。私は何度、鼻血をふきそうになったことか。気持ち的には何度も血を流してましたけれどもね!
「……まあ、いいさ。はい、お母さんの所でおチビちゃんもお腹を満たすといい」
お母さんのお腹へ私を着地させると、お兄さんは私を撫でたあとにお母さんの頭も撫でていた。おお、お母さん犬がお礼を言っています。わあ、言葉わかるってやっぱり感動するなあ。
ぐぎゅるるるるる。
感動もそこそこに、私の腹が盛大な抗議の声を上げた。お前なにしてんだよ! 現状把握の前にまず腹ごしらえだろ、腹ごしらえ! と、お腹に説教をされてしまった気分だ。そういえば、空腹で目が覚めたのすっかり忘れていたわね。
「大きくおなり」
私の腹の虫を確認したのだろう。くすくすと笑いながらお兄さんは建物内へ戻って行く。はっ! 窓からこちらを見ていた受付係っぽい方やお客さんぽい方もこっちを見てにこにこしている! な、なんか恥ずかしい。
「あなたも飲みなさい」
お母さんにもそう言われて、私は複雑な心境でありながらも目の前のお乳にぱくついた。とっても懐かしいような味が口いっぱいに広がって、本能なのか、気付けば私は前足でぐいぐいお母さんのおっぱいを押しながら、お乳がもっと出るようにと夢中で吸い付いていた。ごっきゅごっきゅと喉を鳴らしながらお乳を飲むその姿を、まるで慈しむように見つめるお母さん犬を見て、私は、この人生……いや、犬生も悪くはないのかもしれないと思い始めていた。
しかし、もしも神様がいるのだとしたら、ずいぶんと雑な仕事をするものだ。
人間だった時の記憶なんて、邪魔なだけじゃないの。