微瞑むように 【番外編 ジスティアス家の家庭の事情】
※この作品は「第三話 少女貴族は野望を抱く」の後日談です。
多大なネタバレがありますので、先に第三話を読了されることを強くお勧めします。
第三話⇒http://ncode.syosetu.com/n2129b/
少女は逃げていた。
荒い息で空気を掻き込み、縺れる足で絨毯を蹴り、必死の思いで逃れる為に走る。廊下の両側には沢山の扉が少女に手を拱いている。しかし、それらの中に飛び込めば、お仕舞いだ。捕まってしまう。あいつは鍵を持っている。この屋敷に存在する、ありとあらゆる扉全ての鍵を。
葡萄酒色の絨毯の廊下は、どこまでも果てしなく続くように思われた。けれども終わりは必ず訪れる。
少女はついに突き当たりに直面し、思わず足を止めた。慌てて周囲に視線を廻らすが、あるのは窓だけ。ここは三階だ。とてもじゃないが、飛び降りる事など出来はしない――特に、少女のようにか細い脚では。
「さあ、そろそろ観念したらどうです」
冷たい声が少女の背中を這う。身を竦ませ、少女は壁に背中を打ちつけた。恐怖に目を見開き、ゆっくりとこちらへ歩んでくる敵の姿を凝視する。
相手は無表情のまま、自らの力を誇示するように両腕を広げた。
「く――来るなッ……」
「気紛れを。命令したのは、あんたでしょう」
それはそうだけど、と呻き、少女はかぶりを振る。迫り来る相手の威圧感に足が竦み、動かない。腰が抜けたように、影に縛り付けられるように、少女は身を凍らせてただ喉を鳴らすしか無かった。
「やだ、あっち行け! 命令は撤回だ、何もするな!」
「駄目ですね。私はあんたを、あ――」
そこで相手は口を開いたまま止まり、考え込むように宙を見据えた。その挙句に続ける。
「アホだと思ってますから、教育の意味も兼ねて言葉の重さというものを実感して頂きます」
「うわあん!」
「さあ、今こそ――」
相手はばきばきと指を鳴らした。その無表情な萌黄色の瞳には、暗い炎が宿る。
「――抱っこを!!」
「ひいい!」
どんな言葉も届かない。この男は、やると言ったらやる漢だ。やらなくて良いと言ったらもっとやる漢だ。やめてくれと言ったら嬉々としてやる漢だ。
少女は手をぶんぶん振り回し、必死に相手を傍へ来させないよう尽力する。
だが、それも無為な事。
男の手が少女の暴れる腕を掴み、次の瞬間、少女は男の腕の中に――
「いぎゃああああぁぁ!!」
――そして、渾身の一撃が男の顎を直撃した。
ディルムラントは苦り切った顔で青年を見下ろしていた。
「というわけで、膝に来ました。やはり彼女は天才だ。良い右を持っている」
青年はソファに横たわったまま、尊大に父を見上げる。彼の口上が終わると、ディルムラントは深い深い溜息と共に寝台に腰を下ろした。何かひどい絶叫と共にひどい打撃音が聞こえたと思って部屋から顔を出してみると、扉の前で伏臥する息子と栗鼠のような素早さで廊下を駆けてゆく娘の姿が目に映った。何が起こったのだ――と聞くまでも無いが、一応、聞いてみた。高貴なる者の心遣いというやつだ。そうしたら、案の定だ。
「お前は馬鹿だ」
「知ってます。が、父上に言われたくない」
アイスグラントは平然と返し、それから身を起こした。ソファに座り直して膝の具合を確かめる。ウルナに貰った顎の一撃の衝撃は落ち着いたようだった。
「それにしてもいぎゃあああは無いでしょう、いぎゃあああは。そもそも抱っこしてくれと言ったのは彼女の方なのに。相変わらず気紛れな人だ」
「……人も殺せそうな顔で迫ってきたら誰だって逃げるだろう」
「仕方ないでしょう。私は彼女を愛してるんですから」
これまた平然と告げる息子に、ディルムラントはこめかみを押さえて項垂れた。眩暈がする。貧血も起こる。幻聴であれば良いのにと思う。
執事としてジスティアス家に仕える様が実に堂に入ったものになっている息子。
この屋敷で彼がアイスグラントである事を知る者は、最も古いメイド頭と靴磨きの爺さんだけだ。
対外的にも、公式に彼がジスティアスの執事である事は周知の事実となっている。
この状態で彼がディルムラントの実子であり、ウルナが赤の他人の平民であると告げる事は、没落への最短距離に思えた。つまり、既に息子は執事なのだ。紛れもなく、間違いようもなく。
「なあ、アイスグラント。我々ジスティアス一族は悪趣味だ。ちょっとどこか病気かと思うほど悪趣味だ」
「今更何を」
良いから黙って聞け、と俯いたまま鋭く嗜める。アイスグラントは言いつけどおり、沈黙した。
豊かな白髪を両手で撫で付け、豪奢な自室の絨毯を見下ろしながら、ディルムラントは続ける。
「曽祖父は記念日狂いだった。毎日何かしらの記念日を作って、何かしらの祭をした。こんにちのガレナ州の祭日のほとんどはこの時作られた実に適当な記念日の中から選ばれたものだ。大叔母は虫狂いだった。死体にたかる虫を観察しては嬉々として記録し続けた。こんにちのガレナ州の変死体の検死が国内随一なのは、彼女のこの死体を食う虫の観察帳の賜物だ。はとこはワカメ狂いだった。執務をほっぽりだして領海の海という海にワカメを植えつけて回った。こんにちのガレナ州のワカメの質が近海随一なのはこの時の採苗のおかげだ」
そして私は、と嘆息と共に呻く。
ディルムラントは言うなれば義賊狂いだった。
彼は若かりし日、身分を偽り、平民として街に繰り出し、平民と共に飲んだり遊んだりを毎日繰り返していた。そして周囲の平民が、唐突に理不尽な犯罪の被害に遭うのを見て、激怒する。陥れた相手を犯罪者として告発し、領主として裁く。罪人から巻き上げた金銭を、自らの身分を隠したまま被害者の元へそっくり届ける。いわゆる義賊のようなものだった。彼のその秘密を知る数少ない友人が、彼をモデルとした「聖騎士シリーズ」を執筆刊行している事を知る者は殆ど居ないだろう。この際培った裏社会に対する嗅覚と人脈は、こんにちのガレナ州の治安維持において如何なく発揮されている。
「だが、お前は何だ!」
突然怒鳴りつけられ、アイスグラントは片眉を上げた。
ディルムラントは顔を上げ、頬を紅潮させ、豊かな羽毛の詰まった寝台の上で胡坐をかく。
「長きに渡りガレナの長たるジスティアス家において、頭首の血筋をすり替えたのはお前を置いて他にいない! 何という馬鹿げた事をしたか理解しているのか、アイスグラント!!」
「ですから、私が彼女と結婚すれば良いんでしょう」
前領主は拳を握り締める。血を出さんばかりに唇を噛み締める。
平然ととんでもない事を、ある意味でジスティアス家としての素質に満ち満ちた事を抜かす息子を――血を出さんばかりの両眼で睥睨する。
「……私がアリスニーナと出会ったのは、私が三十五の時。アリスニーナが十四の時だ」
「ほう。随分な歳の差で。これもヒトの遺伝というやつですね」
「黙れ放蕩息子、聞け! ……アリスニーナは王の姪だった。彼女がお忍びでガレナの街に遊びに来た時、私は平民として彼女に出会った。そして一目で理解したのだ。私が生涯愛すべき人は、この女性ただ一人だと」
アリスニーナは黒髪の豊かな、優しい相貌の娘だった。食堂で出された平民の菓子の食べ方が分からず、侍女と一緒に困惑していた。酒を飲んでいたディルムラントはすぐに席を立ち、彼女の元へ突進した。そして求婚した。唖然とする相手に目もくれず、ただひたすらに求婚した。正体も分からぬ平民の男の尾篭な振る舞いに激怒した侍女に殴られ、蹴られ、刺され、投げられ、捻られ、それでも必死に求婚した。するとアリスニーナはくすりと笑って、面白い方、と呟いた。
そして二人は結ばれた。
血筋を見ても申し分ない、次代のロードの礎となる最高の二人だった。
「だが、アリスニーナはお前を生んだ後、たった数年でこの世を去った。春風のような人だった。私は彼女だけを愛し、彼女以外は必要無い。彼女と私の愛の証であるお前がいれば、もうそれで何もいらない――それなのに」
アイスグラントは眉を顰めた。
小さく呻き、そして素早くソファから立ち上がって遁走しようとする。けれどそれより早くディルムラントの手が青年の襟首を掴み上げ、もう片方の手が首に回る。
アイスグラントは今度こそ本当の呻き声を上げた。老人とは言え、若い頃に暴れまわった父の体さばきからは逃れられない。散々学習した事だったが、それでも矢張り反射的に腕は相手を突き放そうとする。矢張り無駄だった。父が耳元で怒鳴る。
「それなのに! お前はどこの馬の骨とも知らない娘と結婚するという! 私が見立ててやった婚約者を捨ててまで、あんな娘、あんな娘、どこが良いんだ! 痩せてるし尻は小さいし馬鹿だしアホだし平民だし全然良い所無いじゃないか! やめなさいアイちゃん、あんな娘なんかやめなさい!!」
「婚約者はあっちから破棄してきたんですよ、もういい加減に子離れして下さい父上! どっちにしろ私が彼女と結婚しないとジスティアス家が絶えるって言ったでしょうが!」
いいもん、と泣き喚きながらディルムラントはアイスグラントを抱きすくめる。
「アイちゃんがどこの馬の骨とも知らない女のものになるくらいなら、ジスティアス家なんか滅びればいいんだ!」
「滅茶苦茶言うな! あんた母上の孫の顔が見たくないのか!」
「見たいけどまだ先でいいもん! パパ上はアイちゃんとずっと一緒にいるんだもん!」
「きめええええ!!」
全身に鳥肌を立てて父から逃れようとするアイスグラント、二十七歳。
顔中の穴という穴から水を流しながら息子を抱きすくめるディルムラント、六十ニ歳。
二人は、小さな物音で我に帰った。
一斉に扉の方へ顔を向けると、小麦色の肌に銀髪の少女が、廊下から半分だけ顔を覗かせていた。
顔を蒼くする二人に見据えられ、少女はびくりと体を揺らした。そして静かに、そっと、体を引っ込め、扉を閉めた。ぱたんという小さな音が室内に響いた後、そこには静寂だけが残る。
アイスグラントは父を突き放すと、乱れた襟元を正しながら「少し」とこぼした。
「――彼女の気持ちが分かりました」
「……そうか」
「無理矢理は、よくない」
「……なあ」
極端にトーンダウンしたディルムラントが、呟くように青年の背中に声をかける。
「本気なの?」
「多分、父上が母上を想う程度には」
「……お前を教育係にしたのが過ちだった」
「父上。彼女に優しくしてやってください。彼女は私の被害者で、可哀想な娘だ。『お祖父様』である貴方に優しくして貰えれば、それで随分救われるはず」
「……難しい道程だぞ。お前は呪い持ちになったと言う。本当の想いを伝えられないのに――」
アイスグラントは初めて笑って見せた。父に背を向け、扉のノブに手をかけながら、独白するように告げた。
「それでも、好きなんです。大好きなんです」
ディルムラントは諦めの息を吐く。
我らは言い出したら聞かない。ジスティアス一族は常に自分勝手で、それでいてある日突然大人になる。
子離れする時期を指折り数え、前領主は目頭を押さえた。
少女は豪奢な階段の丁度真ん中で座り込んでいた。
青年が隣に腰を下ろしても、まるで反応せず、ただじっと膝の上で組んだ自分の細い指を見つめている。
「すみませんでした」
少女は瞬きで返事をする。アイスグラントはウルナの機嫌を伺うように、そっと彼女の銀髪を一房撫でた。「もう、貴方の嫌な事はしませんから」
その言葉に目を潤ませ、少女は鼻をむずむずさせる。それから小さく洟をすすり、ぽつりぽつりと言葉を落とした。
「私、素直になれないんだ」
擦れた声だった。悲しみを堪えるその声音に、アイスグラントは胸が痛んだ。彼女の胸の痛みの倍、自分の胸が痛めばいい。過去の自分に対する怒りと後悔で心が満ちる。
「本当は抱っこして欲しいのに、言えないんだ。恥ずかしくて、拒絶されるのが怖くて、言えない」
ウルナが膝に顔を埋める。
誰が拒絶などするものか、とアイスグラントは彼女の細い首筋を見た。彼女が望むなら、命さえくれてやるのに。
静かにウルナの肩に腕を回す。少女は拒絶しなかった。青年の左腕に抱かれながら、くぐもった鼻声で続ける。
「お前ばっかり、ずるいよ」
「――何がです」
ずるい、と再度。
少女の細く柔らかい肩を手中に収める事の至福は、想像以上のものだった。だからアイスグラントは、次の言葉を危うく聞き逃すところだった。
「お前ばっかりお祖父様に抱っこされて、ずるい」
「は」
お祖父様?
「バトラーでさえ抱っこされるのに、私は抱っこされない。ずるいよ。……お前なんかだいっきらいだ」
潤んだ空色の瞳を上げ、唖然とする青年を映すと、ウルナは立ち上がって階段を駆け下りて行った。アイスグラントは、硬直した。硬直したまま、随分長い事階段の真ん中で座り込んでいた。
「ふふ」
笑みがこぼれる。乾いた風のような笑い声が。シャンデリアを見上げ、むなしい哄笑を上げる。
「はは、お祖父様か。そうか、そっちか。あはははは」
彼女が本当に抱っこして欲しいのは、バトラーではなく、お祖父様だなんて。
全く、世の中は上手くいかない。
人間関係はすれ違いで構成されているのではないかと疑うほどに。
「どうしたのだ、アイちゃん……娘に何か言われたか?」
心配そうな声が降ってくる。
階段の上で、手摺の隙間から様子のおかしい息子を見下ろすディルムラントがいた。青年は今日一番の笑顔を浮かべてみせる。
「あんたなんかだいっきらいだ」
「へっ!?」
愕然と顎を外した父が再び泣き喚いて突進する前に、アイスグラントはさっさと階段を下りた。
空虚な胸を抑え、どうやってウルナをフォローするか考えつつ、あわよくばもう一度あの柔らかい幸福の感覚を取り戻せないものかと画策しながら。