やってきた親善大使(1)
エンヤの言葉は正直こたえた。自分が何者かも分からない。唯一手がかりになりそうな身体に残されたあざさえも、訳の分からない古代の言葉であったうえに、意味不明。解こうとすれば呪われるというとんでもない代物で。しかもそんなものが本当の名前だとは。
はあ・・・。ため息もつきたくなるというものである。
「…何でブライドがため息をつくの?」
「まったくだよ。当の本人はこのとおりなのに」
「お前は、無反応すぎるんだ!」
ツッコミをいれて、しかしどうしたものかと、ブライドは考えあぐねる。
あれから・・・念のためにと、エンヤを寝室へと運んだあと、彼女は自分自身でこしらえておいた薬湯を飲んで、一息ついたところだった。
「うむ、、、美味い。さすがに作り手が違うと味も違うね」
自画自賛なそんなセリフに二人は顔を見合わせる。この分なら心配はないだろう。そう思ったところで、ブライドは上記のような事を思ってしまったのである。が、結果は言うまでもなく。ほとんど意に介していない本人に、むしろ肩すかしをくらってしまったブライド。
本当に何を考えているんだろう、こいつは・・・・。
だが、一度かかわったからには、放っておくわけにもいかない。ふう。ブライドは息をついたのだった。
エンヤの住居から数キロ。壮麗な建物・・・・濠を巡らせた・・・おそらく城であろう。その城内では、小さな騒ぎが起きていた。
“もう時間だというのに”
“――様はいったいどちらへ…?”
召使い達の間でひそひそと囁かれる言葉。しかし、それも近づいてくる足音に、ぴたりと止む。床や柱を磨いていた者も、花びんに花を生けていた者も、それぞれの与えられた仕事へと戻った。見張りらしき兵隊も、足音の主が通りがかると、背筋を伸ばし、敬礼の形をとる。それを軽く片手で制しながら、顔は仏頂面のままの男。年の頃は24.5歳か。
(まずいな)
彼は、心の中で舌打ちしていた。
やや赤みがかった髪、いかにも真面目そうな、というより笑顔が全く似合わないであろう男。
(王子も王子だ。よりによってこのような日に・・・・!)
「何か問題でも?」
すぐ後ろからかけられた声に、我に返り、口をつぐむ。できれば、この人物には悟られてはならない。
「そんなに警戒する必要はないでしょう? ボクの肩書きはあくまでお隣の友好国の一王子。といってもなにさま子沢山な家系だから、ボクの地位なんて低い低い♪ 別にあなた方をとって食おうってわけじゃないんだし」
言いながら、遠くからこちらを伺い見ている侍女たちに手を振る。頬を朱に染めて、侍女たちはうつむいた。
「へえ〜、ここの女性たちは、皆恥ずかりがりやさんだねー。うん、かわいい、かわいい」
「ホナミ様っ!!」
声を荒げられて、ホナミと呼ばれた少年は笑った。男をなだめるように、手をひらひらとさせる。
「まあまあ、落ち着いてください、エアトス殿。ほんのお茶目ですよ。」
なにがお茶目だ。
「むやみに彼女たちにちょっかいを出さないで頂きましょう。彼女たちには彼女たちの仕事があります」
「でも、ボクの国ではボクの相手をしてくれるのも、ああいうコたちの仕事のうちだよ?」
「あなたの国ではそうでしょうが、我が国は違います。親善大使としていらっしゃっているとはいえ、我が国におられる間は我が国の習慣に従って頂きます」
ぴしゃりと言い放たれ、ホナミは肩をすくめた。
エアトス・・・・。その名前は自国にも有名だ。戦場で彼と対峙した者は生きて帰れないとか、常に公明正大で、とある大臣はその汚職の為に、彼より地位が上であったにも関わらず、切り捨てられた、とか。しかし、話には尾ひれ胸びれがつくものだ。全ての噂を、ホナミは信じているわけではない。
第一、戦いなんてここ数十年久しくないし、彼だって生まれてないだろ。おかしいよ、その計算。それに、生きて帰れないのにそんな噂が広まってること自体が変だ。大臣を切り捨てたっていうのも、どこまでが本当なのだか・・・。
国を維持する官僚体制は必要だ。なかには悪質な者もいよう。だが、それをすぐに排除してしまえるほど、国家というものは単純ではない。
ただ、確かに想像以上の堅物ではありそうだけどね。どちらにしろ、賄賂や不正などとは縁のなさそうな男ではある、かな。
それに、そんな噂がたつ程に、エアトスというこの側近が、この国にとって有能な者だという証なのだろうと思う。
そこで、ホナミはふと表情を変えた。
・・・・・・・・少し、手強いかもしれないな・・・・・
時を同じくして、エンヤの家。ふいにブライドは声をあげた。
「!! まずいっ、そろそろ戻らないと」
はたと、気がついたようにエンヤも言った。
「ああ・・・・そういえばそうだったね。うむ、本当に早く戻ったほうがよいだろうよ。なにさま、お前がいなくては話になるまいて。いくらなんでも、隣国から来た親善大使に対して、出迎えるべき王子が行方不明です、というわけにはいかないさね」
そこで、黙って聞いていたティナが口をはさむ。
「・・・・・・王子・・・・・?」
「…悪いが説明は後だ。時間がない」
ブライドはそう言うと、ティナにその手を差し出した。
「一度関わったことだ。お前の面倒はしばらくみる。今はとにかくオレと来てくれ」