風の王子
「・・・・いらっしゃったか?」
「いや・・・・」
おそらくは先程誰かを探していた一団のうちの二人だろう。ほんの数分前まで少年と少女がいた場所に、彼らはいた。
深いフードつきマントのようなものに身を固めているため、性別は不明だが、声から察するに壮年の男達であろうことがうかがえる。
「まったく…困った方だよ、本当に…!」
大きくため息をつくと、「そう遠くまでは行かれていないだろう。もう少し向こうのほうを探そう。」と、指示を出す。
「そうしよう。」
もう片方の男も頷くと、やがて二人はその場を離れていったのだった。
「すまない…驚かせたか?」
出来るだけ優しく、少年は話かける。
「ほんの少しだけ、ね。」
少年の腕に抱かれながら、少女はゆっくりとした返事をした。そして、そっと下へと視線を移す。今の自分の足元には何もない。二本の足で立つべき地上は、はるか下方にあった。目眩がするほどの高さだ。
今、自分は空中にいる。頬に当たり、髪をなびかせる風、見渡す限りの空の青さ、そして遠くに見える山々と地平線が、その事を実感させてくれる。
気がついて早々、自分はとんでもない体験をしているものね…、少女は心もち笑った。
「・・・・・降りるぞ。」
そして、二人は静かに地上へと降りてゆく。落ちる、というのではない。
まるで風に包み込まれるように、まるで春風が地上へ吹きつけるように・・・柔らかく降下していく。
風の一部になるかのような感覚・・・。
そうしながら、少年は口を開いた。
「怖くはないか?」
「恐怖を感じている顔に見える?」
「……いや。」
「私は大丈夫よ……ブライド。」
くすり、と笑う少女に、やや驚いたような表情を浮かべる少年。
「なぜ、オレの名前を―」
「さっき、あの人たちが言っていたじゃない。」
そうだった。あれだけバカでかい声で騒がれて、そそくさとその場を逃れれば、誰でもそれぐらいの事は、勘づくだろう。しかし―…
「…冷静だな。」 思わず漏れるつぶやき。
自分の名前すらも分からない。今までの動向から察するに、この世界についての基礎的知識すらあるのかもあやしい。
それでも、今のこの状況を、少女は自然に受け入れている。さほど驚くこともなく。
「・・・・・・・・・・」
もう一度、彼は、抱き寄せている少女を、まじまじと見た。自分のつくり出した穏やかな風の気流に、美しい長めの髪がたなびいている。
本当に見たことがない。黒髪と…とらえどころのない、こんな表情は。
彼女も言っていたばかりであるが、戸惑いや、恐怖が感じられない。やがて、見上げた彼女と、目が合った。
髪の色と同じ……初めて会った時から、思っていたことだが……同じ色の瞳。
どう表現していいか咄嗟に思いつかない。しかし、考えあぐねいてる暇などなかった。
ごうっっ。突然の突風に、ブライド達は体勢を崩す。
「しまっ―、少しばかり上昇しすぎたかっ……おい、しっかりつかまっていろ……!」
「え?」
途端に、ブライドは、少女を支えていた手を離した。
もとよりしがみついてはいたものの、彼の急な行動に、少女もそれなりに驚がざるをえない。
「ちょっと・・・・」
はるか眼下に広がる地上。
「――落ちたら、私、死ぬじゃないの…」
しかし、ブライドが、何事か集中している様子から、それ以降は黙る。どうやら大人しくしているのが一番だと察したのだ。
ブライドは、両手を伸ばす。まるで、風の流れをつかもうとしているように・・・・。
風を操れる……そう思っていたが、どうやら少し違うらしい。真剣な表情のブライドを見ながら、少女は、そう思っていた。
小ざっぱりとした部屋に、ブライドと少女はいた。テーブルといすは、最低限の人数分で。この家の主が、一人暮らしであることをうかがわせる。実際、この家に住んでいるのは、年老いた老婆ひとりである。
突風にバランスを崩したブライドが、何とか体勢を立て直し、空中をよろめきながらも、たどり着いたのが、ここだったというわけだ。
「なんとか、もったな。」
着地わずか十数メートルそこらになったところで、ブライドが口を開く。
余裕が出たのか、彼は空いていた両手のうち、片方で再び少女を支えた。おそらくこのまま着地するのだろう。
そのような気配を感じて、少女はやや安心した。だが、降下しながらも、自分にまわされた腕に、力が入っているのを感じる。
?
そうしてぶつぶつと呟かれる言葉が耳に入る。
「うまくいけ、うまくいけ、うまくいけ〜」
“何が”
問いかける間もない。突如、ブライドと少女は、急速に落下したのである。今までのゆるゆるとしたものではない。
風の壁とでもいうのだろうか。今まで、自分たちを取り巻いていた“もの”が、一瞬に消えた。
もとより空中にいたのであるから、表現上はおかしいのだが、『空中に投げ出される』とは、まさにこの事である。
あとは重力の法則に従うしかない。ただ、下へと。先程より多少地上に近づいたとはいえ、地面まではそれなりに距離がある。
今は丁度、目的地らしき家の屋根、煙突の先端あたりに位置していたが・・・・それでも無理があろう。
が、ブライドは落ちていきながらも、何とか少女を両手で抱えると、その両足で着地してのけたのだった。
そうして、自分を抱きかかえたままの彼に、少女が声をかけようとした時、家の戸が開いて、老婆が現れたのである。
「おやおやまあまあ。何となくあんたの気配を感じて来てみれば、案の定さね。あいっかわらず着地はこっぴどく下手だねえ。
もう少し静かに降りられないのかい? いつぞやのように、煙突に顔突っ込まれたり、屋根に穴空けられたりするよりはマシだがね。」
「ははは、そっちも相変わらず手厳しいな、エンヤ婆。だが、とりあえず両足で地を踏めるようにはなったぞ。
しかも、今回はオレ一人ではなかったしな。」
「ん?」
そこで初めて、エンヤ婆と呼ばれたその老人は、少女を見る。しばらく眺め、言った。
「…まあいいさ、お入り。お茶くらいは出してあげるよ。」
椅子にこしかけている少女に、少し離れて立ちながら、ブライドは声をかける。
「・・・・すまなかったな。」
「気にしないで。別になんともなかったし――」
それでも、彼の視線に、少女はああ……と納得する。
正確に言えば、着地した衝撃で、かすかにすりむいた手首が、赤くなっていて無意識にさすっていたらしい。
ふふ、と少女は笑った。ブライドという名前のこの人物は、どうやら分類するならば“良い人”なのだろう。
「ありがとう、ブライド。」
少しばかり優しくなっている少女の眼差しに気づいたのだろう。ブライドは、顔を赤らめる。
そして話題を変えた。
「ところでお前―…名前くらい思い出せたのか?」
「さっぱり。」
まあ、分かりきっていた返事だ。少し躊躇した後、ブライドは続けた。
「なあ……もし、何だったら、その……オレが、お前に名前をつけてもいいか?」
「…………」
「い、いや!! ずうずうしいのは分かってるんだっ。ただ、名前がないといろいろと困るだろ!?
オレもいつまでも“お前”“お前”て言うのもなんだしな。そのっ、別にオレがつけなくったって、お前が何か好きな名前を考えてもいいだし。
そ、そうだな、悪い。オレでなくたって! お前が自分で自分の名前をつければいいんだよ……っ!」
何故それを考えつかなかったのか。ばつが悪そうにするブライド。あっさりと答えたのは、ほかならぬ少女だった。
「いいわよ」
聞き違いだろうか。まじまじと、少女を見るブライドに、再度少女は言った。
「名前がないと、確かにいろいろと困るものね。
自分でつけるのもいいけれど、でも……きっと誰かにつけてもらったほうが、もっといいと思うから。
あなたが、つけてくれる?」