幕開けは蝶の羽ばたきに似て
恥ずかしながら戻ってまいりました。
フランス革命。それは正史において、1787年から1789年にかけて起こった、人類史における重要なターニングポイントである。民主主義の成立。王政の否定。他にも、多くの事が後世に繋がった。
言ってみれば、かの革命は〝なるべくして起こった〟必要な犠牲であり人類の進歩の証であろうことは間違いない。
しかし、しかしだ。
本当に、あの革命は正しいものだったのだろうか。この世界において、本来あるべき事象を100年前倒ししたのだ。それ相応のしっぺ返しがあるのではないのだろうか?
バタフライ・エフェクトという言葉がある。
日本語にすれば、風が吹けば桶屋が儲かるといったところか。蝶のささやかな羽ばたきが、世界の裏側では竜巻になるとかいう、あれだ。かつての、本来保持していた前世の記憶はほとんど失われてしまっている。
かろうじて覚えている事柄を、こうして手記として残しているだけだ。いずれ、この文章を読み返す時が来たとして、果たして一体何割が俺に理解できるだろうか。
恐怖と言えば恐怖だ。
記憶を失うということは、その時の自分自身が死ぬのに等しい。死ぬのは怖い。これ以上ない程に。一度死んで、精神をそのままにして蘇った人間が言う台詞ではない、と誰かは言うかもしれない。
しかし、こういうことは得てして一度失った者にしか分かりようのないことだ。死とは恐ろしい。二度と経験したいとは思わない。二度もアイツと顔を合わせるのは御免だ。利用されるのも癪に障る。
それはそれとして、バタフライ・エフェクトの話だ。
100年前倒しの、世界有数の大事件が、世界に及ぼす影響が軽微であるなどと誰が思う? 少なくとも、俺はそうとは思わない。絶対、大きな揺り返しが来る。それも、とびっきりのが。
そして、もう一つ。
警戒しなくてはならないことがある。
魔法だ。これは、前世でも流石にお目にかかれなかった。そも、存在そのものが怪しまれたものなのだ。前世において、それが存在するということは寡聞にして聞かなかった——ただ単に、俺の知らないところでひっそりと存在していたのならば話は別だが。
しかし、だからと言って無警戒と言うのは油断に過ぎる。
警戒は、し過ぎて損にはならないのだ。石橋を叩いて渡るという言葉もある。いや、壊すだっただろうか。記憶がはっきりとしない。まあ似たような意味だっただろう。気にすることはない。
こればっかりは、使えるからと言って門外漢だ。ならばどうするか。
専門家に訊けばよい。
今回の、イギリス遠征もそういった理由がある。勿論、それだけでなく先日の事件——『青髭事件』について、話し合いが行われるのだ。
面倒ではあるが、イギリスと言えば未だ神秘が多く残された島国である。見るべきものは数多くあるだろう。それを期待してやまない。頼むぞ、ホント頼むぞ。成果ゼロとか洒落にならんからな。
書き残すべきことは恐らく、これで最後となるだろう。かつての記憶は、まるで上書き保存されるかの如く消えてしまっている。両親の顔も、友人の名も、世界の風景すら今や曖昧だ。
最近では、夢の中で見ていた別世界の俺なのでは、と考える瞬間があるくらいだ。裏と表。コインの両面。絶対に見ることは出来ないif。
思い出せないことは恐怖だ。しかし、それが悪いことばかりではないということも知っている。今、俺が生きている世界こそが表であり、真実だ。そのことを信じられる存在が、傍にはたくさんいる。
あいつらは俺のことを信じている。ならば、俺もあいつらのことを信じてやらねばならんだろう。
そろそろ、岸も近い。後数日でイギリスに到着するだろう。船旅は新鮮だが飽きも早い。だが、この退屈は嵐の前の静けさなのだ。嵐には備えなけらばならない。
そろそろ、この筆を置くことにする。願わくば、この旅路に平安のあらんことを。
————ゴーシュ・アーバント