記憶を施す鳥
もしも、あなたに忘れてしまいたいほど辛い記憶があったとしたら。
そして、その記憶を完全に消すことができるとしたら。
あなたは、どうしますか?
この物語には、明確な正解を用意していません。
読み終えたとき、主人公の選択について、少しだけ考えていただけたら幸いです。
人は、忘れることで生きていける。
悲しい出来事も、後悔も、時間が経てば少しずつ薄れていく。
けれど、もしも失った記憶をすべて取り戻せるとしたら。
あなたは、それを望むだろうか。
僕には、思い出せない三年間がある。
二十五歳から二十八歳までの記憶。
事故に遭ったわけでも、病気を患ったわけでもない。
ある朝、目を覚ましたとき、その三年間だけが、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
不思議なことに、僕はそれほど困らなかった。
仕事もできる。
友人とも普通に会話ができる。
笑うこともできる。
ただ、毎年十月二十九日になると、理由もわからず涙が流れる。
なぜ悲しいのか。
何を失ったのか。
それだけは、どうしても思い出せなかった。
そんなある日のことだった。
仕事から帰宅すると、郵便受けに一通の手紙が入っていた。
差出人の名前はない。
中には、一枚の紙が入っていた。
『記憶を食べる鳥に奪われたものは、記憶を施す鳥によって取り戻すことができる』
その下には、こう書かれていた。
『ただし、失った記憶を取り戻す覚悟のある者だけが、その鳥に出会える』
僕は思わず笑った。
鳥が記憶を食べる?
そんな馬鹿げた話があるものか。
そう思いながら手紙を机に置いた。
しかし、その夜。
窓の外から、何かがガラスを叩く音がした。
振り返ると、一羽の白い鳥が止まっていた。
真っ白な羽。
月明かりに照らされたその姿は、どこか現実離れしていた。
そして鳥は、人間の言葉を話した。
「あなたは、失った記憶を取り戻したいですか?」
僕は驚き、しばらく声が出なかった。
「……お前が、記憶を施す鳥なのか?」
「そうです」
「本当に、記憶を返してくれるのか?」
「ええ。ただし、一つだけ約束してください」
鳥は静かに続けた。
「取り戻した記憶を、再び私に預けることはできません」
「どういう意味だ?」
「幸せな記憶も、辛い記憶も、すべてあなたのものになります」
僕は考えた。
失った三年間に、何があったのだろう。
もしかすると、とても幸せな出来事があったのかもしれない。
逆に、忘れなければ生きていけないほど辛い出来事があったのかもしれない。
「どうすれば、取り戻せる?」
鳥は答えた。
「三日間、あなたは夢を見るでしょう。その夢を見終えたとき、もう一度選んでください」
そう告げると、鳥は夜空へ飛び立った。
その夜、僕は夢を見た。
小さな女の子が笑っていた。
「お父さん!」
女の子は僕に向かって走ってきた。
その笑顔が、なぜか懐かしかった。
抱きしめようと手を伸ばした瞬間、目が覚めた。
二日目。
同じ女の子が泣いていた。
「お父さんなんか、大嫌い!」
僕は何かを言おうとした。
けれど、声が出なかった。
三日目。
女の子は、雨の中に立っていた。
「どうして、助けてくれなかったの?」
その言葉と同時に、遠くから車のブレーキ音が響いた。
僕は叫んだ。
「危ない!」
そこで目が覚めた。
心臓が激しく鳴っていた。
頬には涙が流れていた。
その夜、再び白い鳥が現れた。
「さあ、選んでください」
僕は震える声で尋ねた。
「あの女の子は、誰なんだ?」
「それを知ることも、あなたの選択です」
「僕は……あの子に何をしたんだ?」
鳥は答えなかった。
長い沈黙が流れた。
知らないまま生きていくこともできる。
これまでと同じように、普通の生活を続けられる。
けれど、あの女の子の声が頭から離れなかった。
『どうして、助けてくれなかったの?』
僕は決意した。
「返してくれ。僕の記憶を」
白い鳥が翼を広げた。
その瞬間。
忘れていた三年間が、激しい波のように押し寄せてきた。
僕には妻がいた。
そして、娘がいた。
名前は美咲。
小さな手。
柔らかい髪。
笑うとできる、右頬のえくぼ。
仕事から帰ると、いつも玄関まで走って迎えに来てくれた。
「お父さん、おかえり!」
疲れていても、その声を聞くだけで幸せだった。
休日には公園へ行った。
一緒に砂場で遊び、ブランコを押した。
誕生日には、妻と三人でケーキを囲んだ。
「大きくなったら、お父さんのお嫁さんになる!」
そう言って笑った娘に、妻が笑いながら言った。
「それじゃ、お母さんはどうなるの?」
「お母さんも一緒!」
三人で笑った。
あの頃の僕は、こんな日々が永遠に続くと思っていた。
しかし、娘が五歳になった頃。
僕は仕事に追われるようになった。
帰宅する時間は遅くなり、休日も仕事のことばかり考えていた。
「お父さん、遊ぼう!」
「ごめんな、今日は疲れてるんだ」
「じゃあ、明日は?」
「明日も仕事なんだ」
娘は寂しそうに笑った。
「そっか……」
その言葉を、僕は何度聞いただろう。
そして、あの日が訪れた。
十月二十九日。
娘の六歳の誕生日だった。
僕は、早く帰ると約束していた。
けれど、仕事が長引いた。
帰宅したのは、夜の八時を過ぎた頃だった。
食卓には、少し形の崩れたケーキが置かれていた。
娘は僕を見るなり、涙を浮かべた。
「お父さん、遅い!」
「ごめん、美咲。仕事だったんだ」
「ずっと待ってたのに!」
「だから、ごめんって言ってるだろ」
疲れていた。
心に余裕がなかった。
それでも、あんな言い方をする必要はなかった。
「お父さん、いつも仕事ばっかり!」
「仕事しないと生活できないんだよ!」
娘は泣き出した。
「もう、お父さんなんか大嫌い!」
僕は思わず言い返した。
「だったら、勝手にしろ!」
娘は玄関へ走っていった。
妻が慌てて追いかけようとした。
けれど、僕は止めた。
「放っておけ。すぐ戻ってくる」
それが、僕の人生で最も後悔する言葉になった。
数分後。
外から大きな音がした。
車のブレーキ音。
誰かの叫び声。
嫌な予感がして、僕は外へ飛び出した。
道路には、小さな靴が片方落ちていた。
娘の靴だった。
僕は必死に走った。
「美咲!」
何度も名前を呼んだ。
病院に運ばれた娘は、二度と目を覚まさなかった。
冷たくなっていく小さな手を握りながら、僕は何度も謝った。
「ごめんな……」
「お父さんが悪かった……」
「もう怒らないから……」
「だから、目を開けてくれよ……」
けれど、娘は何も答えなかった。
僕は泣き続けた。
葬儀が終わっても、娘の死を受け入れられなかった。
家に帰れば、娘がいるような気がした。
玄関を開ければ、いつものように走ってきてくれる気がした。
しかし、どれだけ待っても。
「お父さん、おかえり」
その声が聞こえることはなかった。
妻とも次第に会話がなくなった。
僕たちは互いに自分を責め、そして相手を責めた。
やがて妻は家を出ていった。
僕は一人になった。
そんなある夜。
一羽の黒い鳥が現れた。
「苦しい記憶を食べてあげましょう」
僕は迷わなかった。
「頼む。全部忘れさせてくれ」
鳥は僕の記憶を食べた。
娘を失った悲しみも。
妻と別れた後悔も。
そして、娘と過ごした幸せな時間さえも。
すべて。
記憶が戻った瞬間、僕は床に崩れ落ちた。
「美咲……」
声にならなかった。
何度も床を叩いた。
何度も自分を責めた。
どうして、あのとき追いかけなかったのか。
どうして、たった一言、謝れなかったのか。
どうして、誕生日くらい仕事を早く切り上げなかったのか。
そして何より。
どうして僕は、娘の存在まで忘れてしまったのだろう。
数日後。
僕は押し入れの奥にしまわれていた段ボール箱を見つけた。
中には、小さな洋服やおもちゃが入っていた。
そして、一冊のノートがあった。
表紙には、幼い文字でこう書かれていた。
『みさきのにっき』
ページをめくると、娘が描いた絵があった。
三人の家族。
大きな太陽。
そして、手をつないで笑っている僕たち。
次のページには、こう書かれていた。
『きょうもおとうさんはおしごとだった。いっしょにあそびたかった』
その次には。
『おとうさんは、わたしよりおしごとがすきなのかな』
僕の手が震えた。
さらにページをめくった。
『おとうさんなんかだいきらい。いつもやくそくをやぶる。もうあそんであげない』
胸が締めつけられた。
僕は娘に、こんな思いをさせていたのか。
仕事をしているのは家族のためだと思っていた。
けれど、娘が本当に欲しかったのは、お金でも、おもちゃでもなかった。
ただ、一緒に過ごす時間だったのかもしれない。
そして、最後のページ。
そこには、誕生日の前日に書かれた言葉があった。
『あしたはわたしのたんじょうび』
『おとうさんがはやくかえってくるっていった』
『ほんとうはおとうさんがだいすき』
『でも、またやくそくをやぶったら、おこるからね』
僕は涙をこぼした。
その下には、少し小さな文字で、こう続いていた。
『おとうさんは、いつもつかれてる』
『だから、あしたはわたしがおとうさんをいっぱいわらわせてあげる』
僕はノートを抱きしめた。
「美咲……ごめんな……」
娘は、僕を笑わせようとしてくれていた。
僕は、その娘を泣かせてしまった。
しかも最後に聞いた言葉は、「大嫌い」だった。
僕はその言葉を、一生背負っていくのだろう。
翌朝。
僕は娘の墓を訪ねた。
小さな花束と、日記を持って。
「美咲、久しぶりだな」
墓石に手を置いた。
「お父さんな、お前のこと忘れてたんだ」
声が震えた。
「辛くて、苦しくて……全部忘れたかった」
涙が落ちた。
「でもな、忘れたら楽になったんだ」
僕は顔を上げた。
「お前がいないことも、悲しいことも、何もわからなくなった」
しばらく沈黙した。
「それなのに……今は全部思い出してしまった」
僕は日記を開いた。
娘の描いた三人の家族。
みんな笑っていた。
「なあ、美咲」
「お父さんは、どうすればよかったんだろうな」
返事はない。
「忘れたままなら、これからも普通に生きていけたと思う」
「でも、そうしたら、お前が生きていたことまで忘れたままだった」
風が吹いた。
日記のページが、ゆっくりとめくれた。
「お父さんは……」
言葉が詰まった。
「お前を忘れてまで、幸せになってよかったのかな」
墓石は何も答えなかった。
そのとき。
空に一羽の白い鳥が飛んでいた。
僕はその鳥を見上げた。
「なあ、鳥さん」
「僕は、記憶を取り戻してよかったのかな」
鳥はしばらく空を旋回すると、静かに遠くへ飛んでいった。
答えはなかった。
帰り道。
僕は、娘の日記を胸に抱えて歩いた。
記憶を失っていた三年間。
僕は笑うことができた。
悲しみを知らず、後悔もせず、普通に生きていた。
記憶を取り戻した今。
僕は毎日のように涙を流している。
娘がいない現実を、もう一度生きなければならない。
それでも。
あの日の笑顔を思い出せる。
小さな手の温もりを思い出せる。
僕を呼ぶ声を思い出せる。
そして、娘が僕を愛してくれていたことも。
僕は立ち止まった。
ポケットから、娘の描いた家族の絵を取り出した。
そこには、三人の家族が笑っていた。
僕はその絵を見つめながら、小さくつぶやいた。
「美咲……」
「お父さん、もう一度だけ、お前に会いたいよ」
返事はなかった。
ただ、秋の風が頬を撫でていった。
僕は再び歩き始めた。
記憶を失ったまま生きること。
記憶を取り戻して苦しみながら生きること。
どちらが幸せなのだろう。
どちらが正しかったのだろう。
今の僕には、まだわからない。
そして、きっと。
その答えを見つけることは、これからもできないのかもしれない。
それでも僕は、今日も生きている。
娘の記憶とともに。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
主人公は、大切な娘の記憶を取り戻しました。
しかし、それと同時に、忘れていた悲しみや後悔までも取り戻してしまいました。
忘れることで得られる幸せ。
覚えていることで感じられる苦しみ。
果たして、どちらが正しいのでしょうか。
もしも、あなたが主人公だったら。
記憶を取り戻しますか?
それとも、忘れたまま生きていきますか?
その答えは、読者の皆様に委ねたいと思います。




