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42歳、会社を辞めた日に神様が来た

作者: 伊田木 鈴
掲載日:2026/04/06

四月の風が、妙に冷たかった。


 桜はもう散り始めていて、公園の地面にはうすピンクの花びらが張りついている。ベンチの木は陽に焼けて白っぽくなっていた。


 俺——村瀬浩二、四十二歳——は、そのベンチに座って、空を見ていた。


 見ていた、というか、ぼんやりしていた。


 スーツの内ポケットには、一時間前に渡された封筒がある。「早期退職プログラムのご案内」。二十年勤めた会社から渡された、最後の書類。


 営業部長。肩書きだけは立派だった。部下三十二人を束ね、年間売上目標を追い、取引先の接待で肝臓を壊しかけた。


 それが今日、全部なくなった。


 ポケットからスマホを出す。妻の美咲には、まだ言えていない。LINEの画面を開いて、閉じる。開いて、また閉じる。


 ——なんて言えばいい?


 「リストラされた」。たった七文字が、どうしても打てなかった。



 *



 どのくらいそうしていたのか分からない。


 気がつくと、隣にじいさんが座っていた。


 薄汚れたベージュのコートに、擦り切れた革靴。白髪は伸び放題で、顔中に皺が刻まれている。ホームレスかと思ったが、目だけが妙に澄んでいた。


「——暇そうだね」


 じいさんが言った。


「暇っていうか……まあ、暇ですね。今日から」


 自嘲気味に笑った。見知らぬ老人に愚痴を聞いてもらうのも惨めだが、それ以上に誰かと話したかったのかもしれない。


「急に暇になるのは辛いよなあ。俺もね、昔はそういう仕事してたんだよ」


「何の仕事です?」


「神様」


 じいさんはさらっと言った。


「……はい?」


「いや、まだやってるんだけどさ。最近は人手不足でね。正確には神手不足か。ははは」


 頭がおかしい人かもしれない。俺は少しだけ身体をずらした。


「まあまあ、そう警戒しないで。一つ聞いていいかな、村瀬くん」


 名前を言った覚えはなかった。


「——人生、やり直したいと思ったことある?」


 心臓が、一拍だけ跳ねた。


 やり直したいか。


 四十二年間をやり直したいか。


 大学で何となく法学部に入り、何となく大手メーカーに就職し、何となく営業畑を歩いてきた。途中で何度も分岐点はあった。あのとき起業していたら。あのとき転職していたら。あのとき——


「思わない人間なんて、いないでしょう」


「だよね。じゃあ、あげるよ」


 じいさんが手のひらを開いた。そこに、ビー玉のような光る球が三つ、ふわりと浮いていた。


「やり直しポイント、三回分。人生の好きな時点に戻って、違う選択ができる」


 光が手のひらの上で静かに回転している。CGにしてはリアルすぎる。手品にしては——何の仕掛けもない。


「ただし」


 じいさんの声が、少しだけ低くなった。


「選択を変えると、その先の出会いも変わる。人間関係ってのは、恐ろしく繊細なもんでね。蝶の羽ばたき一つで、嵐が起きる」


「……蝶々効果ってやつですか」


「おっ、知ってるね。そう。だから、覚悟して使いな」


 光の球が三つ、俺の手のひらに移った。温かかった。


 まるで、手の中に小さな太陽を持っているような——。



 *



 一回目。


 俺は、二十二歳の自分に戻った。


 大学四年生の春。就職活動の真っ最中。リクルートスーツを着た自分が鏡の中にいる。若い。髪がある。腹が出ていない。


 前の人生では、この時期に大手メーカーの内定を受けた。安定を選んだ。父親に「堅い会社に入れ」と言われて、逆らえなかった。


 今度は違う。


 内定を蹴った。大学の仲間二人と、ITベンチャーを立ち上げた。二〇〇六年。スマートフォンが世界を変える直前。タイミングは完璧だった。


 ——ここからは、早回しのように記憶が流れた。


 アプリ開発。徹夜の連続。六畳一間のオフィス。カップ麺の山。投資家へのプレゼン。百回断られて、百一回目で出資を勝ち取った。


 三十歳で会社は軌道に乗った。社員五十人。オフィスは渋谷のタワー。メディアに取り上げられ、「若手起業家」として講演依頼が来るようになった。


 三十五歳で上場。四十歳で年商百億。


 成功だ。文句なしの。


 だが、ふと気がついた。


 隣に、誰もいない。


 美咲がいない。


 前の人生では、二十五歳のとき、取引先の事務員だった彼女と出会った。営業先の受付で、書類を落とした俺を笑いながら拾ってくれた女性。


 起業を選んだ俺は、あの会社に行かなかった。あの受付を通らなかった。あの書類を落とさなかった。


 だから、美咲とは出会わなかった。


 そして——娘の陽菜ひなが、この世界にいなかった。


 広い部屋の、広いベッドの上で、俺は天井を見つめた。


 百億の売上がある。億を超える資産がある。


 だけど、日曜日の朝に「パパ、パンケーキつくって」と起こしに来る小さな手が、ない。


 光の球が一つ、音もなく消えた。



 *



 公園のベンチに戻った。


 じいさんが隣で煎餅をかじっていた。


「どうだった?」


「……最悪です」


「だろうね」


 全然同情していない声だった。


「でもさ、起業は極端だったよね。もう少し穏当な変更にしたらどうだい。奥さんとは出会えて、でも今回のリストラは避けられるような」


 じいさんの言う通りだった。やり直すなら、もっと小さな変更でいい。あの時期、あの選択。


 三十三歳の冬。


 取引先から転職の誘いがあった。外資系の日本法人。年収は一・五倍。ポジションはアジア統括マネージャー。


 前の人生では、断った。陽菜が生まれたばかりで、環境を変えるのが怖かった。


 今度は——受ける。



 *



 二回目。


 三十三歳の俺は、転職した。


 外資系のスピード感は、日本のメーカーとは別世界だった。英語の会議。海外出張。成果主義のプレッシャー。だが、やりがいはあった。


 年収は三十五歳で一千万を超え、三十八歳で一千五百万になった。タワーマンションに引っ越した。陽菜を私立の小学校に入れた。


 美咲とは——出会えていた。結婚もした。陽菜も生まれた。


 ただ、何かが違った。


 出張が多すぎた。月の半分は海外にいた。陽菜の運動会に行けなかった。美咲との会話が業務連絡になった。「牛乳買って」「了解」。それだけ。


 三十九歳の夏、帰国したら家の空気が変わっていた。


 美咲が言った。「あなた、いなくても回るのよ、この家」。


 離婚ではなかった。もっとひどい。無関心だった。


 決定的だったのは、四十一歳の冬。久しぶりに早く帰った夜。


 リビングで宿題をしていた陽菜が、顔を上げた。


「——お父さん、誰?」


 冗談だと思った。だが、陽菜の目は笑っていなかった。


 八歳の娘にとって、俺はもう「たまに家にいる知らないおじさん」だった。


 金はある。肩書きもある。だけど、娘が俺の顔を忘れていた。


 光の球がもう一つ、消えた。



 *



 公園のベンチ。じいさんはまだ煎餅をかじっていた。どれだけ食うんだ。


「残り一つだね」


 手のひらの上で、最後の光がぼんやりと回転している。


「これをどう使うかは、村瀬くん次第だけど——」


「分かってます」


 分かっていた。もう分かっていた。


 一回目で、成功を手に入れて、家族を失った。

 二回目で、キャリアを手に入れて、娘を失った。


 三回目。何を変えれば、全部手に入る?


 ——無理だ。


 四十二年間生きてきて、ようやく分かった。人生は、等価交換なんだ。何かを得れば、何かを失う。時間は有限で、選択にはすべて代償がある。


 三回目を使ったところで、また何かが壊れる。


 俺はずっと「あのとき別の選択をしていれば」と思ってきた。リストラされた今日、その思いは最高潮に達していた。


 でも違う。


 別の道を選んでいたら、今とは別の「最悪」が待っていただけだ。


 起業して百億稼いでも、空っぽのマンションに帰る人生。

 転職して出世しても、娘に「誰?」と言われる人生。


 それに比べたら——


 リストラされた四十二歳。貯金は心もとない。再就職のあてもない。住宅ローンは残っている。胃が痛い。髪が薄い。腹が出ている。


 でも、陽菜は俺のことを「お父さん」と呼ぶ。


 美咲は、ため息をつきながらも弁当を作ってくれる。


 日曜の朝、「パパ、パンケーキ」と起こされる。陽菜はもう中学生だから、最近は「パパ」じゃなくて「お父さん」だけど。


 俺は、光の球を見つめた。


 最後の一回。人生の好きな時点に戻って、違う選択ができる。


「——使いません」


「え?」じいさんが煎餅を止めた。


「返します。いらないです、これ」


 光の球を、じいさんの手のひらに押し返した。


 じいさんは目を丸くしていた。それから——皺だらけの顔が、くしゃっと歪んだ。


「あんたさ、三回とも使い切った人、初めて見たよ。たいていは一回目で懲りて、残り二回を大事にしまい込むんだ。で、結局使えないまま死ぬ」


「俺は二回も使っちゃいましたけど」


「うん。だから分かったんだろ。頭で理解するのと、体で分かるのは違う」


 じいさんが立ち上がった。コートの裾が風に揺れる。


「村瀬くん。人生はね、後悔するようにできてるんだよ。どの道を選んでも、選ばなかった道が光って見える。それが人間ってもんだ」


「……随分と意地悪な設計ですね、神様」


「俺が作ったんじゃないよ。苦情は本社に言ってくれ」


 じいさんは笑って、歩き出した。三歩ほど進んで、振り返った。


「ああ、そうだ。一つだけ教えとく。あんたがリストラされたのは、あんたのせいじゃない。会社の業績のせいだ。あんたの営業成績は部内トップだった。知ってたか?」


「……知りませんでした」


「人事部長がコスト削減で年俸の高い順に切ったんだよ。つまり、あんたは優秀だから切られた。皮肉な話だけどね」


 それだけ言って、じいさんは桜並木の向こうに消えた。


 本当に消えた。


 煎餅のかけらだけが、ベンチの上に残っていた。



 *



 スマホが鳴った。


 LINEの通知。送信者は「陽菜」。


〈お父さん、今日早いんでしょ? 公園にいる?〉


 なぜ知っている。


〈お母さんから聞いた。会社のこと〉


 美咲が——言ったのか。


 胸の奥が、ぎゅっと締まった。


 自分で言えなかったことを、美咲はもう娘に伝えていた。そして娘は、責めるでもなく、心配するでもなく——


〈迎えに行くから動かないで〉


 十分後、制服姿の陽菜が公園の入り口に現れた。中学二年生。背が伸びた。去年まで俺の肩ぐらいだったのに、もう顎の高さまである。


「お父さん」


「……おう」


「泣いてる?」


「泣いてない。花粉だ」


「嘘。桜で花粉症になる人いないでしょ」


 陽菜は隣に座った。俺と同じように足を投げ出して、同じように空を見た。


 しばらく何も言わなかった。


 桜の花びらが風に舞って、二人の間に降りてきた。


「ねえ、お父さん」


「ん?」


「ラーメン食べに行こうよ。駅前にできた新しいとこ、味噌ラーメンがすごいんだって」


「——お前、昼飯は?」


「まだ。お父さんと食べようと思って」


 中学生が、親父と二人でラーメンを食べに行く。


 友達といるほうが楽しいだろう。部活だってあるだろう。それなのに、リストラされた四十二歳の父親と、ラーメン。


 俺は、立ち上がった。


「よし、行くか」


「やった。お父さんの奢りね」


「無職の人間に奢らせるのか」


「だって、お父さん最後のボーナスもらったでしょ。お母さんが言ってた」


「……あいつ、全部喋ってるな」


 陽菜が笑った。美咲に似た笑い方だった。目が三日月みたいに細くなる。


 歩き出す。


 公園を出て、駅に向かう道。桜並木の下。花びらが風に舞っている。


 隣に、娘がいる。


 俺は、百億も持っていないし、年収一千五百万でもない。明日の再就職先すら分からない。履歴書を書くのは二十年ぶりだ。面接で何を話せばいいのかも分からない。


 でも——


 隣に、娘がいる。


 「お父さん」と呼んでくれる娘が、「ラーメン食べに行こう」と言ってくれる娘が、この春の午後に、確かにここにいる。


 やり直さなくて、よかった。


 この人生で、よかった。


「お父さん、歩くの遅い」


「うるさい。中年の足を労れ」


「老人みたいなこと言わないでよ」


「四十二はまだ中年だ」


「微妙なライン」


 笑いながら歩いた。


 桜が散っていた。


 でも、来年もまた咲く。


 そういうものだ、と思った。

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