悪役令嬢の執事ですが、主君の取り巻きが、なぜか俺に取り巻いてきます
新作です。
「ミレーユ・フォン・グリムローゼ! お前のような感情論者は、次期王妃に相応しくない! よって、この場をもって婚約を破棄させてもらう!」
王立学園の二年次進級を祝う夜会に、第一王子ユリウス・フォン・クロイツェル殿下の冷徹な声が響き渡る。
殿下の宣言と共に、華やかな演奏も、貴族生徒たちの歓談もピタリと止んだ。
誰もが息を呑む中、凍りついた空気を、場違いな高笑いが打ち破る。
「おーほっほっ! 本当に、殿下はいつも冗談がお好きですわね!」
鮮やかな深紅のドレスを優雅に翻し、金色のツインドリルがシャンデリアの光を受けて煌めく。
燃えるような瞳に合わせた大粒のルビーのピアスを揺らしながら、公爵令嬢ミレーユ様が、バサリと愛用の扇子を広げた。
扇子には、金糸の刺繍で達筆に『純愛とは私』と綴られている。
「……冗談などではない! 私はいつも本気で言っているのだ、ミレーユよ!」
「分かっていますわ。また、殿下の高度なブラックジョークだと。ねえ、シリル?」
「なぜ、分かってくれないのだ!?」と声を荒らげる殿下に対し、主君のミレーユ様が、壁際で控える俺に同意を求めてきた。
俺、シリル・アストレアは、これまでミレーユ様が殿下と幾度となく婚約破棄騒動を繰り広げてきた実績から、今日も同じ展開になるだろうと先読みし、裏方に徹していた。
だが、話を振られたからには、角を立てずに返すのも執事の務め。
俺は胸に手を当てながら一礼し、涼しい顔で肯定する。
「はい。皆様が仰天されるほどの、相変わらず見事なジョークかと存じます」
俺の言葉を聞いたミレーユ様は、我が意を得たりと、得意げに鼻を鳴らす。
「ふふん。そういうことですか、殿下」
「よ、ようやく分かってくれたようだな、ミレーユよ!」
「もちろんですわ! つまるところ、私の愛を試すための試練を与えようとしてくださっているのですね!?」
「……ち、違う! なぜ、そうなるのだ!?」
ミレーユ様のいつもの超ポジティブ解釈でペースを乱された殿下が、さらに声を荒らげる。
「よく聞くがよい! 私が求めるのは論理と知性だ! お前の『可愛い』や『可哀想』といった非合理な感情は、国家運営の妨げでしかないのだ!」
「あら、まあ! ということは、私に『論理的な可愛さ』を身につけなさいと仰っているのですね!」
「それも違う! 諸外国との覇権争いが激化している中、愛だ恋だと、うつつを抜かしている暇などないのだ! 今の私に婚約者など不要である!」
ミレーユ様は「また、殿下はそう仰いながらも、私のことを愛してやまないのは分かっていますわ!」と高らかに声を上げ、余裕の笑みを浮かべている。
話が通じないミレーユ様に、殿下は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた後、力強く指を突き出した。
「私はこの王国を導くために必要な『最高の右腕』を見つけたのだ!」
高らかに宣言した殿下が指し示した先へ、周囲の視線が一斉に向けられる。
壁際で控えていた、俺である。
「シリル・アストレア! お前の完璧な処理能力と、私の論理すら論破する知性! お前こそが、私の補佐官に相応しい! シリル、私の元へ来い!」
周囲がざわめき立つ中、俺は涼しい顔で一礼し、静かに口を開く。
「殿下、身に余る光栄ですが、お断りいたします。俺はミレーユ様に仕える一介の執事。いわば、この夜会の壁の染みと同義の裏方に過ぎません。それに、このような無作法な口の利き方しかできぬ未熟者に、次期国王の補佐など到底務まりません」
そう、俺はあくまで裏方なのだ。
幼少の頃より、ありとあらゆる執事教育を叩き込まれてきたが、一国の王子に対しても私ではなく『俺』と、自然と口から出てしまうのも未熟な証拠だ。
「ふっ、またしても即答か! 王族相手にも『俺』という不敬な態度を崩さず、次期国王の誘いすら涼しい顔で蹴る、その権力に媚びない冷徹な態度! やはり、お前しかいない! 真に断る理由は待遇か? ならば、爵位も領地も望むがままに与えてやろうではないか!」
俺が「お心遣い感謝いたしますが――」と辞退しようとした時だ。
「そういうことでしたのね!?」
ミレーユ様が何かに気付いたかのように、閉じた扇子で俺と殿下を交互に指差し、わなわなと震え始めた。
「……どういうことだ?」
「殿下は、私という婚約者がいながら、シリルとの禁断の愛にも目覚めてしまったのですね!?」
「え……?」
「爵位だけでなく、領地まで与える……。そこまでしてシリルを権力と財力で囲い込もうとする。……なんて、重く、激しい求愛なのでしょう!」
「なっ……!?」
あまりの飛躍に言葉を失う殿下をよそに、ミレーユ様は、俺を庇うように殿下の前へ立ちはだかる。
「確かに、シリルは顔立ちも頭も良いですから、惹かれる気持ちは分かりますけれど! いくら殿下といえど、シリルは渡せませんし、何より浮気はダメですわ!」
「浮気……? わ、私は有能な人材が欲しいだけだ!」
殿下の必死の弁明も空しく、周囲で固唾を呑んで見守っていた貴族たちまでも騒ぎ始める。
「まさか、殿下が執事の彼を愛していたなんて……」
「そういえば、二人きりで話していた姿を見たことがあったわ……」
「待って。殿下は『諸外国との覇権争い』と仰っていたわ。愛するミレーユ様を、他国の脅威から身を守るためなのかもしれないわ」
「つまり、わざと悪役となって婚約破棄をしようとしているってことなのね」
「あぁ……なんて尊く、悲しい愛なのでしょう……」
扇子で口元を覆いながら、令嬢たちが次々と涙ぐみ始めた。
会場全体が、『悲劇の王子と麗しき執事の禁断の恋』、そして『愛する婚約者を守る自己犠牲』という、謎の感動空間に包まれていく。
「お前たちまで、いったい何を……?」
予期せぬ周囲の熱狂に、殿下が呆然と声を漏らすが、ミレーユ様は決意に満ちた瞳で宣言する。
「始めから分かっていましたわ! 殿下は、私を危険な目に遭わせまいと、あえて悪役となって遠ざけようとしていることを! ですが、殿下だけに重責や危険を背負わせることなど、私には到底できませんわ!」
「ま、まるで話が通じないではないか!? シリル、今日のところは引いてやるが、必ずや、お前を私のものにするからな!」
殿下は頭痛に悩まされながらも、逃げるように会場を後にした。
主役である殿下が去った後も、夜会の広間は『真に愛する者から身を引こうとする王子と、王子を健気に支える婚約者』という話題で持ちきりだ。
ミレーユ様は、皆から向けられる同情と称賛の嵐を一身に浴びながら、意気揚々と声を上げる。
「おーほっほっ! 殿下とシリルの悲恋を隠すダミーとして、未来の王妃である私が婚約者の座を守り抜いてみせますわ!」
令嬢たちが「なんて気高い自己犠牲なのかしら……」と、涙ぐみながら万雷の拍手を送る。
ミレーユ様は、またも金の刺繍で『慈愛とは私』と書かれた扇子をバサリと広げる。
気高い自己犠牲などでは決してないが、結果として殿下との婚約は継続となった。
これも、ミレーユ様の計算し尽くされた高度な立ち回りの賜物だろう。
俺は密かに感心しながら、夜会の空気を戻すべく、楽団へ目配せをして優雅なワルツを再開させた。
嵐のような退場劇を見送った俺の前に、ミレーユ様の取り巻きである、侯爵令嬢シャルロッテ様が、なぜか頬を紅潮させて歩み寄ってきた。
「シリル、王族相手にも一歩も引かない貴方の圧倒的な有能さ……実に素敵でしたわ!」
「お褒めにあずかり光栄です、シャルロッテ様。ですが、俺の働きはミレーユ様の威光あってのもの。俺自身は取るに足らない壁の染みに過ぎません」
「まあ! いつもいつも、なんて謙虚でいらっしゃるのかしら!」
俺が胸に手を当てて一礼すると、他の取り巻きたちも次々と俺を取り囲んだ。
「きゃあっ! シリル様が、わたくしを見たわよ!」
「その涼しげで冷たい流し目……たまりませんわ!」
「その視線で叱っていただきたいですわ!」
「私なんて、踏み付けてもらってもいいですわよ! いえ、むしろ踏んでくださいまし!」
取り巻きたちから、なぜか歓声が上がる。
本来なら、婚約破棄騒動の中心にいたミレーユ様を慰めるべき彼女たちだが、俺を取り囲んで熱狂している。
俺には錯乱しているようにしか見えないが、即座に真の意図を理解した。
彼女たちはミレーユ様への忠誠心から、執事という職能の美しさを評価してくれているのだと。殿下の引き抜きといい、彼女たちの熱心な見学姿勢といい、王国の貴族は非常に勉強熱心だ。
俺もまだまだ見習わなければならない。
当のミレーユ様は、取り巻きたちの関心が逸れていることに不満を抱く様子もなく、むしろご満悦であった。
「ふふん。皆様、私の完璧な執事の魅力にすっかり夢中のようですわね! おーほっほっ!」
ミレーユ様は勝ち誇ったように胸を張り、バサリと扇子を広げると、そこには『愛ゆえの余裕』と刺繍されていた。
俺はミレーユ様の満足気な様子を確認し、静かに一礼する。
「皆様、本日はミレーユ様の護衛という裏方の職務中ゆえ、これにて失礼いたします。ごきげんよう」
俺はシワひとつない燕尾服を翻し、その場を後にした。
◇
数日後。
麗らかな春の陽光が降り注ぐ、グリムローゼ公爵家の庭園。
色とりどりの薔薇が咲き誇る東屋で、ミレーユ様主催のお茶会が開かれた。
「皆様、あの夜の殿下の婚約破棄宣言は、私の器の大きさを測るための愛の試練でしたわね!」
ミレーユ様は燃えるような瞳で高らかに声を上げて、バサリと扇子を広げる。
本日の扇子には『愛とは試練』と刺繍されている。
「そう、殿下はあえて同性の執事との特大スキャンダルを演じることで、私を試されたのですわ! もちろん、浮気は許しませんが、愛の試練とあらば話は別。このミレーユ、正面から受けて立ちますわ! 恋のライバル(シリル)から、殿下を奪い返すほどの執念があるか、この過酷な試練を乗り越えて、再び御心を私へと引き戻してみせますわ!」
高らかに宣言したミレーユ様は、背後に控える俺へ、ギリッと鋭い視線を向けた。
まるで恋敵でも見るかのような目だ。
周囲では、シャルロッテ様をはじめとする取り巻きたちが、うんうんと深く頷いている。
ミレーユ様の気高い決意に胸を打たれたのか、彼女たちは同情と熱意が入り混じった声で同調した。
「全くもってミレーユ様の仰る通りですわ! ですから、私も手強い恋敵であるシリル様を監視するため、毎日お茶会に通わせていただきますわ!」
「ええ! 私もシリルの側で、その美しい……いえ、恐ろしい所作を見極めて差し上げますわ!」
「ミレーユ様のためにも、私も全力でシリルの体……いえ、身辺調査をいたしますわ!」
令嬢たちは口々に賛同の言葉を並べるが、熱を帯びた視線の先は、なぜか俺である。
彼女たちが食い入るように俺を観察してくる中、ミレーユ様がビシッと扇子を突きつけてきた。
「いいこと、シリル! 殿下を惑わすあなたの洗練された所作を、私が隅から隅まで粗探しするわ! まずは、私に完璧な紅茶を淹れてみなさい!」
「かしこまりました」
なるほど。どうやら本日は、ミレーユ様直々の『定期業務査定』の日らしい。
俺は涼しい顔で一礼し、純白の手袋をはめた手でティーポットを傾ける。その際、一切の飛沫を立てずに完璧な放物線を描いて紅茶を注ぐ。
香りと温度、すべてを計算し尽くした究極の一杯である。
「くっ……! 温度も香りも完璧ね……。なんて隙のない執事なの! 悔しいけれど美味しいわ!」
「身に余るお言葉でございます」
「でも、まだよ! 次はスコーンの切り分けをしなさい!」
俺はすぐさま銀のナイフを手に取り、流麗な手つきでスコーンを切り分けようとした、その時だ。
ミレーユ様を応援していた彼女たちが、なぜか目を血走らせながら一斉に立ち上がった。
「ミレーユ様! 私も憎き恋敵の粗探しを全力でお手伝いいたしますわ!」
「そうですわ! シリル、私にも紅茶を注ぎなさい! もっと至近距離で、私の目を真っ直ぐに見つめながらですわよ!」
「私には涼しげな流し目で、冷たく見下しながらスコーンを差し出しなさい! 徹底的に粗を探してあげますわ!」
彼女たちが口々に特殊なリクエストをつけながら、頬を真っ赤に染めて俺に群がってくる。
なるほど。他家の令嬢とはいえ、公爵家の業務査定に、これほどまでに熱心に協力していただけるとは、王国の貴族は本当に勤勉だ。
「皆様、ご協力感謝いたします。順次対応いたしますので、どうか一列にお並びくださいませ」
「きゃあっ! シリル様に整列を命じられたわよ!」
「その冷たい事務的な声も、たまりませんわ!」
俺は彼女たちの熱心な姿勢を称賛し、完璧な手際で業務査定を捌き続けていく。
しばらくして、優雅なティータイムの空気を切り裂くように、庭園の鉄門が乱暴な音を立てて開かれた。
「ふははは! 第一王子に捨てられた哀れな公爵令嬢が、涙に暮れていると聞いて慰めに来てやったぞ!」
下品な高笑いと共に現れたのは、派手な金糸のコートを着崩した男――バルバトス侯爵令息のドミニクだった。
彼は勝ち誇った顔でズカズカと庭園に踏み入ってくるが、目の前の光景を見て足を止める。
涙に暮れる令嬢の姿などではない。
『愛とは試練』と書かれた扇子をドヤ顔で広げる公爵令嬢と、順番待ちをしながら頬を染める令嬢たち。そして純白の手袋で優雅に紅茶を注ぐ俺だった。
「なんだ、このふざけた茶会は!? ミレーユ、お前は殿下に捨てられたのだろうが!」
「あら、ドミニク様。無作法な足音を立てて、私の『愛の試練』の邪魔をしないでくださる? 今はシリルの業務査定中で忙しいのですけれど」
「愛の試練だと!? 現実逃避も大概にしろ!」
ミレーユ様の斜め上の返答に顔を真っ赤にしたドミニクは、矛先を涼しい顔で給仕を続ける俺へと向けた。
「おい、そこの下賤な執事! 俺にも最上級の茶を淹れろ! もし、少しでも不出来なら、貴様の主人の顔に泥を塗ることになるからな!」
ドミニクが傲慢に言い放つ。
なるほど。どうやら庭園に騒がしい『害虫』が迷い込んでしまったらしい。
美しい薔薇園を汚す害虫を駆除するのも、執事の立派な務めである。
俺は表情一つ変えず、新しいティーカップに紅茶を注ぎ、静かな足取りで彼の前へと進み出る。
そして、先ほど令嬢たちからリクエストされた通りの『涼しげな流し目で冷たく見下す視線』を向ける。
「お待たせいたしました、ドミニク様。ですが、少々茶の香りが損なわれていますね」
「なんだと!? 貴様、自ら不出来を認めるというのか!」
「はい。侯爵令息ともあろうお方が、無断で他家の庭園に踏み入り、淑女のお茶会で品性下劣な声を荒らげ、あろうことか泥のついた靴で芝生を荒らしている。これでは、いかなる名茶も泥水の味に成り下がりましょう」
「なっ……!? 貴様、ただの執事の分際で、俺に説教する気か!?」
「滅相もございません。ご自身の顔に泥を塗っておられる事実に気付かれないようでしたので、鏡の代わりを務めさせていただいたまでです。壁の染みの戯言とでも、お思いいただければと」
俺が胸に手を当てて深く一礼すると、背後で息を呑んで見守っていた彼女たちから歓声が上がる。
「きゃあっ! 出たわ、シリル様の冷徹な正論パンチよ!」
「ゴミを見るような流し目も、たまりませんわ!」
「あんな風に、私も理詰めで完璧に論破されたいですわ!」
彼女たちの歓声と、ミレーユ様の「おーほっほっ! どうです? 私の完璧な執事は!」という高笑いが庭園に響き渡る。
「……く、狂っている! お前たち、どうかしているぞ!?」
俺の圧倒的な無表情と、熱狂する彼女たちの異様な空気に気圧されたドミニクは、顔を青ざめさせて、脱兎のごとく逃げ出していった。
嵐が去った庭園に、平和な静寂という名の歓声が戻る。
「さて、害虫の駆除も終わりましたし、業務査定の続きを再開いたしましょうか」
俺が淡々と言うと、令嬢たちはさらに熱を帯びた瞳で、大人しく一列に並び直すのであった。
その後も、俺は『冷酷な視線でスコーンを配る』、『事務的な声で紅茶の温度を指摘する』といった、彼女たちからの高度で特殊な査定項目を、完璧な手際でこなし続けていく。
ミレーユ様主催のお茶会は、大盛況の内に幕を閉じた。
公爵家の業務査定とは、こうも過酷で情熱的なものか。さらなる精進を重ねなければならないと、執事としての決意を新たにするのだった。
だが、そんな平和な日常は長くは続かなかった。
数日後、グリムローゼ公爵邸に王宮からの書状が届いた。
差出人はユリウス殿下。
内容は、俺を王宮の政務補佐として招き入れるという正式な王命である。
いかに公爵家といえど、王族の決定は絶対。
俺が身支度を整えていると、血相を変えたミレーユ様が、執務室の扉を勢いよく開け放った。
「シリル! 私も行くわよ、馬車を出しなさい!」
「ミレーユ様? 今回は俺個人への召喚ですが?」
「馬鹿言わないでちょうだい! 未来の王妃である私の専属執事を一人で王宮に行かせるわけないでしょ! これも殿下からの愛の試練よ! 私がきっちり受けて立ってやるわ!」
ミレーユ様は強がっているのか、扇子を強く握りしめている。
俺は静かに一礼し、馬車を手配した。
向かう先は、王宮という名の伏魔殿である。
◇
重厚な城門を抜け、案内された王宮の執務室。
待ち構えていた殿下は、俺たちを見るなり、大量の書類の山をドンッと机に積み上げた。
「よく来たな、シリル。そして、ミレーユよ。お前が絶対に手放さないと言うことで、条件を出すことにした。これらの書類は、複雑に絡み合った他国との外交機密文書、およそ三年分の未処理分だ。これを三日で完璧に処理できれば、お前たちの帰還を許そう。……だが、できなければ、シリル。お前は一生私の右腕としてここで働くのだ」
物理的に不可能な業務量による、合法的な引き抜き工作。
俺が口を開くより早く、ミレーユ様が前に出た。
「おーほっほっ! 殿下ったら、私の有能な執事を舐めないでくださる? 三日で終わらせて、公爵邸へ連れ帰りますわ!」
そこからの三日間の攻防は熾烈を極めた。
俺にとって不眠不休の政務処理など造作もないことだが、本当の地獄は書類の量ではなかった。
執務室には、事あるごとに殿下の派閥の貴族たちが牽制や妨害に訪れたのだ。
彼らの目には、俺を『利用すべき有益な道具』か、『排除すべき政敵』として値踏みする欲望が渦巻いていた。
そんな有象無象の悪意から俺を守るように、三日間、ただひたすらに俺の部屋の前へ立ち塞がるミレーユ様。
「あら、宰相閣下! 殿下の愛の試練の邪魔をしないでくださるかしら?」
「おーほっほっ! 平民上がりの役人には、この高度な愛の駆け引きは理解できなくてよ!」
貴族たちが「殿下にすがりつく惨めな公爵令嬢だ」「頭が空っぽの道化め」と、あからさまな冷笑と蔑みを向ける中、彼女は扇子を広げながら、傲慢な悪役令嬢を演じ続ける。
殿下との『愛の試練』を他人に邪魔されまいとする、彼女なりの凄まじい執念なのだろう。
結果として、俺に向かうはずの敵意や牽制は、すべてミレーユ様が弾き返してくれたのだ。
そして約束の三日後。
俺が一切の不備なく書類の山を片付けると、殿下は驚愕に目を見開き、ぐうの音も出ずに俺たちの帰還を認めるしかなかった。
「……馬鹿な。たった三日で、本当にこれほどの機密文書を処理したのか……」
「殿下、約束通り、俺たちはこれにて失礼いたします」
俺が一礼して踵を返そうとした時、殿下が忌々しげに声を張り上げる。
「待て、シリル! 今回は私の負けだが、私は決してあきらめんぞ! いつか必ず、その愚かな女を引き剥がし、お前を王宮へ迎え入れてみせるからな!」
殿下の執念めいた宣言。だが、それに真っ向から立ち塞がったのは、やはりミレーユ様だ。
「おーほっほっ! 殿下の愛の執念、しかと受け止めましたわ! ですが、私の愛の城壁は誰にも崩せませんことよ! さあ、シリル、帰るわよ!」
殿下が頭痛を堪えてこめかみを押さえる中、ミレーユ様は俺の腕を引いて、堂々と王宮の正門を潜り抜けたのであった。
◇
公爵邸へ帰還した、その日の夜。
領地の状況を報告するため執務室へ向かうと、ミレーユ様は机に突っ伏し、泥のように眠っていた。
王宮という敵だらけの戦場で、常に矢面に立ち続けた心労と疲労は計り知れない。
「まったく無茶をなさる……」
俺は小さく溜息をつき、ミレーユ様の肩にそっと毛布を掛ける。
そのまま、乱雑に散らかった机の上の書類を整理していると、見慣れない革張りの手帳が滑り落ちてきた。
拾い上げようと手を伸ばした拍子にページが開く。
そこには、ミレーユ様の乱れた筆跡で、涙の染みで滲んだインクの跡。
『……ついに、恐れていた王命が下る。
あんなにも必死に、私が我儘な悪役を演じてすべての憎悪を被り、彼に注目が集まらないよう立ち回ってきたというのに。
泥沼の婚約破棄騒動すら隠れ蓑にして、彼を「未来の王妃の専属執事」という鎖で縛り付け、あの恐ろしい王宮の目から隠し通してきたのに。
絶対の権力は、私のちっぽけな防壁をいともたやすく打ち砕く。
彼が、王宮という血生臭い戦場へ引きずり出されていく絶望。
あそこでの三日間、生きた心地など少しもしない。
すれ違う有力貴族たちの目は、彼を使い潰すための便利な道具か、いっそ暗殺してしまおうと値踏みする飢えた獣そのもの。
私がどれだけ声を張り上げて道化を演じ、獣たちの前に割って入ろうとも、その悍ましい視線を完全に遮ることなどできない。
怖い。彼を奪われるのが、恐ろしくてたまらない。
シリル、ごめんなさい。
私が、こんなにも無力な主君でごめんなさい。
神様、どうかあの子を私から奪わないで。
あの呆れたような涼しい流し目と、彼が私のためにだけ淹れてくれる温かい紅茶。
それだけが、狂いそうな私の心を繋ぎ止める、たった一つのすべてなのだから――』
俺は、静かに手帳を閉じた。
そして理解してしまった。
殿下の気を引くための奇行も、あの突拍子もない愛の試練も、夜会でわざと道化を演じ、周囲から冷笑を浴びていたことも。
今までミレーユ様が引き起こしてきたすべての騒動は、錯乱でも勘違いでもなかった。
一介の執事に過ぎない俺を王宮の毒から隠し、守り抜くために、彼女が身を削って演じ続けてきたのだ。
すべては、計算された命懸けの大芝居だったということ。
痛々しい勘違いをしていたのは、ミレーユ様ではなく、俺の方だった。
本当に、どこまでも愚かで、気高き俺の主君だ。
胸の奥に熱いものが込み上げるのを感じながら、俺は手帳を元の場所にそっと戻した。
言葉で伝える必要はない。
殿下は、まだ俺を諦めてはいないのだから。
ならば、俺が為すべきことは、この不器用で優しすぎる主君の隣に立ち、ミレーユ様が望む『平和な日常』を、完璧な執事として共に守り抜くことだけだ。
◇
翌日。
麗らかな春の陽光が降り注ぐ庭園で『殿下の誘惑を打ち破った愛の戦勝記念』という謎の名目のもと、ミレーユ様主催のお茶会が開かれた。
「おーほっほっ! 殿下がシリルを王宮へ連れ去ろうとしましたが、私の愛の盾に恐れをなして、あきらめたようですわ!」
ミレーユ様はいつものようにバサリと扇子を広げる。
本日の扇子には『愛の完全勝利』と刺繍されていた。
書き綴られた涙の夜が嘘のように、今日もミレーユ様は『ポンコツ悪役令嬢』を演じている。
ならば、俺も何も知らない壁の染みとして、これまで通り……いや、今まで以上に主君を支えるまでだ。
「シリル、ご無事で何よりですわ!」
「王宮に行かれている間、お姿が見えなくて、私、干からびてしまいそうでしたわ!」
「さあ、今日も私に涼しげな流し目を向けながら、紅茶を淹れてくださいまし!」
俺がティーポットを傾けようとした時、シャルロッテ様をはじめとする取り巻きたちが、いつものように俺を取り囲んだ。
本来なら、ミレーユ様の取り巻きとして、彼女を称賛すべき令嬢たち。
だが、なぜか彼女たちの熱を帯びた視線は、すべて俺に向けられている。
相変わらず、王国の貴族は勉強熱心だ。
「ふふん。皆様、今日も私の完璧な執事の魅力にすっかり夢中のようですわね! おーほっほっ!」
ミレーユ様の高笑いと、令嬢たちの歓声が平和な庭園に響き渡る。
俺は涼しい顔で一礼し、完璧な手際で紅茶を注ぐ。
今日も悪役令嬢の取り巻きたちが、なぜか俺に取り巻いてくる。
お読みいただき、ありがとうございました!
二人の謎はそれぞれ違いますので、こちらも是非。
【令嬢視点】 https://ncode.syosetu.com/n7478lw/
それではまた( ´∀`)ノ




