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魂が交差する場所

コンクリートの壁に囲まれた、無機質な通路。

 遠くから響く数千人の歓声が、まるで地底の鳴動のように足元を揺らしている。

 だが、今の私には、そんな騒音など耳に入らなかった。

 視界にあるのは、ただ一人。

 うなだれ、震え、まるで断頭台の前に引き出された罪人のように立ち尽くす、私の相棒――アケミの姿だけだ。

「……アケミ」

 私が名を呼ぶと、彼女はビクリと肩を跳ねさせた。

 顔を上げない。

 いつもなら、「なになにー? マナったら顔怖いよー」と茶化してくるはずの唇が、今は白く乾き、恐怖に引きつっている。

 その向こうで、ナターシャが愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。

 彼女はまるで、極上の悲劇オペラを特等席で鑑賞する観客のようだ。

「さあ、話してあげなさいな。貴女の『本当の姿』を。私たちが共有する、穢れた運命の話を」

 ナターシャの言葉が、呪いのようにアケミに絡みつく。

 アケミは、何かを振り払うように頭を振り、そして掠れた声で話し始めた。

「……ウチはね、マナ。ずっと、夢を見てたんだ」

 それは、独り言のような、弱々しい響きだった。

「夢の中で、私はいつも高い塔に幽閉されてて……たくさんの人を傷つけて、たくさんの人に恨まれてた。それが『前世』の記憶だって気づいたのは、この体の中に『あいつ』が入ってきた時だった」

 アケミが胸元をギュッと握りしめる。

「私は、かつて異世界あっちで『悪役令嬢』として断罪された女。処刑されて、魂ごとこの世界に捨てられたゴミ。……でも、それだけじゃ許されなかった」

 彼女が顔を上げた。

 その瞳の奥で、何かが蠢いているのが見えた。

 茶色の瞳孔の奥にある、冷たく、神々しく、そして吐き気を催すほど無機質な光。

「『罪人には、更なる役割(罰)を与える』。……そう言われて、私の魂はくさびにされたの。天界を支配する『七大天使』……その一柱を受肉させるための、肉の器として。……3回死んで、楽になれるの。今回が2回目。前回は、いつだったけなあ。忘れたけど……ね」

「七大天使……?」

 ナターシャが言っていた言葉だ。

 この世界とあの世界を管理する、システム管理者たち。

「そう。私の中にいるのは、ただの天使じゃない。世界を監視し、管理し、都合の悪い異分子バグを排除するためのシステム。……私はね、マナ。貴女を監視するために、貴女のそばにいたの」

 アケミの目から、涙がこぼれ落ちた。

 それは、いつもの嘘泣きではない。魂が血を流しているような、痛々しい涙だった。

「ごめん……ごめんね、マナ。私、知ってたんだ。貴女がいずれ、この世界の脅威になるって。だから近づいた。友達のふりをして、貴女の動向を探って……隙があれば、処理するつもりだった」

 嘘だ。

 私の本能がそう告げている。

 あのファミレスで、DV彼氏に怯えていた姿。私のドレスを褒めてくれた時の笑顔。牛丼を一緒に食べた時の安らぎ。

 あれが全て演技だったと? そんな器用な真似が、この不器用なギャルにできるはずがない。

「でも……無理だった」

 アケミの声が震える。

「私、マナのことが好きになっちゃった。強くて、自由で、私が失くしちゃったものを全部持ってる貴女が、眩しくて……。だから、もう嫌なんだ。こんな役割も、こんな嘘も!」

 彼女は一歩、私に近づいた。

 そして、歪んだ笑みを浮かべた。

 それは、必死に自分を悪者に見せようとする、あまりにも下手な演技だった。

「ねえ、マナ。私を殺してよ」

「……何?」

「君なら、君の拳なら、私のこの惨めな人生を終わらせることができる気がするんだ」

 アケミは両手を広げた。

 その背後に、幻覚のような光の翼が揺らめいた気がした。

 天使の翼ではない。鎖で縛られた、囚人の翼だ。

「大丈夫……私は、この世界の敵。『悪役令嬢』だから。人間なんかじゃない、ただの器。貴女は、私を殺すことで、世界を救う英雄になれる。……だからね、お願い。君が、私を殺して……!」

 彼女は目を閉じた。

 私の拳を受け入れる覚悟を決めて。

 死による救済を求めて。

 ナターシャが、壁際で小さく拍手をする音が聞こえた。

 『さあ、やりなさい』と煽るように。

 私は、右手の拳を固く握りしめた。

 ギリギリと、革の手袋が悲鳴を上げるほど強く。

 ああ、そうですか。

 死にたいですか。

 自分が悪役だから、殺されて当然だと?

 英雄になれと?

 ――ふざけるな。

 私の脳内で、何かが切れる音がした。

 それは、舞踏会でナターシャを殴った時と同じ音。

 だけど、今回は少しだけ色が違った。

 怒りではない。

 どうしようもないほどの、情けなさと、愛おしさ。

 私は地面を蹴った。

 コンクリートの床が爆ぜる。

 一瞬で距離を詰め、無防備に晒されたアケミの顔面を捉える。

「……っ!!」

 アケミが息を呑む気配。

 私は迷わず、その頬を目掛けて、右拳を振り抜いた。

 ドゴッ!!!!

 鈍い音が、狭い通路に響き渡った。

「がっ……!?」

 アケミの体が、独楽のように回転して吹き飛ぶ。

 そのまま数メートル転がり、壁に背中を打ち付けて止まった。

 静寂。

 ナターシャさえも、目を丸くして沈黙している。

 アケミは床に座り込んだまま、呆然としていた。

 殴られた左頬を、震える手で押さえている。

 赤く腫れ上がっているだろう。

 痛いだろう。

 けれど。

「……え?」

 アケミは、瞬きをした。

 そして、自分の頬を触り、首を傾げた。

(……生きてる?)

 彼女の目の中で、疑問符が渦巻いているのが分かる。

(首も折れてない。顎も砕けてない。……痛いけど、我慢できる痛み?)

 そう。

 彼女は気づいたのだ。

 私の拳が、あの日、ナターシャを吹き飛ばした「破壊の一撃」ではないことに。

 そして、ファミレスで彼女の元彼ケンを再起不能にした「制裁の一撃」でもないことに。

 この痛み。

 この手加減された衝撃。

 かつて、あのDV彼氏に殴られた時のような、暴力的な支配?

 いいや、違う。

 これは――

「……なんで?」

 アケミが、掠れた声で叫んだ。

「なんで……!! なんで手加減なんてするのよ!? 私は天使なのよ!? 貴女の敵なのよ!?」

 彼女は立ち上がろうとして、よろめいた。

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、私を睨みつける。

「なんで……!! 君の瞳は、まだ私を見てくれているの……!? マナ!!」

 彼女の視線の先。

 私は拳を解き、仁王立ちで彼女を見下ろしていた。

 軽蔑でも、憎悪でもない。

 ただ、呆れたような、それでいて温かい眼差しで。

「当たり前でしょ」

 私は、はっきりと告げた。

「友達だからよ」

「……っ!」

「それに、『君』じゃなくて、『あんた』でしょ。私達は、そんなふうに、お行儀よく、お互いを呼びあってない」

 私は一歩、彼女に近づく。

「『君』? 『私』? そんな悲劇のヒロインぶった口調、似合いませんわよ。あんたは、口が悪くて、ガラが悪くて、すぐに『マジウケる』とか言う、品のない女――アケミでしょう?」

「マナぁ……!! 私……!! 私、汚いんだよ!? 中身がバケモノなんだよ!?」

 アケミが泣きじゃくる。

 子供のように。

「良いの」

 私は彼女の目の前まで歩み寄り、膝をついた。

 そして、腫れ上がった彼女の頬に、そっと手を添えた。

「泥臭くても、汚くても、生きて良いの。……清廉潔白なだけの人生なんて、あっちの世界だけで十分ですわ」

 私の言葉に、アケミの瞳からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。

 彼女は私の腰にしがみつき、声を上げて泣いた。

「うあぁぁぁぁん! マナぁぁぁ! ごめんなさいぃぃぃ! 死にたくないよぉぉぉ!」

「ええ、ええ。死なせませんわ。あんたは私の相棒なのですから」

 私は彼女の派手な金髪を、優しく撫でてやった。

 少し離れた場所で、ナターシャが「チッ」と舌打ちをする音が聞こえたが、今はどうでもいい。

 ひとしきり泣いて、アケミが落ち着きを取り戻した頃。

 私は彼女の顔を覗き込み、真剣な表情で言った。

「さて、アケミ。泣き顔も可愛らしいですが、仕事の時間ですわ」

「……仕事?」

 アケミが鼻をすすりながら聞き返す。

「ええ。あんたの中身……その『七大天使』とやらに、用がありますの」

 私は立ち上がり、黒い革の手袋を締め直した。

「私を監視し、あんたを苦しめ、この世界を勝手にオモチャにしている元凶。……一発、ぶん殴ってやらねば気が済みませんわ」

「で、でも……私の中の天使は、あくまで端末で……本体じゃないの。私の意識があるうちは、表に出てこないし……」

「ならば、本体のところへ行きましょう。お願い、アケミ。あんたに受肉している七大天使の本体のところまで、案内して」

「……え? 本体って……それは私……」

 アケミは困惑している。

 無理もない。彼女自身、自分がどこから操作されているのか分かっていないのだろう。

 だが、私には心当たりがあった。

「いいや、違う。これは、この世界でいうところのボッチ……? だった私が、王城の図書室で、禁書と呼ばれる本ばかり読みあさっていた時に、気に入って覚えていた見出しだったんだけど」

 私は記憶の糸を手繰り寄せる。

 カビ臭い書庫。誰もいない静寂。そこで読んだ、古い神話の記述。

「あの時は、あまり信じていなかったけど、今なら分かる。あそこに書かれていたわ。『高位の霊的存在が、下位の世界に干渉するためには、莫大な魂の流動点が必要である』と」

「たましいの……りゅうどうてん?」

「そう。人々が行き交い、意識が交錯し、膨大なエネルギーが渦巻く場所。そこが『門』となり、本体が鎮座する玉座となる。……その、魂が交差する場所の正体さえ、分かれば……」

 私はアケミを見つめた。

 この世界で、私が最初に降り立った場所。

 そして、アケミと出会い、共に歩き始めたこの街。

「交差……する? 交差……点?」

 アケミが呟く。

 その瞳に、ハッとした色が浮かんだ。

「交差点……人の波……膨大なエネルギー……」

 彼女は弾かれたように顔を上げた。

「そうだ!!」

 アケミが叫んだ。確信に満ちた声で。

「シブヤの、スクランブル交差点だ!!」

 その言葉が出た瞬間、通路の空気がビリビリと震えた。

 正解だ。

 世界が「正解」だと告げている。

 私はニヤリと笑った。

「灯台下暗し、とはこのことですわね。私たちが最初に会った、あの場所こそが……敵の本丸でしたのね」

 私はアケミに手を差し伸べた。

 彼女は一瞬躊躇したが、力強くその手を握り返してきた。

「行こう、マナ。……あそこにいるの。私を縛り付けている、本当の『あいつ』が」

「ええ。行きましょう。道案内は頼みますわよ、アケミ」

 私たちが歩き出そうとした時、背後から声がかかった。

「……本気なの?」

 ナターシャだ。

 彼女は腕組みを解き、どこか複雑な表情で私たちを見ていた。

「七大天使は、神に等しい存在よ。貴女のその拳が、どこまで通用するか……」

「試してみるだけですわ」

 私は振り返らずに答えた。

「それに、ナターシャ。貴女もいつか、私がぶん殴りに行きますから。覚悟しておきなさい」

 ナターシャは一瞬驚いた顔をし、それからフッと鼻で笑った。

「……期待しないで待ってるわ。精々、無様な死に様を見せてちょうだい」

 それは、彼女なりのエールだったのかもしれない。

 あるいは、ただの皮肉か。

 どちらでもいい。

 私たちは走り出した。

 光の溢れるステージの裏側から、闇の広がる出口へ。

 そして、全ての始まりであり、全ての決着をつける場所――スクランブル交差点へと向かって。

 私の胸には、新たな炎が燃え上がっていた。

 友達を泣かせた神様ごときに、この私が負けるはずがない。

 待っていなさい、七大天使。

 貴方たちの聖域を、物理法則で破壊しに行って差し上げますわ!

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