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ぶん殴る!! 追放される!! 悲しい!!


 この世界は、狂っている。

 シャンデリアの光が乱反射する王城の舞踏会場。

 私の周りには、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちと、着飾った貴族の男たちが遠巻きに立ち並んでいる。

 彼らは一様に、微笑んでいた。

 不気味なほどに穏やかで、貼り付けたような慈愛に満ちた笑み。

 まるで、砂糖菓子でできた人形のようだ。

「マーガレット・フォン・アークライト公爵令嬢。僕は、君との婚約を破棄させてもらうよ」

 目の前に立つ金髪碧眼の男――王太子ロイドが、さも美しい詩を朗読するかのような口調でそう告げた。

 彼は私の元婚約者であり、この国の次期国王となる男だ。

 その隣には、小動物のように震える(ふりをしている)ピンクブロンドの男爵令嬢、ナターシャが寄り添っている。

「……理由は、お伺いしてもよろしくて? 殿下」

 私は扇子で口元を隠し、極めて冷静に問い返した。

 内心で煮えくり返るマグマのような感情を、必死に理性の蓋で押し込めながら。

「君は、ナターシャに対してあまりにも『配慮』が足りなかったからだ」

 ロイドは悲しげに眉を寄せた。

「先日の茶会でもそうだ。君はナターシャが紅茶に角砂糖を三つ入れようとした時、無言で見つめたそうじゃないか。その視線が、彼女の心を深く傷つけたんだ」

「……は?」

「それに、廊下ですれ違った際、君のドレスの裾が風を切る音が、少しだけ鋭かったと聞いている。その威圧的な音に、ナターシャは夜も眠れぬほどの恐怖を感じたそうだ」

 会場中から、「ああ、なんて可哀想に」「恐ろしい」「マーガレット様は、なんて乱暴な」というささやき声が漏れる。

 もちろん、誰も声を荒げたりはしない。みんな、優しく、穏やかに、私を非難しているのだ。

 ――あー、もう。

 うっせぇな、クソが。

 私は扇子を持つ手に力を込めた。

 バキリ、と扇子の親骨にヒビが入る音がしたが、誰も気づかない。

 この世界は、「神」によって創られた楽園だと言われている。

 争いはなく、暴力は存在せず、人々は互いを尊重し合う。

 誰もが生まれながらにして「聖人」のような道徳観を植え付けられている世界。

 殴る、蹴る、罵倒する。そんな概念は、歴史の教科書の中にさえ存在しない。

 だが、私だけは違った。

 マーガレット・フォン・アークライト、二十歳。

 物心ついた時から、私にはこの世界が薄気味悪い「洗脳社会」にしか見えなかった。

 

 誰も怒らない。誰も本音を言わない。

 気に入らない相手がいれば、「心の健康のために距離を置きましょう」と優しく微笑んで社会的抹殺を行う。

 真綿で首を絞めるような陰湿さが、この世界の「正義」だった。

 なぜ私だけ洗脳が効いていないのかは分からない。

 ただ、私は知っていた。

 筋肉が何のためにあるのかを。拳がどういう形をしているのかを。

 そして、我慢の限界というものが存在することを。

「マーガレット、君には『矯正施設』に行ってもらう。そこで、花を愛でる心と、詩を愛する優しさを一から学び直すといい」

 ロイドが宣告する。

 矯正施設。聞こえはいいが、要は洗脳が完了していない異端者を薬漬けにして廃人にする場所だ。

「……ひっ、ごめんなさいマーガレット様……私のせいで……」

 ナターシャが涙を浮かべて、ロイドの胸に顔を埋める。

 だが、私は見た。

 その隙間から覗く、彼女の口元が――三日月のように歪に吊り上がっているのを。

 あ、こいつ。

 今、笑ったな?

 『ざまぁみろ』って?

 『平和ボケしたあんたには勝てないわよ』って?

 私の脳内で、何かが切れる音がした。

 プツン、と。

 それは、二十年間張り詰めていた理性の糸が断ち切れる音だった。

「……ねえ、殿下」

 私は扇子を床に投げ捨てた。

 カラン、と乾いた音が響く。

「な、なんだい? まだ何か言い訳が……」

「言い訳なんてありませんわ。むしろ……」

 私はドレスの裾を蹴り上げ、ハイヒールの足で床を強く踏みしめる。

 カーペットの下の石床を捉える感触。

 丹田に力を込め、重心を落とす。

「わたくし、ずっと試してみたかったんですの」

「何を……?」

「こういうことですわ!!!!」

 私は地を蹴った。

 ドレスなどお構いなしに、一直線に彼らとの距離を詰める。

 

 誰も反応できなかった。

 なぜなら、この世界には「急接近する」という攻撃行動の概念がないからだ。

 彼らの脳は、私の動きを処理できていない。

 ロイドを素通りし、標的はただ一人。

 私をあざ笑った、その性悪女。

 私は右手を固く握りしめた。

 親指を外に出し、四本の指を強固にロックする。

 二十年間、図書室の奥底に封印されていた「古の格闘技」の禁書を読み込み、夜な夜な自室でシャドーボクシングを繰り返して磨き上げた、私の最高の一撃。

 腰を捻り、背中の筋肉を連動させ、肩を押し出す。

「このッ、クソアマがぁぁぁぁぁぁッ!!!!」

 ドゴォッ!!!!

 鈍く、重い衝撃音が舞踏会場に轟いた。

 私の右拳が、ナターシャの左頬に深々とめり込む。

 整った顔が物理法則に従って歪み、衝撃波が彼女のピンクブロンドを逆立てた。

「ぶべらっ!?」

 聞いたこともない汚い悲鳴を上げて、ナターシャの体が宙を舞う。

 きりもみ回転しながら数メートル吹き飛び、ビュッフェ台のケーキの山に頭から突っ込んだ。

 静寂。

 完全なる静寂。

 誰も動かない。

 ロイドも、令嬢たちも、衛兵さえも。

 彼らは口を半開きにして、目の前で起きた現象を理解できずにフリーズしていた。

 人が、飛んだ。

 顔が、歪んだ。

 そして何より――痛そうだった。

 それは、この「優しい世界」では絶対に起こり得ない物理現象。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 私は拳を振り抜き、残心をとったまま息を吐く。

 拳が熱い。

 ジンジンと痺れるような痛み。

 ああ。

 なんて、清々しいんだろう。

 これだ。私が求めていたのは、この手応えだ。

 陰湿な嫌がらせでも、嘘くさい微笑みでもない。

 魂と魂(と物理)のぶつかり合い。

 私はゆっくりと顔を上げ、青ざめるロイドに向かってニッコリと微笑んだ。

 今までの作り笑いではない。心からの、満面の笑みで。

「あー、スッキリしましたわ」

 その時だった。

『――警告。警告。』

 どこからともなく、機械的な声が響いた。

 人の声ではない。もっと無機質で、冷徹な響き。

 天井から聞こえるようで、脳内に直接響くような。

「な、なんだ? 今の声は……」

 ロイドが狼狽える。

 だが、異変は声だけではなかった。

 ザザッ、ザザザッ。

 視界が、揺らいだ。

 美しい舞踏会場の風景が、まるで接触不良のテレビ画面のようにノイズ混じりになる。

 ナターシャが突っ込んだケーキの山が、画素の粗いブロック状に分解されていく。

 悲鳴を上げる貴族たちの顔が、のっぺらぼうのように塗りつぶされていく。

『聖書の記述シナリオに反する異分子エラーを発見。』

 空中に、赤い文字が浮かび上がった。

 誰も読めないであろうその文字を、なぜか私だけは理解できた。

 【NO SIGNAL】

『オブジェクトID:Margaret_v2.0 による、規定外の物理干渉(Violence)を確認。世界の恒常性維持のため、直ちに排除します』

「排除……?」

 私が呟いた瞬間、足元の床が消失した。

 いや、黒い「無」に変わったのだ。

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 私はただ、ムカついたから一発入れただけで……!」

『問答無用。デリートを開始します』

 世界が崩落する。

 天井のシャンデリアがデジタルな光の粒子となって霧散し、ロイドの顔がグリッチノイズに飲まれて消えていく。

 

 私の体も、重力を失ったように浮き上がった。

 指先から感覚が消えていく。

(ああ、やっぱり。この世界は作り物だったのね……)

 薄れゆく意識の中で、私は妙に納得していた。

 神様だかシステム管理者だか知らないけれど、よほど私の右ストレートが気に入らなかったらしい。

 

 でも、後悔はない。

 あの感触。あの快感。

 私は初めて、私として生きることができたのだから。

 視界がホワイトアウトする。

 光の中に飲み込まれ、私の意識はそこで途絶え――

 ***

 プップー!

 ガガガガガッ!

 ザワザワザワザワ……

「う……ん……?」

 騒がしい。

 うるさい。

 さっきまでの、静まり返った舞踏会場とは大違いだ。

 耳をつんざくような轟音。

 何かが擦れる音。

 そして、無数の人々の話し声と足音。

 鼻を突くのは、香水の匂いではなく、焦げたようなオイルと排気ガスの臭い。

 私はゆっくりと目を開けた。

「……は?」

 そこは、王城ではなかった。

 もちろん、私の部屋でも、牢屋でもない。

 見上げれば、首が痛くなるほど高い建物が四方を囲んでいる。

 その壁面には、巨大な板が張り付いており、極彩色の光る絵が動いている。

 そして足元には、黒いアスファルトの地面と、奇妙な白い縞模様。

「危ないよ! どいてどいて!」

「信号変わるぞー!」

 誰かの怒鳴り声に、私は弾かれたように顔を向けた。

 

 そこには、見たこともない奇抜な服を着た大量の人々。

 そして、猛スピードで突っ込んでくる鉄の塊たち。

 私は呆然と立ち尽くしていた。

 ドレスの裾を引きずり、右手を握りしめたまま。

 目の前の巨大なスクリーンに映し出された文字が、チカチカと光っている。

 『SHIBUYA 109』。

「ここ……どこよ……?」

 スクランブル交差点のど真ん中。

 行き交う人波が、異物を見るような目で私を避けていく。

 ドレス姿の令嬢。

 拳には、まだ微かに「悪役令嬢」を殴った感触が残っている。

 私はどうやら、世界から「排除」され――もっとカオスで、もっと騒々しい、別の地獄(あるいは天国)に放り出されてしまったらしい。

 見知らぬ世界。見知らぬ人々。

 でも、不思議と恐怖はなかった。

 なぜなら、ここには「生きた音」が溢れているから。

 私はドレスの裾を翻し、交差点の真ん中で不敵に笑った。

「上等じゃないの。この世界でも、私の拳が通用するか……試してあげるわ!」


お願い


軽い気持ちでブクマお願いします。

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