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くらすぞ! 九電記念体育館と林拳児の残影

作者: 滝 城太郎

*推敲前の文章を間違って投稿してしまいましたので、改めて加筆、訂正したものに差し替えました。

福岡のジムに所属するローカルファイターにして一時期は中量級のホープとして全国区の知名度を誇った林拳児という今は忘れ去られたボクサーのノンフィクション小説です。かつては大相撲九州場所が開催されていたこともある九電記念体育館でボクシングを観戦したことのあるオールドファンにあの頃の熱狂を思い出していただければと思います。


 

 昭和四十四年七月二日、人類が月面に到達する十九日前、地方都市の小さな木造ジムから拳の世界の頂点に向かって猛烈な勢いで加速を続けていた一人の若者の野望が志半ばにして燃え尽きた。

 その若きボクサーの名は林拳児。福岡中央ジムに所属するローカルファイターである。


 週刊少年マガジンに連載中のボクシング漫画の名作『あしたのジョー』が凄まじい人気を集めていた昭和四十年代の中頃、ボクサーを志す若者は今日の比ではなかった。年俸一千万円がプロ野球の一流選手の証だった時代にあって、WBA世界フェザー級チャンピオン、西城正三の世界戦の報酬は最高で三千万円、ノンタイトル戦でも人気カードとなると五百万円にまで跳ね上がっていた。プロ野球最高峰のONの年俸をたった一試合で稼ぎ出す二十代前半のボクサーに憧れる若者が続出したのも当然かもしれない。

 とはいえ『あしたのジョー』のようにオンボロジムから落ちぶれた元ボクサーの中年トレーナーとの二人三脚で世界に挑むなどという話は、所詮は絵に描いた餅に過ぎず、人気ナンバーワンだった西城にせよ、「雑草男」の異名をとった叩き上げの小林弘(WBA世界J・ライト級チャンピオン)にせよ、近代的設備が整った東京の一流ジムの所属だった。

 ボクシングとTV中継が切っても切れない頃だけに、キー局のある関東のボクサーは知名度において九州などは言うに及ばず、関西圏とも全く比較にならなかった。だからこそ、米倉健司(東洋バンタム級チャンピオン)やムサシ中野(東洋ウエルター級チャンピオン)といった福岡出身の人気ボクサーも、地元のジムになど目もくれず、恵まれた環境を求めて上京していったのだ。

 林拳児はエリートの養成所たる中央の名門ジムではなく、興行面でも大きなハンディを抱える地方ジムに在籍したまま、その試合が全国ネットでTV中継されるまでになった稀有なボクサーである。アマチュア実績もない地方の無名ボクサーが格上の選手を次々とナックアウトしてゆくさまは大きな話題となり、不遇なローカルファイターにとっても林の活躍は心の支えとなった。

 わが国で地方ジム所属の選手が世界チャンピオンになるのは、さらに何十年も先の話だが、『あしたのジョー』の連載が終了して間もなく、これに近い舞台設定で大ヒットを記録したボクシング漫画がある。小山ゆう作の『がんばれ元気』である。

 昭和五十一年から週刊少年サンデーで連載が始まり、後にアニメ化もされた『がんばれ元気』は、『あしたのジョー』と並ぶボクシング漫画の二大傑作と言われており、五十代以上の男性なら覚えているかたも多いはずだ。クロスカウンターの名手、小林弘が矢吹丈のキャラクターづくりの参考になっているとされる『あしたのジョー』とは違い、『がんばれ元気』の主人公、堀口元気のモデルについては作者も含めて、これまで言及されることはなかったが、私見ながら、『がんばれ元気』は林拳児の活躍にインスパイアされたのではないかと思えるふしがあるのだ。

 まずボクサーとして、林と堀口はともに右ストレートに一撃必倒の破壊力を持つフェザー級の強打者である。次に育ちにしても、父親がいずれも元ボクサーという親子鷹で、暮らし向きもハングリーとは程遠い(堀口は父を亡くした後、資産家の祖父母に育てられた)。他にも前時代的な田舎のジムでトレーナーとマンツーマンで叩き上げてきたローカルファイターであるなど、共通点は多い。また、偶然かも知れないが、堀口元気の目標であるWBA世界フェザー級チャンピオンの名は関拳児という。

 作者の小山ゆうが、『あしたのジョー』と真逆のスタイルの作品にしたいと語っていたように、不良少年だった矢吹丈と育ちの良い優等生タイプの堀口元気は明らかにキャラが異なる。そんなお坊ちゃんボクサーがアマのエリートやコワモテのブルファイターを倒してゆくさまは、林が歩んできたボクサー人生をトレースしているかのようだ。堀口元気と違って、林拳児は世界チャンピオンにはなれなかったが、果たしてこの両者の相似点は単なる偶然なのだろうか。

 

 林拳児こと竹田一男は昭和十九年十二月二十八日、福岡市博多区東光に生まれた。当時のプロフィールに朝鮮慶南昌原郡出身と書かれているのは、本籍地が父親と同じになっているからで、純粋な日本生まれの日本育ちである。

 父親三郎が若い頃名古屋でボクシングをやっていたという家庭環境もあってか、林は幼少の頃から白井や矢尾板の試合をテレビで見て一喜一憂していたらしい。小学五年の時には、近所の自動車工場から分けてもらった乗用車のシートに詰め物をしてサンドバッグ代わりに叩くのが日課になったという。

 中学時代は父の勧めで柔道部に所属し、近所の道場にも通っていたが、手製のサンドバック打ちだけは欠かさなかった。柔道で鍛えあげられた体幹とサンドバッグ打ちが、林の強打の源泉になったのだろう。

 ボクシングを始めたのは東福岡高校に入学してからのことである。この頃は、かっとなるとかえって棒立ちになって手が出なくなる癖があり、アマチュア戦績は二戦二敗と冴えないまま、わずか三ヶ月でグローブを吊るしている。

 高校は二年で中退し、自動車整備工になったが、やはりボクシングは諦めきれず、薬院にある福岡中央ジムの門を叩いた。日本中が東京オリンピックに沸きかえっていた昭和三十九年秋、林が十九歳の時である。


 福岡中央ボクシングジムの創立は昭和三十六年、福岡市内で最初のボクシングジムだった。ボクシング界はファイティング原田、海老原博幸、青木勝利のフライ級三羽烏の台頭により、空前のボクシングブームが幕を開けていたが、中央と地方の格差が激しく、九州一の大都市、福岡市のジム所属であっても、たかだかC級ライセンス(四回戦)のプロテストのために東京まで出向かなくてはならなかった。そのせいか、プロボクサーの絶対数が少ない西日本や九州では四回戦のボクサーさえ関東から呼ばなくてはならないことも多く、滅多に試合も組めないのが現状だった。福岡中央ジムが創立当初はアマチュア専門だったのは、このような理由によるものだ。

 入門以来ずっとトレーナーを務めていた三角恭志によると「大振りで人一倍下手だった」という林が初めてプロのリングに立ったのは昭和四十一年七月二十日のことで、プロテスト合格から一年が経過し、すでに年齢も二十歳を越えていた。

 大分市で行われた福岡県出身の日本フェザー級上位ランカー、塩山重雄の前座で富田博之(熊本)に判定勝利を収め、幸先の良いデビューを飾った林は、大牟田、北九州、下関と試合場を転々としながら連勝を続けたが、昭和四十二年四月四日、初めての地元福岡市での試合では緊張のあまり手が出ず、前年度新人王の小川清(後の日本J・ライト級王者)にプロ入り初の黒星を喫してしまう(六ラウンド判定負け)。

 ローカルファイターの悲哀というべきか、林はその後も山口、大分、東京と試合を求めて頻繁に県外まで遠征したが、デビューから二年間で十一試合というのは、総じて試合数が多かった当時としてはかなり少ない部類に入る。試合数が少なければランキングが伸びないのはもちろんのこと、名のある相手との対戦がなければ知名度も上がらず、ファイトマネーも期待できない。そうなると地方で腕を上げたボクサーは必然的に関東方面のジムに移籍してゆくことになる。この点においては福岡中央ジム所属の選手も例外ではなかった。

 しかし、林だけは違っていた。前座で九勝一敗(四KO)一引き分けという好成績を残しているにもかかわらず、中央で一旗揚げようというような意識はあまりなかった。これは、自動車の二級整備士の資格という手に職を持つ林にとって、ボクシングはあくまでも将来整備工場を持つための副収入源だったからだ。なにしろ実家が食堂を経営し、自らもマイカーを所有しているような男である。ハングリースポーツの典型であるボクシングでプロにまでなりながら、ボクシングに人生の全てを懸けて一攫千金を目指すというより、引退後の人生をも見据えているところなど、関拳児に勝った時点でボクシングとおさらばして普通の若者に戻る気でいる堀口元気のドライともいえる価値観に近いように思う。


 そんな無欲な男に大きな転機がやってきた。昭和四十三年八月二十四日、熊本での試合で、初めてメインエベントのリングにのぼることになったのだ。対戦相手の二代目青木勝利こと佐藤稔は、メガトンパンチャーで鳴らした先代とは打って代わったアウトボクサーで、戦績も二十一勝五敗(日本フェザー級四位)と過去にグローブを交えた相手とは全く格が違っていた。

 ところが、林の強打は五ラウンドに青木を捉え、よもやの五ラウンドKO勝ち。青木との対戦が決まった時、「しょうがない」と思ったというから、本人にも予想外の結果だったのだろう。いかにもクールで物怖じしない林らしい。この勝利で林はついに日本フェザー級五位にランクインした。


 続く十月九日は、地元の九電記念体育館で同い年にして昭和三十九年度全日本新人王の津金沢記一とセミファイナルで相いみまえ、六ラウンドKO勝ち。過去に日本人からは一度もKOされたことがない津金沢も、林の強打の前にはなす術もなかった。

 年末の十二月一日には、小倉体育館で東洋九位のオーランド・メディナ(フィリピン)をこれまた六ラウンドで屠り、これで三連続KO勝利。まだ中央ではほとんど無名の存在ながら、一部の評論家の間では期待の新鋭としてにわかに注目を浴び始めた。


 年が明けた昭和四十四年、林にさらなるビッグチャンスが舞い込んできた。十九歳の若きスター、岩田健二(日本J・ライト級一位)との一戦である。かつて東洋無敵を謳われ、世界フェザー級史上最強の王者サンディ・サドラーと対戦したこともある金子繁治の愛弟子である岩田は、師匠譲りの好戦的なファイターで、デビューから一年半で十五連勝と快進撃を続けていた。この中には世界九位のグレグ・ギュルレに完勝した星も含まれており、岩田にとって林との対戦は世界へのほんの通過点に過ぎなかった。

 そもそもこの試合にしても、当初は今をときめく西城正三と一勝一敗と五分の星を残しているホセ・ルイス・ピメンテルとの対戦予定だったのが、急遽ピメンテルの都合で林に代役が回ってきたもので、本来なら、世界を獲る器と見なされている岩田に、あえてローカルファイターと戦うメリットなど何もなかったはずである。

 三月二十九日、九電記念体育館のリングに初めてメインエベンターとして登場した林は、評論家がこぞって岩田の勝利を予想する中、初回からワンツーとボディの二段打ちで岩田得意のインファイトを封じ、終盤まで優位を保ち続けた。そして迎えた八ラウンド、ボディブローでスタミナを消耗し、防戦一方となった岩田を滅多打ちにし、三度もキャンバスに叩きつけた。

 八ラウンド二分二十六秒、岩田のプライドと夢は春風に舞う桜の花びらのように虚空に散っていった。


 この試合の直前までは咬ませ犬的存在だった林の劇的勝利について、当時の二大ボクシング専門誌は対照的な記述をしている。

 老舗の『プロレス&ボクシング』(昭和三十一年創刊)が林のKOシーンをグラビア頁を一頁丸ごと使って試合の詳細まで紹介しているのに対して、新興の『ゴング』(昭和四十三年創刊)はわずか数行の記述があるだけである。後者は無名のローカルファイターの勝利をフロックと見なす一方で、業界の金の卵である岩田の敗北は単なる慢心によるものとして、その記憶が風化してゆくまで触れないでおこうとする配慮が伺える。

 ところが、大切な金の卵を踏み割ったローカルファイターの勢いはとどまるところを知らなかった。

 何と、現役の日本J・ライト級王者、東海林博までがノンタイトル戦で林の強打に沈められてしまったのである。


 ヨネクラジム所属の東海林博は、林より二つ年下の二十二歳ながら、老け顔のせいかベビーフェイスの林よりも年上に見える。見た目通りというべきか気性も激しく、ボクサーになる前は二十人の学生に対して一人ずつ相手をし、全員叩きのめしてしまったこともある。

 下馬評ではキャリアで勝る東海林が有利と出ていたが、ボクサーらしからぬ柔和な顔立ちで目下人気急上昇中の林に対しては、いつも以上に闘争心をかきたてられたのか、報道陣を前に「やつにパンチがあるって?そんなものへっちゃらさ。俺は逃げずに真っ向から打ち合い、倒してみせる」と怪気炎をあげていた。

 少々荒っぽいがクレバーさも持ち合わせていた東海林は、足を使いながらボディブローを多用し、十ラウンドフルに戦ったことがない林のスタミナを奪ったところで終盤勝負に出ると見られていた。いくらハードパンチャーといっても、所詮林は一階級下の選手である。パンチ力も打たれ強さも格段に違う。試合が長引けばチャンピオンが有利であるのは明らかだった。

 ところが林の強打は規格外だった。伸びのいい右ストレートはタフな東海林が一瞬棒立ちになるほど強烈で、試合予想とは裏腹に、ラウンドが進むごとに足取りが重くなってゆくのは東海林の方だった。

 迎えた三ラウンド、林の右ストレートをクリーンヒットされた東海林はロープに吹っ飛ばされて最初のダウン。かろうじて立ち上がったものの、右フックと右ストレートでさらに二度のダウンを追加され、レフェリーストップのTKO負けに退いた。この試合から七ヶ月後には現役世界王者の小林弘と引き分け、一時は世界の声がかかったほどのタフガイにとって、これがボクシング人生初のKO負けだった。

 一方、初の全国ネットのTV中継で見事なKO勝ちを収めた林は、勝利者インタビューで「今夜は本場の東京ちうことで恐ろしかったけん、どうせならこっちからくらしてやろうと思っとったとです」と博多弁丸出しでまくしたてた。


 現役日本王者を木っ端微塵に粉砕して東洋J・ライト級二位にまでランクを上げた林の評価はうなぎのぼりだった。

 ハンマーパンチの藤猛(元世界J・ウェルター級王者)が衰え、十二連続KOの日本記録(当時)を樹立したムサシ中野(元東洋ウエルター級王者)が突然の引退を表明してからというもの、日本のボクシング界は西城や小林に代表される技巧派が主流となり、派手なKOシーンを楽しみに会場に足を運ぶファンたちにとってはいささか物足りない状況が続いていた。

 それだけに、KO決着必至の林の台頭は人気が頭打ちになってきていた業界関係者を喜ばせた。とりわけフィニッシュブローである右ストレートは、現役時代に世界でも指折りのテクニシャンと謳われた解説者の矢尾板貞雄が絶賛したほどの切れ味を誇り、本格的なストレートパンチャーが少ない日本人ボクサーの中ではいっそう見栄えがした。

 

 全国区の人気ボクサーとなったおかげで試合のオファーが目白押しとなった林が次に選んだ相手は、世界ランキング七位のフラッシュ・ガレゴ(フィリピン)だった。

 ノンタイトルで東海林に圧勝したことで、改めてタイトルに挑戦したところで興行的に旨味がないと考えた契約局のフジテレビでは、東海林への挑戦権をかつて林に唯一の黒星をつけたファントム小川(小川清から改名)に譲り、世界への試金石として東洋圏ではトップクラスの強豪であるガレゴを選んだのだ。

 ガレゴはムラっ気の多いラフファイターで、岩田健二には完敗しながら東海林には判定勝ちを収めている。したがって三段論法でゆくと、岩田と東海林を苦もなくKOしている林の勝利は固く、事実、試合予想もおおむねガレゴは林の敵ではないというものだった。不安点をあげるとすれば、ガレゴは去る四月三日、世界ランカーの石山六郎を試合終了間際の劇的ナックアウトで下しているように、調子に乗ると怖いところもある。

 実は石山戦は、当初東洋J・ライト級王座決定戦と銘打たれており、番狂わせの勝利を演じたガレゴが一旦王座に就いたのだが、OPBFはこの試合を認知せず、サレマン・イチアヌチット(タイ)を改めて新王者に認定したといういきさつがあった。

 そのため林対ガレゴ戦は、名目上は東洋J・ライト級王座挑戦者決定戦となっていた。とはいえ、ガレゴは表向きは無冠であっても、実質的な東洋王者であることは誰もが認めるところで、林がもしガレゴに勝てば、世界フェザー級王者の西城か世界J・ライト級王者の小林弘との対戦話が出てきてもおかしくない。


 七月二日の後楽園ホールは久々の満員だった。ほぼ全ての観客が林のKOシーンを見るために詰めつけたのだ。ところが、この時の林は会社の同僚とキャッチボールに興じている最中に患ったギックリ腰が完治しておらず、会場まで医師が同伴するほど事態は深刻だった。このコンディションでは最終ラウンドまでは無理と見たか、林は一ラウンドのゴングと同時に猛然とガレゴに襲いかかった。

 序盤は一方的な展開だった。ガレゴは林のスタミナ切れを待っているかのようにのらりくらりとパンチを交わし、打ち合いには応じようとしない。思い切ったパンチを出すのはもっぱら林の方で、クリーンヒットこそしないものの、ポイントは確実に稼いでいた。

 そして四ラウンド、林が右ストレートを一閃するとついにガレゴがダウン。観客席のボルテージは一気に駆け上がった。しかし、このパンチはたまたまタイミング良く決まっただけで、腰が入っていないぶんダメージは見た目よりは軽微なものだった。

 林がフルマークのリードで迎えた五ラウンド、大振りのスイングをぶんぶん振り回しながらガレゴが反撃を開始した。腰を痛めて動きの鈍い林は守りに回ると苦しい。たまらずクリンチで逃れようとしたところ、離れ際に右アッパーを突き上げられ、膝からマットに崩れ落ちた。

 立ち上がったところに右フックを浴び、二度目のダウンを喫した林は完全にグロッギーに陥り、もう一度ダウンを追加されたところでレフェリーストップ。全ては振り出しに戻った。

 勝負の世界に「もし」は禁物かも知れないが、林が腰を痛めておらず、あと数センチでも踏み込みが鋭ければ、普段のパンチの重さからしてガレゴのダメージはさらに大きく、五ラウンドにフルスイングで反撃を開始するまでには回復していなかっただろう。場合によっては四ラウンドにフィニッシュされていた可能性だってある。

 世界はあと数センチだけ遠かった。

 

 皮肉なことに、林が世界路線から脱落した約二週間後の七月十四日、ライバル岩田健二は正規王者のイチアヌチットにノンタイトル戦で完勝し、再び世界への道を歩み始めた。

 

 林の再起戦は九月十七日、東海林博との日本J・ライト級タイトルマッチだった。

 これは一日も早く林にリベンジしたい東海林サイドからのオファーを受けたものだが、ギックリ腰を引き摺ったままの林にとっては大きな賭けだった。明らかに不利を承知で対戦を承諾したのは、地方ジム所属の選手にとって、タイトルマッチは千載一遇のチャンスであり、ここで断ればいつ挑戦する機会が巡ってくるかわからなかったからだ。もちろん、ガレゴ戦での失態を払拭したいという思惑もあってのことだ。

 パンチ力で勝る林はこの日も積極的に東海林を攻め、二ラウンドには右のカウンターでぐらつかせてから、左右の連打でダウンを奪う上々の滑り出しを見せた。

「見たか、これが林の実力だ」地元ファンの誰しもがそう思った刹那、スーっとインサイドに身体を寄せた東海林の右クロスが炸裂すると、今度は林がダウン。やはり、腰の切れが悪い林のパンチでは東海林をグロッギーに追い込むほどのダメージを与えることは出来なかったのだ。

 逆にガレゴ戦でも見られた左のガードの甘さを突かれた林は、このダウンで腰痛をさらに悪化させてしまい、続く三ラウンドに三度倒されてKO負け。試合後の控え室では、自分でトランクスを脱げないほどだったというから、この試合は明らかにミスマッチだった。

 このコンディションでもチャンピオンからダウンを奪えるほどの強打を持つ林のこと、じっくり治療してから再起を図れば、まだまだチャンスはあったはずだ。


 初の連敗を喫した林だが、二試合とも先制のダウンを奪っているように、試合そのものはスリリングな打撃戦だったおかげでファン受けはよく、商品価値そのものが急落することはなかった。その証拠に翌昭和四十五年は、岩田との再戦をはじめ、関西の新鋭、アポロ嘉男との二連戦などビッグカードが多く組まれ、過去最高となる年間七試合もこなしているのだ。

 一時の輝きは失せたとはいえ、後に三度も世界に挑戦するアポロと引き分けた他、アメリカ武者修行帰りのリッキー沢をKOするなど、時折往年の強打の片鱗を見せた林に最後のチャンスが巡ってきた。岩田健二とのラバーマッチである。


 昭和四十六年八月十六日、三カ月後に世界挑戦を控えた日本J・ライト級チャンピオン岩田健二と九電記念体育館で相いまみえた林は、壮絶なKO負けに退き、一年後にリングを去った。

 一方の岩田もライバルとの死闘で燃え尽きたか、ベネズエラのカラカスで行われた世界戦でアルフレッド・マルカノに惨敗を喫した後は、三度笠をかぶったひょうきんな男からわずか一ラウンドで片付けられ、表舞台から足早に去っていった。岩田が日本人にKOされたのは林以来のことだった。

 岩田を子供扱いにした男こそ、後に東洋人初の世界ライト級チャンピオンとなるガッツ石松だった。


 林の生涯戦績は十九勝十敗(十二KO)一引分で、テレビ局と専属契約までしたメインエベンターとしては平凡の域を出ないが、後楽園ホールと九電記念体育館を熱狂のるつぼに叩き込んだ強打は、同時代を過ごした博多ッ子にとっては郷土の誇りだったに違いない。

 林がジムに入門した年に竣工し、かつては大相撲九州場所も開催された九電記念体育館も平成三十一年三月に閉館後、解体され、今はない。


 


私は末期の九電記念体育館でローカルファイトを観ただけで、林拳児は時代が違い過ぎて全く記憶にありませんが、たまたま彼の活躍を知り、興味が湧いて色々調べた結果、現在では顧みられることのない過去のヒーローについてまとめた文章を書き残しておきたいと思い、十年ほど前に書いた文章を手直ししました。

もし、林拳児のことをご存知の方がいたら情報を頂ければ有難いです。


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