臨場要請
勝どき駅を出ると、ビル風にわずかに混ざった潮の香りが、沢白寛二の鼻腔を突いた。本来なら残暑まっさかりの9月だが、時折肌寒く感じるほど、今日の東京は涼しい。
ポロシャツにスラックスという格好は間違いだった。ジャケットを羽織るべきだったかもしれない。
沢白は後悔しながら、勝鬨橋の方向へ足早に歩みを進めた。
2020年代、東京の湾岸エリアにはタワーマンションが乱立した。
多くの金持ちが我も我もと家を買いあさり、都会の岸壁はあっというまに富の象徴となった。
それは、古き東京の風情をわずかに保っていた勝どきも例外ではなかった。
だが、湾岸の栄光は刹那に崩れた。
世界中で猛威を振るったコロナ・パンデミックから回復したのも束の間、日本の不況は取り返しのつかないレベルにまで落ち込み、富める者は一目散に国を去るか、去ることもできず全てを失った。
あとに残された楼閣はただ腐れ落ちていったのだ。
勝どきはただっぴろい空き地と化した。
そんな街に、沢白はここ数年毎日通っている。
駅から出て原っぱを進むと、沢白の目的地が見えてきた。それは、巨大な黒レンガの四角い建物だった。
さながら要塞化した鳥小屋のように見えるこの施設は、広域捜査庁(Regional Investigation Office―RIO)の東京本部であり、沢白の職場だ。
警察と対をなす広域捜査庁で、沢白は主任捜査官として働いている。
正門横に立っているセキュリティスタッフに軽く頭を下げて、門をくぐる。
庁舎に向かって進んでいると、携帯電話が鳴った。
発信者は、事件情報収集センター。
事件情報収集センター(Collect for Case-Information Center―CCIC)は、警察でいうところの通報指令室に相当する。
この部署から電話がかかるということは、出動要請だ。
「もしもし」
「川崎市の工場で男性の遺体が発見されました。
事件間接点解析システムが、千葉県内で先週発生した殺人事件と 〝接点あり〟と判断。
よって両事案を広域事件と認定。現場の所在地は、沢白班の捜査車両に登録済みです。
至急現場へ向かってください」
センターの指令員は無感情に告げる。
「了解した」
庁舎に向けていた足を、捜査車両が停まっている駐車場に向けた。
今度は沢白が電話をかける番だった。
通話履歴をスクロールして、目当ての名前を見つける。
通話ボタンを押そうとしたその時、後ろから声が聞こえた。
「主任!」
振り向くと、濃紺のスーツの男が手に荷物を持って、走ってくる。
男は、沢白のそばまで駆け寄ると立ち止まり、持っていた荷物を渡してきた。
それは、沢白の捜査用リュックだった。
男の名前は、蓮井孝和。32歳。広域捜査庁の捜査官で、沢白の部下だ。
七三分けショートの髪型は、走ったというのに全く乱れず、涼しい顔だ。
少し太い眉と奥二重の目が、凛々しい印象を与える美形な顔立ちだった。
背は180㎝あるかないかくらい。
対する沢白は、蓮井より少し背が低い。
オールバックの髪形で、切れ長の瞳に不機嫌そうな唇をしていて、見るものに威圧感を与える風貌だった。
今年で42歳になるその顔には皺が仲間入りしつつある。
腹が出ていないのがせめてもの救いだった。
沢白は、携帯をポケットに入れ、リュックを受け取った。
「もう出勤していたのか」
沢白の質問に、蓮井は背筋を伸ばして答える。
「丁度オフィスに入ったところで、主任のデスクの電話が鳴って、出てみると臨場要請だったので、車で待機していようと走ってきました」
律儀に細かく答える様子に、蓮井の人柄がにじみ出ているかのようだった。
生真面目な堅物。
沢白にとって、それが一緒に仕事をしている蓮井への評価だった。
「そうか、現場は川崎だ。急ごう」
沢白が言葉少なに報告を受け流すと、二人は車に乗り込んだ。沢白が運転席で、蓮井が助手席に収まる。
沢白が運転する、というのはこの二人の間でルールになっていた。
沢白は他人の運転が苦手だ。
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