第一章「あいこ」
あーどろ、ひゅうーどろ、どん。
あーどろ、ひゅうーどろ、どん。
この声は「あいこ」です。
両親が居なくなった寂しさからか、朝に起きてはデタラメな言葉を唱えるのです。
喉が乾いたので川に水を飲み、腹が減ったので森の中で鹿を食らう。ナイフで皮を剝ぎ、キリンのような無防備な姿で血を啜る。
あいこが口を拭う様は、鬼のようであった。
人里が川を隔てた先にあり、川へ行くと群れの声が聴こえる。群れの人達からは
「鬼の子」として恐れられている。
そんなことを気にせず、日々を過ごす。
腹も満たされたので、家に帰る、家と言っても洞窟で葉っぱの布団やら旅人が怖がって落として錆びてしまった小型ナイフやら物が散乱している。布団に入って眠りにつくかと思ったら、土草を踏む音が聴こえた、その音は長く続く。
ざっざっと、ざっざっと、ざっざっと。
音が続く。
ざっざっと、ざっざっと、ざっざっと。
音が続く。
ざっざっと、ざっざっと、ざっざっとざ。
静寂が包む、この瞬間。身構えるこの瞬間。
心臓の鼓動が。
どっどっど、どっどっど、どっどっど。
音が続く。
どっどっど、どっどっど、どっどっど。
骨まで響くこの音。
陽光が洞窟内に入るのを遮るかのように人影が段々と大きく長く見えた。
太鼓の音のように重い、洞窟に響く雷。
「捕らえろ」「殺せ」「鬼だ」群れの声は猿が威嚇する声と同じで恐怖と虚勢に満ちている。群れの掟を破ったら殺す、自分よりも優れているところがあったら殺す、気に入らないことで殺す。なんて愚かな生き物なのでしょうか。
あいこはナイフを急いで手に持ち、口に咥えて獣のように駆ける。群れは後退り、猫騙しを食らった顔で尻もちをついた。けれど群れは追ってくる。雷の音と黒い胡桃が一発、二発、三発、木に当たって、弾ける煙。
駆ける、駆ける、裸足で駆けていく。
木の間をすり抜け、脚の感覚がなくなるまで駆けていく。
群れの声は次第に小さくなり聴こえなくなった。
木に背を擦って腰を落とす、火照った身体を吸って吐いて肺を確かめて呼吸を落ち着かせる。家にはもう帰れない、悲しみがあいこを襲う。その日は一晩中、顔が晴れるまで泣き崩れた。
夢を見た。
女の甲高い声、泣く赤子。
骨まで伝う衝撃、黒煙。
あの男の蔑む目、鼻につく黒い服。
四つん這いで母の方へ歩く赤子。
女の声と鳴る笛の音。