金木星
「そうか。後悔のないように見送れたのはよかったな。だけど……満足していても悲しくないわけじゃないだろう」
殿下が胸元からハンカチを取り出して私の目に当てた。
「ありがとうございます殿下」
殿下からハンカチを受け取り、目元をぬぐう。
深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出す。気持ちを切り替えて、涙が止まるまでゆっくりした呼吸を続ける。
どうにもならない理由で亡くなっても、仕方がないと思っても、それでも悲しいのだ。
もし、あと何十年も生きられるはずだったのに、突然運命が変わって亡くなってしまったら。それが回避できたかもしれない出来事だったら……。
きっと、もっと悲しくて、辛い。
「殿下は……長生きしてくださいね」
私の言葉に、殿下がハッと息をのんだ。
「当たり前だ。俺が死んでお前が悲しむなら、俺は死なない。絶対お前より長生きしてやるから、安心しろ」
殿下が私の頭をなでようと手を伸ばして止めた。
撫でてくれてもいいんですよ?
ちょいと首をかしげると、ふいっと体を私からベランダへと向ける。
「いつも部屋の中にこもりっきりでは退屈だろう」
殿下が私を連れてベランダへと向かう。
侍女が到着のタイミングに合わせて窓を開いた。
ふわりと、外の風が中に入ってくる。
「なんていい香り」
めまいがしそうなくらい濃厚な素晴らしい香りに包まれる。
「素晴らしい香りだろう。金木犀の香りだよ。あのオレンジ色の小さな花をつけている木だ」
ベランダから数メートル離れた場所に、オレンジ色の粉雪をまぶしたような木が数本立っていた。周りの他の木に比べて随分と小さい。
これから大きくなるのか、それとも小さい種類の木なのか。
「金木犀……本で読んだことがありますわ。東の国に生えているという……。こんなに素晴らしい香りがするんでしたのね……」
さわさわと風が吹くたびに、金木犀の濃厚なにおいが体を包む。
「物知りだねシャリアーゼは。そうなんだ。東の国の木だ。数年前に東の国の商人が我が国と商売をしたいと許しを請うために持ち込んできたものだ」
東の国の商人!
「あの、その東の国の者は、商売を許されたのですか?今どこに?」
手相の本をお願いして翻訳までしてもらえたら。
「いや、詳しいことは知らないが……確か商売は許されたんじゃないか?調べてみるよ」
「ありがとうございます殿下」
「いや。シャリアーゼも欲しくなったんだろう?金木犀……。もし東の国から手に入らなかったとしても……」
金木犀が欲しいわけじゃないんですけど。
「毎年、ここで一緒に楽しもうシャリアーゼ」
ぶわっと強い風が吹き、金木犀の香りと共に、小さなオレンジ色の花が舞い込んできた。
髪の毛を抑え髪にかかるのを防ぐ。
「ごめんなさい、殿下。なんとおっしゃいましたか?聞き取れませんでした」
殿下が真っ赤な顔をして、私を見た。
「な、何でもない……。ほ、ほら座ろう」
バルコニーにいつの間にかソファが運び出されていた。
有能な使用人たちだ。護衛や侍女たちもバルコニーの端々に立っている。私と殿下を邪魔しない程度の距離を置いて。
殿下が今度は私にしっかりと手を差し出す。
エスコートするためのものだと分かり、すぐに手を添えた。
殿下がほっとしたように息を吐き出した。
「そうだよな……。初めて馬に触れたときには指先からだった。そして、手の平、両手、……次第に触れる面積が増えていったんだ。いつの間にか抱きしめられるほどになったんだった」
エスコートのために私の指先が殿下の手の平にちょんっと乗っている。
「確かに、これは指先が触れている状態かもしれませんわね。馬と同じように慣れていけばいいのかしら?」
と言ったとたんに殿下が慌て出した。
「べ、別にいつかは抱きしめられるようになりたいとか、そういう意味じゃないからなっ!馬の話をしただけで、馬扱いとかそんなつもりは」
へ?
「いえ、あの、そういう意味では。流石にいくら馬と同じようにと言っても、殿下に馬の代わりに四つん這いになってほしいとは思っておりませんわ……」
「え?俺が、馬?四つん這いは無理だが、種馬になら……いや、何でもない、なんでもないからな!」
ぼそぼそと何かをつぶやきながら首をぶんぶんと振り回している。
あら。微増。私、あと12年生きられるようになりましたね。でもまだ短い。
それからバルコニーに運ばれたソファに座り、殿下に身を寄せた。
殿下はびくりとしたものの、先ほどのように逃げ出すようなことはなかった。