第2話 ネギ抜き麻薬卵1
始まりは、一つの不可解な現象だった。
「おにいちゃーーんっ! おにいちゃん、ちょっと来てーーーーっっ!!」
朝っぱらから、家に響く妹の叫び声。なんだよ、うるさいな………。俺は必死の呼びかけにも全く応答せず、そのままダラダラ寝続ける。すると、都合の悪いことに声の主は自分から二階まで上がってきてしまった。
「おにいちゃん! 何度も呼んでるのに、なんで来てくれないの!? 大変な事が起きたんだってば!」
「なんだよ……。言っとくが、今は春休みの一番寝心地が良い季節なんだぞ。いくら可愛い妹の頼みでも、すぐには行けるはずがないだろ。えっと……、もう寝ていいか……?」
「ダメに決まってるでしょ!? あかりの頼みを聞こうともしないなんて、許されるわけがないでしょ? とりあえず、布団は没収!」
「うわあああああっ!! そんな、殺生なああああああーーーー」
数分後、俺はリビングで力なく正座して、妹、あかりの顔色を窺っていた。
情けないものだ。高校生にもなって小学生の妹よりも立場が下だなんて……。いや、そんなことを考えたってますます惨めな気分になるだけだ。とりあえずは、あかりの話を聞いて兄として的確なアドバイスを与えよう。心の中ではそう意気込みながら、俺は恐る恐る妹に声をかける。
「そ、それで……。大変な事というのは、一体なんなんだ……?」
「やっと、話を聞く気になったんだね。私がおにいちゃんを呼んだのは、これを見せたかったならなの……。ほら、よ〜く見てみて」
あかりは神妙な面持ちで、ちゃぶ台の上に一つのタッパーを取り出す。蓋を開けてみると、中には良い具合にタレの染み込んだ煮卵が6個入っていた。
「これは、美味しそうな煮卵だ。なるほど、あかりはおにいちゃんのために一生懸命料理を作ってくれたんだな。ありがとう。あかりは俺の自慢の妹だよ」
「なんで、優しげな言葉でご機嫌取ろうとしてるの……。あからさますぎて逆に気持ち悪いんだけど……。というか、私が作ったの煮卵じゃなくて、麻薬卵だし…………」
麻薬卵? ああ……、なんか聞き覚えがある。確か最近、SNSで妙にバズったんだったな……。推しVtuverも配信で作ってたから、料理に興味がない俺でも多少レシピは覚えてる。確か材料は、卵、炒りごま、調味料諸々と…………。あとなんだっけな。
「……ああ、もう! なんで、すぐに分からないの! 麻薬卵なのに、長ネギが全く入ってないのはどう考えてもおかしいでしょ!?」
「それだ。完全に、頭から消し去ってたわ。……で、なんであかりは長ネギを入れ忘れてそんな怒ってるんだ? 怒っても過去の過ちが無くなるわけじゃないんーーーーぶへえええやあああああっっ!!!!」
あかりの握り拳が凄まじい速度で顔面に打ちつけられ、訳もわからないうちに身体ごとぶっ飛ばされる。鼻のあたりからミシミシ音がなった気がする……。おそらく……、3センチはめり込んだぞ…………。うう……、相変わらずのバカ力だ……。俺が痛みで転がり回る中、あかりは蔑んだ目つきで哀れな兄を見下ろしていた。
「おい、クソ兄ぃ……。今、あかりが失敗して勝手に騒いでるみてぇなこと言ってただろ。家事もまともにこなさず惰眠を貪ったとしてもなにも言わねえが……、完璧なあかりを否定するのなら、次は壁にめり込むことになるぜぇ…………」
完璧な妹は、怒らせると別人のようなオーラを纏う。まるで、少年漫画に出てくる人外筋肉武闘キャラのようにあかりは指を鳴らしている。このままだと本当に命が危ない。瞬時に察知した俺は、プライドを完全に無くし、躊躇なく鮮やかなスライド土下座をかました。
「す……、すみません! あかり様の失敗など万に一つも無いにも関わらず、無礼な口を聞いた私目をお許しください! なんでもしますから………、どうか制裁だけは………」
「ほぅ……。今、なんでもすると言ったかぁ………?」
あかりは、怪しげに眼光を輝かせながらニヤリと笑う。俺は未だ漂う暴力の気配に逆らうことはできず、ヘッドバンキング並みに頭を縦に振り続けるしかなかったのだった。