雨に打たれる死者は幸いなるかな
どうにもこうにも連載の方で筆が進まないので、気分転換に短編を書いてみました。
作中登場する<上司>は、知り合いの何人かを思い浮かべて書いたのですが、初めて彼らに少し感謝しました(笑)
……余談ですが<行き詰る>ことを英語で<high and dry>とか言うそうです。なぜでしょうね?
「人は誰しも自分のことを、何かひとつくらいは美徳を備えた存在であると考えるものだ。そして僕の場合はこうだ──世間には正直な人間はほとんど見当たらないが、僕はその数少ないうちの一人だ」
──F・スコット・フィッツジェラルド
部屋は奇妙なほどしんと静まり返っていた。夜が深まるにつれ、窓の外の灯がひとつまたひとつと消えていく。空腹の上に何本も続けざまに煙草を吸ったせいで、口の中が気持ち悪かった。僕はペットボトルの底に残ったわずかな水分を口に含み、空になったものをごみ箱に放り投げた。それから、ふと時間が止まった。今まで自分がなにをしていたのか、あるいはなにをしようとしていたのか、まるで思い出せなくなったのだ。目の前にはマイクロソフト・オフィス・ワードがパソコンの画面いっぱいに広がっている。
もう一本煙草が吸いたくなった。でもやっぱりやめた。
そして徐々に、自分がなにをすべきなのかを思い出した。そう、僕は明日の葬式で使われる弔辞を作成しなければならない。誰のために? 故人のためにだ。参列者のために、遺族らのためにだ。
故人の知人である三木課長がこの仕事を僕に頼んだ。いくつかの要点さえ押さえておいてくれればそれでかまわないから、と彼は言った。まずいついつに死んだか。またそのことで彼がどのくらい驚いたか。どこそこの仕事のとき、どれほどお世話になったか。なになにが趣味で、いつぞや誘いを受けたとか。どんな食べ物が好きで、よくご馳走になったとか。
僕は言われるがままメモ帳に走り書きをし、家に帰ってから、インターネット上で拾った弔辞の例文を削り、それらの要点を適当と思われる箇所に配していった。それほど苦なく、文章は出来上がっていくように思われた。事実、すべてを記し終えたとき、そこにはどのようなずれや矛盾も生じていなかった。
あとはそれを書類カバンに入れ、明日の葬式へ持参すればいいだけのことだ。けれど僕はそこで、ある点に気がついた。これはただの記録ではなく、人の生きたひとつの歴史なのだということに。
「遅くにすみません。板垣ですが」
「ああ、板垣。どうした?」と三木課長は言った。
「実は明日の告別式で読み上げる弔辞の件についてなのですが──」
僕はその先を言いよどんだ。いざ電話で話してみると、どう説明していいものやらよくわからなくなってしまったのだ。
「一度確認のためにここで読み上げてみてもいいでしょうか?」
かまわない、と三木課長は言った。僕は読み上げた。
「謹んで、野洲グループ副会長新田博敏様のご霊前に哀悼の意を表します。
二月九日午前九時十七分に心不全にて急逝されたとの報に接したとき、我が耳を疑いました。先月には、私とともに稲城屋で新田様のお好きな鮟肝で酒を酌み交わし、新らしい企画のことやお好きなゴルフの話などしてお元気でいらしたのに、突然の訃報、哀惜のきわみでございます。
新田様は、仕事に厳しい反面、話のわかる懐の深いかたでした。下請けの私どものこともさりげなく気遣ってくださる優しさのあるかたで、お仲人もずいぶん務めていらっしゃいました。今後もご指導にあずかりたいと願っておりましたのに、まことに残念でございます。
残された奥様やお子様のご悲嘆は、推察するだに胸の張り裂ける思いがいたします。新田様にとりましても、心残りでございましょう。
今となっては繰り言でしかありませんが、これからのご遺族をどうか陰ながらお守り下さい。我々は新田様の代わりとは決して申せませんが、力の及ぶ限りはあなた様の方針を堅持し、ご指導のお言葉に従ってますます社業に尽くす覚悟でございます。
どうぞ安らかにお眠りください」
束の間の沈黙があった。課長は満足気にうなった。
「これで大丈夫でしょうか?」と僕は念のために尋ねた。
「うん。いいんじゃないか、それで」
「わかりました。じゃあこのまま清書します」
「ありがとう。助かるよ」
電話が切れた。僕はふたたび部屋の薄闇の中に取り残されていた。
式の当日、ぱっとしない空模様のもと、四五十人の参列者が故人の家に集まった。それでも予定されていた人数よりはずっと少ないということだった。式の始まる半時間前に僕はその場に到着していた。門の周りには花輪が並んでいる。葬儀屋との短いやりとりを経て、僕は敷地に足を踏み入れた。遺族に挨拶するよりも先に、僕は三木課長の姿を探し求めた。そもそも遺族は元より、故人の顔さえ知らない身なのだ。
邸宅の庭は横に広く、門を抜けてから玄関までくねくねとした石畳が十数メートルばかり続いている。祭壇は縁側の奥に設置され、その手前にテントが張られていた。中にはずらりとパイプ椅子が並んでいる。敷地の端々に竹が生えており、葉は屋根のそばでさわさわと音を立てていた。庭はちょうど菱形のようなかたちで、そのおかげか四五十人という数でもそれほど窮屈ではない。
石畳を玄関に向かって歩き出してすぐに、自分を呼ぶ声がした。声のする方に振り向くと、幾人かの顔見知りと談笑する三木課長の姿が見えた。彼は高く手を挙げ、こちらに手招きした。
「板垣。こっちだ」
スタンド型の赤い灰皿が一同の中心に置かれていた。僕が歩み寄って、口を開こうとしたまさにその瞬間、三木課長はぱっと仲間内に振り返って世間話を続けた。
「だから俺は言ったんだよ。そんなうまくいくはずないってさ。けどあいつが──」話しながら三木課長は腕を伸ばし、僕の背を押して自分の隣に並ばせた。「『おまえの意見もわかるけど、事はやってみなくちゃわからない』なんて言うからさ。あとはこっちの知ったこっちゃないな、と思って……これはうちの部下。板垣っていうから」
紹介はそれだけだった。課長の知り合い連中は、かすかに頷くことによって僕の存在を形式上肯定した。
それから全然別の話題で場が盛り上がるのを潮に、手持ちぶさたになった課長が僕を連れて祭壇の前に歩き出した。遺影の前で手を合わせたあと、なにも知らぬ僕に小声でひととおりの説明を与えた。
「元請けさんとこのお偉いだよ。六十五で引退するまでは社長だったんだけど、この人がまた頑固でな。月初めに毎度々々挨拶に行かないと、次から仕事を出してくれないんだ。まあ後年は単にボケだったのかも知れないけどな」
周囲の目にそれとなく気を配りながら、三木課長は低い位置に手を出した。僕はそれと察して、懐から弔辞を取り出して手渡した。課長は手の中の奉書紙をじっと見下ろすと、その感触を味わうように指の腹で表面を撫でた。
僕はそこで不安に思っていたことを訊いてみた。
「あの、僕は故人とはどういう関係ということになってるんですか?」
「いや、別になんでもいいんだけどな」弔辞を懐にしまいながら、超然とした顔つきで彼は言った。「まあそれで困るなら、なにか自分で適当に見繕っとけ」
課長のこういった性質は特に今日に限ったことではなく、普段もたびたび部下である僕を辟易とさせた。まさに日本人的な上司の在り方だ。本来なら、というかどう考えても、故人と何の縁もない僕が弔辞などを書き上げるべきではない。でも彼が僕の上司であるという事実は事実だし、それが日本社会の在り方でもある。だからできるだけビジネスライクに、といって愛嬌を忘れぬスタイルで、僕は三木課長に接してきた。それもまさに日本人的な部下の在り方だと承知しながら。
予定していた時間が迫るにつれ、参列者の団体は少しずつ縁側のそばに集まって来ていた。やがて喪主と遺族が姿をあらわし、全員が着座した。テントの中は薄暗く、防虫剤の匂いが鼻についた。僕と三木課長は最後列の椅子に隣り合わせで座り、お互い黙っていた。
導師が入場するのとちょうど同じころに、ぱらぱらと雨が降り出した。全員が立ち上がり、合掌して、また席に座った。そしてゆっくりと、地を這うような低い声で経が読み上げられた。ぼんやりとした薄闇の中で、抑揚のない読経とテントを打つ雨の音を聞いていると、本当に気が滅入ってきてしまいそうだった。ややもすると昨晩のように、自分が一体なにをしているのかよくわからなくなった。
そのとき、三木課長がほんの少し僕の方に頭を傾けた。
「おい、ペンあるか?」と彼はささやいた。
「ペンですか?」と僕は驚いて尋ね返した。そして咄嗟に自分のスーツの胸ポケットに触れた。「ペンならありますけど」
すると彼はあわてて先ほど手渡した弔辞を取り出し、僕の膝元にそれを置いた。
「ちょっとふりがなを振っといてくれ」
「ええ?」
「政治家じゃないが、いざってときに読み間違えると恥だからな」
なにかの悪い冗談じゃないかと、本気でそう思いかけた。
「今ですか?」
「今以外にいつ書くんだよ」と彼はせせら笑った。
僕は呆気に取られていた。そして半ば途方に暮れながら、書面を膝元で開いた。この厳粛きわまる場で、誰にも不自然に思われず手直しを加えることなんてほとんど不可能に思えたからだ。それに上司の気分屋な一言で、傍から見ると不届きな行為に及ばなくてはならないなんて、とても我慢ならなかった。
僕は憤りを抑えつつ、勇気を持ってもういちど訊き返した。今度はちゃんと相手の顔を見て。
「どうしてもですか? ふりがなが無ければ駄目ですか?」
それに対して、三木課長の返答はひどく冷淡なものだった。僕の訊き方に侮辱を感じたみたいだった。
「いいから早く書けよ。今なら誰も見ちゃいないんだから」
それでどうにでもなれという気になった。もし誰かが注意すれば、隣の身勝手な男を指差してわけを説明すればいい。むしろそうなれば良いと願った。筆の定まらない膝元で書面にかなを振りながら、僕は上司の前で弔辞を破り捨て、黙ってこの場を去って行く自分の姿を想像した。
でもたとえ誰かが注意したとしても、実際にそんな行動には出なかっただろうと思う。それも僕にはわかっていた。だからそのやるせなさを、僕は弔文の結びに付け加えた。
弔電のあと、ひとりが壇上に上がって弔辞を述べると、それまで他人事のようにしていた三木課長も肩を強張らせた。かすかに息が乱れていた。雨は短い時間のあいだに、本降りとにわか雨を行き来していた。ちょうど課長が壇上に上がるころ、せわしく流動する雲間に薄日が顔を出した。
「それでは生前、故人とは良き仕事上の取引関係にあり、また私生活では親しい友人としての間柄でもあった三木靖様より、お別れのお言葉を頂戴したいと思います」
小さな咳払いをひとつして三木課長は立ち上がり、遺族と霊前の前で深くお辞儀をした。慣れない手つきで弔辞を開き、マイクに向かって心持ち顎を上げた。
背後の大いなる沈黙に気圧されて、三木課長は目を伏せたまま弔辞を述べ始めた。僕の立場もまた特別なものに変わった。そのときに限って、僕はその沈黙の一部であり、同時に主宰でもあった。そして最後的には、事がどうなるかと好き勝手に思いをめぐらす傍観者でもあった。
僕が予想していたとおり、弔辞はまさに結びの部分でつかえた。そこで昨夜に読み上げられたものとは少しだけ違っていることに気づいたのだろう、不可思議なアクセントの声音に、上司の明らかな困惑が見て取れた。言葉はもぎとられたように空中へ投げ出され、長く伸びた沈黙が不自然に漂った。
でも彼は踏ん切りをつけた。すっと息を吸い込み、元のように落ち着いて続けた。
「どうぞ安らかにお眠りください──雨に打たれる死者は幸いなるかな」
三木課長が壇上から下りるとき、彼の顔を見て参列者は先ほどの異様な空白を哀悼によるものだととった。でも僕だけは、彼が未だ困惑を引きずっていることに気づいていた。目が合うと、三木課長は物言いたげに口を半ば開いたが、場を弁えてかうやむやに閉じて僕の隣に座った。
焼香は僕がいちばん最後だった。遺族は僕の顔を見て、かすかな戸惑いを表情に浮かべた。それからゆっくりと、まるで遠い昔に見たなにかに当てはめるみたいに、なんとか親密さを生み出した。
雨は上がっていた。死者は花に埋め尽くされ、我が家を後にしようとしていた。長いクラクションが鳴り響き、訪れる夜の帳を嘆き惜しむかのように、列からは嗚咽がもれた。そぞろに後ろめたさを覚えながら、僕も参列者の一部となり、手を合わせて車を見送った。
「最後のあれはなんだったんだ?」
会場の緊張が解かれると同時に、三木課長はそう尋ねた。表情に怒りは見られなかった。
「あれは僕の好きな本から引用したんです。ちょうど雨が降っていたので」
「悪い意味合いは無いんだよな?」
「特には無いと思いますが」
それでもまだ解しかねる風だったが、その引用が面倒な注釈に及びそうだと考えて、彼は早々に話を転じた。
「……よし、帰って飯でも食うか」
「それが今日はこのあと少し予定がありまして」と僕は言った。
「ふうん。そうか、駄目か」
「すみません」
そして三木課長を後に残し、僕は邸宅から退場した。
帰りの電車に揺られながら、まだ胸に残るわだかまりをどこに追いやったらいいかと思案した。僕は上司の自分に対する扱いにふてくされていたし、相手がそれに気づいている確信が無いことに苛立ってもいた。その一日で僕に満足を与えたのはあの一時だけだ──「雨に打たれる死者は幸いなるかな」。
ぶらぶらと家路につくあいだ、明日を思い、またその先を思い、スーツの中で身を堅くしながらも、結局は自分の信じる道を進まねばなるまいと考えた。いくら当面の仕返しに燃えたところで、彼は上司だし、僕は部下だからだ。そして僕は例の言葉に続いて、「グレート・ギャツビー」から第三章の結びの文句を思い浮かべた。
著者が述べ、また僕が述べるように、人は誰しもが自分を哀れまずに済む拠りどころをひとつは持っているものだと思う。もしそうでなければ、人の営みは息苦しい身振り手振りの末にどうにか成り立っていることになってしまうだろうし、脆弱な大地で萌芽をただ待つのは死よりもずっとつらい。だからこそ我々は歩むために理由と目的を作り出し、そしてその二つを支えるために信念を生み出すのだ──それがまともな人間であれ、誰であれ。貧乏人であれ、金持ちであれ。
*第三章の結びは冒頭に載っている「グレート・ギャツビー」の一文です。