決意
有りえない情報を一気に詰め込まれた侍女長は暫くこめかみを抑えて目を閉じていたが、フッと息を吐き出すといつもの『歩く冷静鉄仮面』の表情となってラインステラへ深々とお辞儀をした。
「ようこそ、バスティーヌ帝国へ。我が国はラインステラ王女を歓迎いたします」
パチクリとラインハルト公爵と同じ濃紺の瞳を瞬かせたラインステラは、はじかれたようにお辞儀を返すとにっこりと笑顔をのぞかせた。
そのラインステラの柔らかな笑みを見たアルフォンス皇太子の心臓は跳ねあがった。
見目麗しい皇太子として美しい令嬢に囲まれ美女など見慣れていたアルフォンスだったが、ラインステラの美しさは別格だった。
先程から美しい人だなとは思っていたが彼女の笑顔を見た瞬間、一目で恋に落ちてしまったのである。
自分に媚を売る令嬢たちとは違う、嘘偽りのないラインステラの笑顔に引き込まれてしまい戸惑うアルフォンスを他所に、皇帝と宰相は今後の対応をどうするか黒い笑顔で話し込んでいた。
「まずはあの侍女をどうするかですね」
「ああ。まさか王女になりすますとは豪胆というか…」
「陛下、はっきり言いましょう。バカなだけです」
「相変わらず宰相殿は容赦がないな」
「陛下のお顔にもそう書いてありますよ?」
「むっ、そうか。私のポーカーフェイスもまだまだだな」
「侍女については1ヶ月後の皇太子との婚礼の儀までせいぜい良い夢を見させて差し上げましょう。それまでステラは私の屋敷に滞在すれば問題ないでしょう。ある意味あの侍女には感謝せねばなりませんな。ステラと一緒に暮らせるなんて夢のようです」
またも表情を緩めた宰相とは対照的に、アルフォンスが悲観的な声で呟く。
「私は1ヶ月もあの女の婚約者の振りをしなければならないのか…」
心底げんなりと言った様子のアルフォンスにラインステラが眉尻を下げ、申し訳なさそうに謝罪する。
「申し訳ありません…。でも私が王女として参っても、殿下を苦しめることに変わりはなかったと思います」
殿下は婚約者役を父に無理やり頼まれたのでしょう? と、目を伏せたラインステラにアルフォンスは慌てた。
「そんなことはない!」
声を荒げたアルフォンスにラインステラは瞳を瞬かせた。
自分の姿が醜いことを彼女は誰よりも解っていた。そして目の前の皇太子が輝くばかりに美しいことも。
皇太子が自分のために望まぬ婚姻を承諾してくれたことも理解していたので、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「あの…私、殿下が望むのであればすぐに離縁しても、いいえ正式に婚姻を結ばなくても構いませんから」
「え? 嫌だ! ではなくて…それは無理だ。これは国同士の話だし」
「そうですか…殿下にはご迷惑ばかりおかけしてしまって申し訳ありません」
「べ、別に迷惑なわけではない」
「殿下はお優しい方ですね…」
寂しそうに笑うラインステラに思わず手を伸ばしかけたアルフォンスの動きは、次の声で固まった。
「殿下、私の可愛いラインステラに何をしようと?」
アルフォンスが振り返ると穏やかな笑顔をして、目だけは笑っていない絶対零度の声の宰相がいた。
宰相の冷ややかな視線にたじろぐアルフォンスに苦笑しながら皇帝が話を進める。
「ところで『女神の加護』の儀式はいつ行うのだ?」
宰相は皇太子を見ていた冷たい眼差しを緩めて皇帝に向き直った。
「まもなくラインステラの誕生日ですのでその時に」
「そうか。だがラインステラは本当にいいのか?」
「え?」
皇帝から不意に話を振られて、ラインステラはキョトンと首を傾げた。
「そなたはリンドブルムの王女だ。『女神の加護』は自国へ使用したいのでは?」
「…それは…」
「ラインステラ、私はバスティーヌ帝国皇帝だから我が国の民を想えば『女神の加護』をこの国に使用してほしい。けれどそなたはこの国の者ではないだろう? 祖国を裏切ってしまうことになるが、それでもいいのか? 私はそなたが例え『女神の加護』を我が国に使用しなくても、そなたを帝国国民として受け入れるつもりだよ。だからラインステラの意思で決めていいんだ」
皇帝の言葉はラインステラの心に温かく染み渡った。
強国バスティーヌ帝国皇帝の命ならば自分に無理強いすることなど容易なのに、この皇帝は自分の意志を尊重すると言ってくれている。
皇太子も侍女長も口を挟まない所を見れば、皇帝に異論はないということだろう。
自国の人間に蔑ろにされ続けてきた自分が他国の人間の優しさに触れて、ラインステラの頬にはいつしか涙が流れていた。
「リンドブルムは『女神の加護』によってもたらされる恩恵をずっと独り占めしてきました。20年前の大寒波でリンドブルムは国王だけではなく、民たちでさえ苦しむ他国の民を嘲笑い救いの手を差し出すことをしなかったと聞いています。もしあの時のような大陸全てで有事が起こった際に、皇帝陛下はこの国だけではなく他国の民にも慈悲を与えてくださいますか?」
泣きながらも皇帝を真正面から見つめたラインステラの横顔を見て、侍女長は目を細めた。
彼女を紹介された時は、王女よりも桁違いに美しい容姿である侍女に驚きと同時に猜疑心を覚えた。リンドブルムからの美人局かと疑ったのだが、皇帝と宰相の話でそれは誤りだと解り同情も覚えたが、まだ少し信じられない気持ちでいた。
しかしこの凛とした佇まいはどうだろう。
彼女は間違いなく一国の王女であると確信した。
ラインステラの言葉に皇帝は大きく頷くと、真摯な瞳で彼女を見つめた。
「私は20年前の大寒波をこの身で体験している。我が国は急速に領土を広げたが、侵略した土地の民を虐げたことはないと自負している。もちろん敵対する国に容赦をかけることはできぬが、援助を求めてくる国には出来る限りのことをすると約束しよう。このことは歴代の皇帝にも継承させる。それに『女神の加護』持ちをこの国に縛ったりもせぬ。祖国を捨てたそなたと、そなたの母の心意気に我がバスティーヌ帝国は応えよう」
皇帝がアルフォンスに目をやれば、皇太子は黙って「承知しました」の意を込めて頭を下げた。
そこへ宰相の少し不機嫌な声がかかる。
「皇帝陛下少し訂正してよろしいですか?」
「ん? どうした宰相」
「ラインステラは確かにリンドブルム王国の血を引いていますがバスティーヌ帝国宰相ヘーゼル公爵である私の娘でもあります。ですからこの帝国もラインステラの祖国の1つです」
「何だ、そんなことか」
「そんなことかではありません。大事なことです。ラインステラは私の大切な娘です。れっきとした帝国の民の1人です。ただ今は戸籍がリンドブルムにあるだけです!」
「わかっておる。…お前は細かい」
最後の科白を小声で呟き頬を膨らませた皇帝に、アルフォンスは横を向いて肩を震わせた。
ラインステラは目を丸くして皇帝と父を見ていたが、やがて顔を綻ばせて笑う。
その笑顔にアルフォンスはまたも瞳を奪われたが、その様子を侍女長と皇帝が生暖かい目で見ていたことに気がつかなかった。
侍女長は軽く咳払いをし姿勢を正すと(もとから全く崩れてはいなかったが)口角だけを上げてニヤリと笑った。
「それでは反撃開始ですわね」
『歩く冷血鉄仮面』の侍女長の笑みに、皇帝と王太子は軽く戦慄を覚えたのだった。