父と母
20年前、まだ王国だったバスティーヌは大陸の中の農業を営む小国の一つだった。
その年この大陸を大寒波が襲い作物が大凶作になった。次の年もさらに次の年も寒波は続き、どの国でも備蓄していた食料が尽きようとしていた。
バスティーヌでも多くの人々が飢えに苦しんだ。
大陸中の国が食料危機に陥り財政難で苦しむ中、女神の加護があるリンドブルム王国だけは寒波に襲われず、豊かな実りに恵まれ大量の食糧を所持していた。
飢えに苦しむ民衆はリンドブルム王国へ押し寄せたが、時のリンドブルム国王は他国の難民を受け入れないどころか苦しむ周辺諸国へ手を差し伸べるのではなく、この機を好機と見て高値で食料を売りつけたのである。財政難で苦しむ国にとってリンドブルム王国が突きつけた額は目を疑うものであったが、飢える国民を助けるために諸国は煮え湯を飲み財を売り払い何とか食料を手に入れた。
3年間大陸を悩ませていた寒波が漸く過ぎ去って実りの秋を迎えることができた頃、バスティーヌの若き国王は当時騎士団長でヘーゼル公爵家を継いだばかりのラインハルトへ密命を下した。
『リンドブルム王国の女神の加護の謎を探ってきてほしい』
それは過去何度もあらゆる国が探っていたことだったが、未だに秘密の答えを持ってきた者はいないことで有名だった。
―女神の加護があるため天災に見舞われない国リンドブルム―今回の飢饉でその特異性をまざまざと見せつけられた他国も今頃躍起になって探りを入れているに違いない。
他国を出し抜いて秘密を探る困難な密命を受けたラインハルトだったがリンドブルムには何の伝手もなく、どこから手をつけていいのかさえもわからなかった。
とりあえずリンドブルム王国の図書館へ足繁く通ってみたが、国宝級の秘密がそんな簡単に記載されている書物があるわけもなく、早速の手詰まり状態に頭を抱えていた。
そこでまだ血気盛んな若者だったラインハルトは、危険を承知でとりあえず王宮に忍び込んでみることにしたのである。
そしてリンドブルム王宮でラインハルトはラインステラの母、リムステラに出会った。
王妹として後宮にいたリムステラは最初、覆面をしたラインハルトを盗賊だと思ったらしい。
悲鳴を上げようとしたリムステラを物陰に引き摺り、あたふたと言い訳をしたラインハルトは腕の中に羽交い絞めにした女性を見て息を飲んだ。
滑らかな白い肌と輝く銀髪、整った顔立ちの中でも一際目を引く自分を見つめる意志の強そうな深紅の瞳と目が合った時、ラインハルトは完全にリムステラに恋に落ちた。
一方、盗賊のくせに自分を殺さず言い訳を始めたと思えば呆然とした顔で自分を捕えた腕を解いて、端正な顔を青くしたり赤くしたりしながら説明するラインハルトにリムステラも衛兵に突き出すことはせず、彼に興味を持った。
リムステラに心をすっかり捕らわれてしまったラインハルトは度々王宮に忍びこむようになり、2人が親密な関係になっていくまでにほとんど時間はかからなかった。
結果、リムステラは妊娠した。しかも妊娠が解ったときラインハルトは報告のため一時帰国していたのである。
お腹の中の子供の父親の名を決して明かさないリムステラに、彼女の兄であった当時のリンドブルム国王は激怒した。しかし国王にはリムステラのお腹の子供を堕胎させる訳にはいかない事情があった。かといって王女が私生児を産むわけにはいかず、困った国王は公爵である従兄とリムステラの結婚を決定してしまう。
前国王の弟の子である従兄は、以前から絶世の美女といわれ王国の宝石と謡われたリムステラに強い執着を見せ婚姻を迫っていた。
国王へ度重なる賄賂を贈りリムステラを自分の元へ降嫁させるよう下卑た笑いを浮かべる従兄を、リムステラはどうしても好きになれなかった。
強欲な兄王も絞れるだけ絞りとろうとしていたので、これまでは中々リムステラを降嫁させなかったが、まさか彼女がどこの馬の骨とも知れぬ男に傷物にされ子供まで身籠るとは考えていなかったため大いに焦ったのだろう。
慌てて従兄を呼び出し事の顛末を伝えると、公爵は一瞬怖ろしい程に顔を歪ませたがそれでもリムステラを強請った。
従兄の申し出に国王は安堵しリムステラは恐怖を覚えたが、兄王が従兄へリムステラの子をきちんと養育することを約束させたので、彼との結婚を承諾した。こうして正式な婚姻はリムステラが出産した後でということに決まり、お腹の子供は従兄との子だと発表されたのだった。
ラインハルトが再び王宮へ忍び込み、その事を知ったのはリムステラが臨月を迎える頃だった。
事情を聴いて己を悔やみリムステラを連れて逃げようとするラインハルトに、彼女はただ首を横に振った。
「身重の自分ではこの王宮から逃れることはできません。従兄へ嫁げば自分に執着するあの男は監視役を付けるだろうから、貴方と会うことももう出来ないでしょう。でもせめてこの子の名前は貴方につけてほしいの」
「リムステラ! そんなことを言わずに一緒に逃げてくれ! いや、リンドブルム国王へ私から正式に結婚を申し込もう」
ラインハルトはバスティーヌ王国の公爵とはいえ所詮小国の貴族にすぎない。豊国であるリンドブルム王国の王女が降嫁するにはあまりに身分がかけ離れていたため、正式に結婚を申し込んでも受理されるはずがないことは明白だった。それどころか婚姻前の王女を傷物にした罪に問われ断罪される怖れもある。
ラインハルトの言葉にリムステラは一瞬瞳を瞬くと、困ったようなそれでいて嬉しそうな笑顔をみせた。
「バスティーヌ王国ヘーゼル公爵ラインハルト様、それが困難なことは貴方も十分承知しているでしょう?」
リムステラの言葉にラインハルトはぎこちなく固まる。
「何故、それを?」
「これでも王女ですもの。それに好きな殿方のことなら何でも知りたいと思うのが乙女心ってものよ」
「私も君を愛している! だから正式に結婚を申し込む。誠心誠意言葉を尽くせばきっと「無理ね」
ラインハルトの言葉を遮ってリムステラは諦めたように目を伏せると、首を横に振った。
「無理なの。私はこの国から出られないの。貴方と逃げても兄王は絶対に私とこの子を掴まえるまで諦めない。他国の貴方との結婚なんて許されない。お腹の子供の父親が貴方だとわかれば兄王は貴方だけではなく貴方の国まで滅ぼしてしまうでしょう。私は貴方とこの子供を守りたい。…それに貴方の力にもなりたい」
「私の力?」
「『女神の加護』の秘密を知りたいのでしょう?」
「!!!!」
リムステラの言葉に一瞬で青褪めたラインハルトが息を飲む。
「貴方は『女神の加護』の秘密を知るために王宮へ忍び込み私に近づいた」
「違う! 嫌…違わないが…君に近づいたのはそのためだけじゃない! あの日、私は本当に君に心を奪われたんだ。『女神の加護』なんてどうでもいい…私は君に会いたかっただけなんだ!」
ラインハルトが言い募り重い沈黙が流れた後、リムステラの肩がプルプルと震えた。
信じてもらえず泣かせてしまったかとラインハルトが項垂れると、堪え切れないようにリムステラが噴き出した。
「うふふふ。ごめんなさい。貴方を困らせるつもりはなかったの。ちょっと意地悪したかっただけ。でも大変な時期に私を放って置いたのだからこのくらいの悪戯なんて可愛いものでしょ?」
「うっ…」
自分の嫌味で固まるラインハルトが可笑しすぎて涙を浮かべるリムステラに、居た堪れなくなった彼がそっと手を伸ばせば、彼女はさも愛おしそうにその手をぎゅっと自分の頬に押し当てた。
「貴方の目的なんて最初からわかっていたわ。途中から完全に仕事を放棄したことも…これでも心配していたのよ? 王様に怒られなかった?」
そう言って微笑んだ刹那リムステラはその場に膝をつき頭を下げた。
「貴方の国が大変な時に手を差し伸べてあげられなくてごめんなさい。王女として心から謝罪いたします」
「リムステラ、顔をあげてくれ。君が謝ることでは…」
「私が謝ることよ。だって私はこの国の王女ですもの。本当に申し訳ありませんでした」
大きなお腹を抱え込むように頭を下げるリムステラをラインハルトは慌てて起こす。心配そうに自分を覗き込むラインハルトにリムステラは自嘲的な笑みを浮かべた。
「この国はいつの間にか奢ってしまった。国王も重臣も民たちでさえ…。有り余る穀物の備蓄を困窮する他国へ渡すのを拒むような醜悪な国に果たして『女神の加護』を受ける資格はあるのかしら…」
そう呟くリムステラにラインハルトが何も言えずにいると、彼女は呆れたような声を出した。
「もう、すぐに黙るんだから。そんなんじゃ産まれてくる女の子に嫌われちゃうわよ?」
「…え?」
「だから貴方の子。女の子なの。名前をつけてって言ったでしょう?」
戸惑うラインハルトにリムステラは悪戯っぽい笑顔を向ける。
産まれる前に子供の性別が解る技術はこの大陸にも、ましてや他の大陸の医療先進国でも聞いたことがなかった。
それなのに大きなお腹を撫でながらリムステラは腹の子は女の子だと断定している。
濃紺の瞳を瞬かせるラインハルトにリムステラは人差し指を立てて口にあてた。
「この国のトップシークレットを教えてあげる」
そう言って微笑むと彼女は淡々と語りはじめた。