プロローグ
揺れる馬車の上で眠りから覚めたラインステラは、瞼をこすると何となく自分の袖口を見て違和感を覚えた。
ラインステラはリンドブルム王国の第一王女である。母は彼女が7歳のときに亡くなった。
王国の宝石だと讃えられた母の美貌を全く受け継がなかった醜いラインステラは、父王から疎まれ隣国の皇太子へ人質という名の輿入れが決まり、半ば追い出されるように隣国バスティーヌ帝国へ赴いている道中の最中であった。
リンドブルム王国は小国ながらも『女神の加護』を与えられた神の国といわれ、貴重な鉱山資源と豊穣な農地に恵まれた豊かな国で、更に建国以来一度も天災や飢饉に見舞われたことがないという驚異の国だった。『女神の加護』のお陰で王国も民も栄華を極め恒久的な平和を享受していたが、昨年友好関係にあった隣国のバスティーヌ帝国が攻め入ってきたのである。バスティーヌ帝国は近年隣接する小国を次々に併呑して大国へ成りあがった強力な軍事国家であった。『女神の加護』はあくまでも自然環境を良くしてくれるもので他国の侵略から守ってくれるような魔法めいたものではなかったことと、平和ボケした王国の兵たちの戦意が低かったことから、国境を侵され王都目前まで迫ったバスティーヌ帝国の強力な軍隊を前に、リンドブルム王国はなす術なく降伏を受け入れた。
降伏の条件として帝国が提示したものはリンドブルム王国の第一王女をバスティーヌ帝国皇太子妃として差し出すようにということと、今後王国の宰相は帝国の人間が担うという2点だけだった。
侵略してきた国が降伏した国の国王や側近を排除せず多額の賠償金さえも要求しない前代未聞の降伏条件に、王国の官吏は困惑したが国王は歓喜した。
帝国から派遣されてきた宰相などは賄賂漬けにして傀儡にしてしまえばいいし、あの忌まわしい第一王女まで厄介払いできると内心では小躍りしたい程であった。
こうして敗戦の負債を一身に背負った第一王女ラインステラは、バスティーヌ帝国へ輿入れが決まったのである。
王国から帝国首都までの道のりは馬車で10日はかかる。
慣れない馬車での移動と輿入れの緊張のためか疲れてきっていたラインステラは、帝国首都まであと5日と迫った馬車の中で熟睡してしまった。
ラインステラは父王が自分に付けてくれた侍女を信用しておらず、彼女の淹れたお茶も用意した食事にも手をつけなかった。頑ななラインステラに呆れる侍女を他所に、手荷物から固そうなクッキーを取り出し少しずつ食べながらここまで来たのである。
普通主人が食事を摂らなければ侍女は慌てる所だが、この王女は父王に疎まれ王宮の奥深くに忘れ去られるように放置されてきた存在で、王宮に勤める者達は皆彼女を蔑ろにしてきたためラインステラが自分で用意したクッキーしか食べずとも鼻で笑っただけで、無理に食事を勧めず、あろうことかまるまる残った王女へ用意された豪華な料理を自分で食べてしまう始末だった。
「どうせ残すのなら私が食べても構いませんよね?」
ラインステラが初日に出された料理を残した時にそう言って侍女が食べても、王女は別に咎めたりすることはなかったので、侍女は益々増長しラインステラの身の回りの世話さえしなかった。
それでもラインステラは侍女を責めなかった。
ラインステラがそんな様子だったので侍女は完全に彼女を舐め切っていた。
ラインステラはまもなく16歳の誕生日を迎える。
クセが酷い髪は鼠色で艶がなくボサボサで顔を隠すように前髪を伸ばしていた。時折髪の間から見える窪んだ瞳は濁ったような濃紺で、顔の血色は悪く身体は折れそうな程痩せていて干からびた老婆のようだった。
いつも後宮の自室にこもっていて公式の祭典などにも出席を許されなかったラインステラの姿を見た者はほとんどいなかったが、彼女の容姿は到底王族とは思えない酷い有様だった。
今回の輿入れにもお付きの侍女すらいない状態だったので、王宮へ上がったばかりで齢が近いからという理由だけで急遽お供に選ばれてしまった侍女は不満だったが、貧乏子爵家の三女という立場の彼女が王命に逆らえる筈もなかった。
しかも引き合わされた王女ラインステラは、王女とは思えない程に醜悪な容姿だったため敬う気持ちは微塵も湧いてこなかった。やはり自分は貧乏クジを引かされたのだと悔しがり、こんな王女の世話などするものかと鬱屈した思いでこの旅をしていた。
そんな侍女-エアリエル-がラインステラへ次第に無礼な態度をあからさまにとるようになった頃、2人を乗せた馬車は国境近くの街へ辿りついた。
王国の馬車はこの街までで、ここからは帝国が用意した馬車で帝国首都へ行くらしい。
エアリエルが王女と共に馬車を乗換えると、扉を閉める前に護衛として従ってきた王国の騎士団長が王女へ国王よりの伝言があるとして馬車へ乗り込んできた。
「ラインステラ王女は金輪際リンドブルム王国の地を踏むことは罷りならぬ。また我が国の者との交流も一切許さず、バスティーヌ帝国皇太子妃としての務めを果たすように」
騎士団長が告げた国王の言葉にエアリエルは耳を疑った。
ラインステラ王女を国王が疎ましく思っていることは周知の事実だったが、まさかここまで非情な命令を出すとは思っていなかった。
敵国へ人質として送るのだから帰ってくるな、あらぬ疑いをかけられぬよう自国との連絡も絶てとは、16歳に満たない我が子に対する餞の言葉としては余りに非情だった。
ラインステラが父王の選んだ侍女の自分を信用していないように、国王もラインステラを信用せず釘を刺したことは明白だった。
唖然とするエアリエルを他所にラインステラは静かに目を伏せると「承知しました」とか細い声で答えた。
騎士団長はラインステラの返答に満足したのか足早に馬車を降り騎士団を整列させると、迎えに来ていた帝国軍を見送り王都へ帰って行った。
ここからもう暫く行くと帝国領のため王国からの騎士団はここでお別れして、ラインステラ王女には王女付きの侍女エアリエルを残し屈強な帝国の騎士団が付き従う形となるのである。
騎士団は王女達が乗った馬車を囲むように人気のない街道を疾走していった。