99 小さな淑女の来訪
ピアニー家の正面の扉を開けると、可愛らしい淑女が声を上げた。
「お兄さま! ご無沙汰しております、デボラでございます」
駆け寄ってきた愛する妹に、リアンはこの上なく優しい笑顔を向けた。
チャーリーのお茶会に参加したデボラは、その前後で、田舎の邸より王宮に近い、ワグレイト公爵邸に滞在していた。環境の違いに慣れるためもあり、もちろん、どちらも大歓迎だ。その流れで、ピアニー家に遊びに来たのだった。
「よく来たね、デボラ。こちらにも来てくれてありがとう」
「お安いご用でございますわ。お兄さまもソフィアもノアもいるんだもの。お屋敷も素敵だし、帰るのが嫌になっちゃうくらい」
リアンの隣でニコニコと二人を見ていた私は、思わず口を挟んだ。
「それなら、泊まっていく?」
デボラの顔がパッと輝いた。
「いいの?! ソフィア!」
「もちろん、公爵様が了承してくださればだけど……どう、リアン?」
「……いいのでしょうか?」
「もちろん大丈夫よ、まずはノアに聞いてみないとならないけど、ヘンリーにお願いしましょう。いいかしら?」
「はい、もちろんでございます」
「ではよろしくね」
「リアンお兄さま! 私と一緒に遊んでくださいませ」
「あぁ、もちろんだとも」
リアンは頷き、デボラと手をつないで庭へ向かおうとする。が、一瞬手を離し、先にデボラを庭へ向かわせた。
「ありがとうございます、ソフィア」
リアンが耳元で囁いた。くすぐったく、少しざわりとした。でも、嫌な感じではない。なんとなく、心臓がドキドキとしてる気がする。
「こちらこそ、リアン。デボラと一緒に過ごせるなんて嬉しいわ」
私が微笑むと、リアンは少しためらいながら口を開いた。
「チャーリー王子とお会いしたそうですが」
「えぇ、アンソニー様の”リアンのいない時”っていうのは、チャーリー王子のためだったみたい」
「そうでしたか」
ホッとしたようなリアンを見て、私は思わずからかいたくなった。
「心配した?」
「それはもちろん……」
「ありがとうね。でも大丈夫よ。殿下は無理難題を言う方じゃないわ……私個人は足蹴にされたとしても、まぁ、よくお考えになられているから」
「信頼なさってるんですね」
「信頼……というとどうかしら」
もはや諦めに近い。
「お兄さまぁ!」
デボラが呼び、リアンが嬉しそうに破顔して追いかけていった。はしゃぎ声が庭を満たした。はたから見ても、とても幸せそうだ。
そういえば私、あんな風にリアンに無邪気に遊んでもらったことがないわ。もちろん、私は大人だし、他人だし、リアンが責任を持つ令嬢だから、いろいろ違うことはわかるけど。一緒にいたいと望んでくれても、いつも苦しそうで、切なそうだ。私は、それは、リアンが無意識に負担を感じているからだと予想している。
私とデボラとでは、やっぱり扱いが違うんだ。今更気づいてしまった。でも、そんなこと関係ないのに。リアンは私の友人で、兄で、弟で、……この世に引き戻してくれた、恩のある人。それだけなんだから。
デボラと仲直りすることがリアンの一番の願い事ではないのなら……やはり、爵位のことだろうか? 跡取りとしてのプレッシャーか……でもそれがデボラが継ぐことで解消されるのなら、デボラを後押しするか……でもそれでデボラが不満を抱くなら、リアンにとっても私にとってもそれは不本意な事だ。
あぁ、リアンは一体何を願ってるんだろう? 私はどうすればいいのだろう?
でも……こうしてそのことを考えていられるのが幸せだと、私はぼんやり思った。まだそれを最優先できていることが嬉しいんだわ。最初はあんなに嫌だったのに。
私はため息をついた。
わかってた。私はずっとわかってたんだ。
私がこの呪いが嬉しかったのは、相手がリアンだからだってこと。
誰かに必要とされたいのなら、ノアで十分だったはずだ。身内でないのなら、チャーリーだって。アンソニーたちからの政治的な”令嬢”役だって。年齢関係なく、必要とされるのであれば、私は嬉しく感じるはず。事実、嬉しかったし、できる限り要望に応えたかった。
でも、そばにいて欲しいと願われることは、誰でもいいわけじゃない。リアンがいなくても生きていけるのだと言いながら、リアンに離れて欲しくないと言われたかったんだ。
私は、リアンとデボラの姿を目で追いかけながら、頭を振った。
それでも呪いを解きたかったのは、自分がリアンから離れたくないからだ。助けたいとか、何があるかわからないとか、そんな大層なことではなくて、私がそばにいたいのだ。今、リアンにいらないと言われたら去らなければならないから。そのときが来る前に、私は自分の意思でリアンのそばにいられるようにしたかっただけ。
呪いが解けてもリアンのそばにいたいなんて。
私、すごいワガママだ。戻ってきただけで、生きていけるだけで、充分だったはずなのに。
私はひどく動揺してしまっていた。
アンソニーに言ったことは本心だった。でも言えてないこともある。
リアンが今、私を必要とするのは、きっと、”呪い”のせいなんだろうって。私がリアンの願いを叶える必要があるから、どうしてもいてもらわないと困るから。
でも私がリアンの願いを叶えたら、私は従うようにリアンのお誘いに乗る必要はなくなる。その時、リアンはきっと私に失望するんだわ。なんで”伝説の令嬢”なんかに固執していたんだろうって、不思議に思って、きっと私から離れていく。
でもこのままいけば、呪いが解けないまま、リアンは私を必要としなくなるんじゃないかしら。あの時のリアンの孤独は、デボラがアンソニーが両親が、そしてノアが、リドリーが、仕事が埋めてくれる。
だからこそ、私は、それを怖がってちゃいけないんだと、心に深く刻んだ。
私とリアンの関係が変わっても、リアンが私をいらないと思っても、受け止められるように。呪いに甘えていてはいけないんだ。
その時のために、やっぱり、鏡をなくして、呪いが消えるようにしなきゃならないわ。そうしたら、呪いは無効になるはずだ。
もしかしたら、私だって、リアンなんかどうでもよくなるかもしれないし。今だって、願いを叶えなければならないから、リアンのそばにいたいと思っているのかもしれないんだから。
「あんまり……そうは思えないけどなぁ」
だって、リアンはここにいる誰より最初に、私を必要としてくれた人なんだもの。どこにいても私を見つけるなんて言ってくれたんだもの。理由がどうであれ。
私が必要だと、面と向かって言ってくれた人なんて、どこにもいなかった。あのとんでもない悲恋の伝説を作ってくれたニコラスだって、そんなこと言ってくれなかった。
それだけで、私には充分な理由になる。
大きく手を振ってくるデボラとリアンに、私も手を振り返した。遠くてわからないけれど、きっと二人は笑っているのだろう。
私は笑えているのかしら。
この呪いがなければ、怖くなんかないのかしら。