9 ティータイムの約束
ブルータスが向かったドローイングルームへ戻ると、ちょうど、ブルータスが用意を終えたティーセットがテーブルできらめいていた。
「美味しそう!」
私は駆け寄って、瞬く間にティーコジーを外してティーポットのふたを取り、中の香りを聞いた。いい香り。
「あああ、ソフィア様!」
慌てて阻止しようとするブルータスも私の勢いに追いつけなかったようだ。
諦めてティーカップを用意すると、さすがの速さで私からポットを奪い、ティーカップに紅茶を注いだ。部屋に紅茶の香りが充満する。
ブルータスは万能だな。一人でなんでもできる。こんなに素朴な風貌なのに。
「少し疲れましたね。いただきましょう」
リアンがソファに座り、立ったままの私を自分の隣に座るように促した。あまり近くを示されたので、そんなに近くに座るようなものでもないのでは、と私は首を傾げた。しかし、また鏡に戻られたら困るという趣旨の話もしていたし、なるべく近くで監視をしていたいのだろうと結論付け、素直にリアンの隣に座った。
ブルータスが私とリアンの前にティーカップを隣同士に置くのをジリジリと見届け、ブルータスが離れてから早速、カップを口に寄せ、紅茶を口に含んだ。
「・・・美味しい!」
爽やかですっきりとし、それでいて後味には程よい渋みと、しっかりと華やかな味わいが残り、現世に戻った驚きと疲れで乾いた喉を癒してくれた。
「ブルータス・・・! これは昇給ものだわ・・・!」
「大げさな・・・」
リアンは言いながら、自分もゆったりと紅茶を味わうと、自然に私の腰に手を回した。自然すぎて私も一瞬気がつかなかったくらいだ。
え、女性に慣れてないとか言ってなかったっけ? さっき、距離を考えろとか言ってなかった?
私は混乱しながらブルータスを見ると、ブルータスは目を丸くしてリアンを見たまま固まっている。主人の所作に心底驚いている様子だ。なるほど。
リアンの横顔を見たが、ティーカップを弄びながら考え込んでおり、その所作には無理がない。完全に無意識だ。幼い時にママに甘える時にだって、こんなことしないよなぁ? と思いながら、私は彫刻のようになっているブルータスに声をかけた。
「この紅茶は、ミントが入っているの?」
「へ? え、あ、はい! そうでございます! ミント入りの紅茶でございます」
我に返ったブルータスは、今度は不気味なものを見るような目でリアンを見ている。
リアンは心ここに在らずで考え込んでいる。私を抱え込んでいることで安心するのか、考えが捗るらしい。とはいえ、ティーカップを置いた手で今度は私の髪を弄ばないでほしい。これじゃただのナンパ男だわよ。それでも、戻してもらったことやこれからお世話になることを考えると、この距離が私にとって恥ずかしいことだとどう伝えていいのかわからない。私の髪をうっとりと眺めるのもやめてほしい。
頭を悩ませていると、リアンが口を開いた。
「・・・困りました」
「何が?」
「僕は、今日はここに泊まるつもりはなかったので、なんの用意もありません。もちろん、万が一の時のため、用意はしておりましたので、可能ではありますが」
私の髪に頬ずりしながらテーブルのお菓子に視線を定め、リアンは真剣に話していた。言っていることとしていることと表情のすべてがかみ合っていない。
多分この人、あまりにも疲れすぎてるんだわ。そして私は一人になる時間がほしい。リアンに離れて欲しくてすぐに頷いた。
「あら。私は構わないわ。家にお帰りなさいよ」
リアンは首を横に振った。私の髪もそれにつられて引っ張られる。私の金色の髪とリアンの茶色い髪がふれあい、私の頬にかすった。
「それはできません。代理とはいえ、当主と同じです。客人を置いて家を離れるなど、あってはならないことです」
私を連れて行くことは選択肢にはない。説明が大変だし、むしろ、私もまっぴらごめんだ。
「でも・・・用意していないのでしょう?」
「いいえ。馬車の用意だけです。厩舎の整理がされていないため、馬を休ませられないと、ブルータスが」
「なら、ブルータスだけ帰ればいいのではないの?」
リアンが驚き、背を向けてお茶の準備をしていたブルータスも私たちに振り返った。
「そうしたら、二人きりになってしまいますよ」
私は肩をすくめた。
「仕方ないでしょう。緊急事態だもの、大目に見てもらわないと。それに、狭い部屋ならまだしも、こんなに広い屋敷で、何かあるとは思えないわ。でしょ?」
「まぁ、そうですが・・・朝食の用意もしておりません」
「夕食はあるの?」
「はい、夕食まではこちらにいる予定でしたから、簡単なものを持ってきております」
「なら、なんとかなるわ。食材はあるかしら?」
私がリアンに顔を向けると、初めてリアンはそこで私の顔が至近距離なことに気がついた。
「・・・え?」
そして自分が私の髪にほぼ口付けていることに気がつくと、耳まで真っ赤になってパッと距離をとった。そうなると、腰に回していた手などどうでもよくなるほどに私の恥ずかしさはかき消え、逆にリアンは腰を寄せていたことにすら気づいていないようだった。
「あ、あの、僕は・・・」
「あ、えーと、・・・考え事をしていたようだから、・・・そういう時には髪の毛をいじるのが好きなのかな、・・・と」
「まさか。そんな・・・、全然、女性の髪をいじったりなど、・・・」
パニクって泣きそうになっているリアンを見て、私は微かにため息をついた。
もしかしたら鏡から出てきた後遺症で、私は人形やクッションみたいに感じられるのかもしれない。そもそも、肖像画でしか見たことがなかったわけだし、肖像画から人が出てきたみたいな・・・人間じゃないみたいな・・・うん。一応、女性なんだけど、女性っぽく見えないのだろう。リアンが普段、奥手だろうことは、ブルータスの様子からも見て取れる。
私は仕方がないと話題を変えることにした。
「そういえば、なぜ今日はブルータスだけなの? あなたの護衛や・・・召使いは?」
「昼間から夜まで、少し寄るだけのつもりでしたから。私もブルータスも、弱いわけではありませんからね」
「それじゃ、このお屋敷の使用人は? みんな辞めてしまったの?」
「いいえ。今、みなさん自宅待機していただいております」
「どうして?」
「みんなパニックになっていましたから。しばらく休息が必要だと思ったのですよ」
「そう・・・やめさせるつもりはないのよね? なら、すぐに呼び戻せる?」
「もちろん」
「ならよかったわ。できるだけ早くしてもらえる?」
「わかりました。ブルータスに伝言を頼みましょう」
「・・・ご両親はどう思うかしら」
「この家のことは僕に任されているので。あと、まさか、あなたが言ったからとは言いませんよ。僕が考えてそうしたいと伝えます。事実、その通りですから。それとは別に、あなたのことも報告しますけれど」
「・・・信じてくれるかしら」
「信じるとは思いますが。反感を持たれるようなことはやめてくださいね」
「そんなことしないわ。唯一、誇れるとすれば、しつけと礼儀作法だけは誰より優れていたわよ、えーと、当時比で」
「でしたら、大丈夫とは思います。両親が承諾してくれれば、あなたのことはノアの代理として社交をすることになりますから、社交界にも出ることになるでしょうね」
「はぁー、社交界ね。デビューする前に鏡に吸い込まれたから、舞踏会も参加したことないのよね」
「ダンスのレッスンは」
「したわよ。両親が厳しかったから、それはもう完璧よ。体力はわからないけど、技術は鈍ってないわ。私が吸い込まれたのは、私の時間では昨日なんだし」
「そうですか。そうですね。不思議です」
紅茶を飲みながら、クスクスとリアンが笑う。
柔らかで優しい雰囲気に、私は思わず見とれてしまった。こんなに綺麗なクスクス笑い、見たことない。リラックス加減といい楽しそう加減といい、申し分ない。何より、その整った顔立ちに、茶色い髪がさらりと流れ、長い睫毛が奥ゆかしく揺れる。
これはきっと、似たような顔でも、精悍で颯爽としたアンソニー王太子ではできない芸当だろう。ましてや、今は亡きニコラスだって、全然違う。顔は似ており、おとなしく理知的な部分は同じだが、リアンのようなたおやかさはない。ニコラスは引っ込み思案というより頭でっかちな部分があった(弱虫なのに)。
リアンは口下手のようだが、穏やかで、理論が出て来るタイプではなさそうだ。確かに、私を呼び出そうとしたくらいだし、あまり常識や思い込みで動かない柔軟な人なんだろう。それでいて、呼び出した私を何度も確認したように、簡単に相手を信用はしない。なるほど、信頼に値すると思っていいだろう。
「私、あなたを信用していいのかしら?」
「と、言いますと?」
「私を利用したりしないと約束してくれる? 私も約束するわ。あなたを裏切ることはしない。・・・まぁ、何を以って裏切りとするかはわからないんだけど、私はただ生を全うできるだけでいいんだし、それ以上のことを望んでいないから、裏切りようがないけれど。つまり、私をニコラスがどうとか聖女がどうとかって、必要以上に祭り上げたりしないで欲しいということなんだけど」
「もちろん。もちろん、そんなこといたしません! あなたを利用するなんて、そんなこと・・・ニコラス王に誓って、そんなことできるわけがありません!」
ニコラス大好きかよ。
必死に言い募るリアンに目をパチクリさせていると、目の端でブルータスが嘆息したのが見えた。