89 そのくちづけの意味は
「今ね、リアンの話をしていたの」
私が言う間に、リアンは私の手にさりげなく口付けた。これで女性が苦手というのがどうも信じられない。一定以上近くのは嫌みたいだけど。それを証拠に、私とも一定の距離は保っている。
「僕も会えて嬉しいです、ソフィア。それでなんの話を? 本当に僕の話ですか?」
笑顔のリアンが、私の手にさらに自分の手を重ねた。抜けない。
「なにって……」
アンソニーの噂話なんて、”大事な友人”のリアンが聞いたら怒りそうだ。特に”替えの効く妻”発言とか、私と結婚しないのはワグレイト公爵家が私の後見人だからとか……
うん。正直に言おう。
「ええ、リアンの話ではないわね。アンソニー様の結婚の話よ。素敵な方がたくさんいるのに、選り好みしすぎなんじゃないかって。ね、ノア」
「ええ、そうですね。いつかソフィアがいいと言い出すかもしれませんね」
穏やかに言うノアの言葉に、私は心底ぞっとした。
「ヒッ……やめてよ、ノア! あの殿下がそんなこと言い出すわけないでしょ? 私のこと策略家だって鼻で笑うような人よ?」
「アンソニーがあなたを鼻で笑うなんて、そんなことするわけないでしょう」
言うリアンの手に力がこもる。
う。確かに表現はオーバーかもしれない。けど、笑ったし。大笑いしたし。ニヤッとしたし。
「……そうね、私の肩書きは”伝説の令嬢”だし、アンソニー様の王太子としての仕事を考えると、私を鼻で笑えるわけないわよね」
「そういう意味ではありませんが。アンソニーが近々、お茶会にお呼びしたいそうですよ。僕のいない日に」
リアンの笑顔が少し黒い。
どうしてアンソニーって、こう、いちいち煽るようなことを言うのかしら。私だって、あえてリアンがいない時に会いたいと言われたら、……なんというか……また厄介ごとを頼まれるのかと警戒せざるをえない。
「伝えてくれてありがとう。アンソニー様は、何か相談なさりたいことがおありなのでしょう。大丈夫、難解なことはおっしゃらないと思うわ……多分。リアンは本当に心配性なのね」
私が微笑むと、リアンはつられたように微笑んだ。
「そうなんです……僕は……いつだってあなたの身を案じていますから。困った時は遠慮なくおっしゃってください」
「ありがとう。いつも助かってるわ」
しかしリアンは、いい加減手を放してくれないかしら。最近、少し緊張するから。
私は緊張していないふりをして微笑むと、リアンの手をそっと両手で包んだ。
「あの、リアン……?」
私が呼ぶと、リアンは目を細めて私を見た。
どうも苦手だ。とても優しい視線で、すごく居心地が悪くなる。
私はムッとして、何かしてやらなければという気持ちに駆られた。
そうだわ。
私は思いついて、リアンの手の甲に口付けしてみた。リアンが目を見開いて、何か言おうとした時、背後でノアが紅茶を喉に詰まらせた。
「ノア!」
私が慌てて駆け寄ると、デイジーも慌ててノアの元へ走ってくる。
「どうしたの? 何か変なものを食べた? 大丈夫?」
「ノア様! いかがなさいましたか?!」
すると、ノアはゼイゼイと息を切らしながら、私を睨み上げた。
「……ソフィア……ゲホ、何して……」
「何って……」
リアンにお返しをしただけ、だけど……
「女性から男性の手にキスをするなんて……」
「あら。ダメなの?」
「見てるこっちが恥ずかしくなります。僕しかいなかったからいいものの……他の人がいたら誤解されますからね! 絶対にやめてください」
「……そんなに? 私、何を?」
冗談でデイヴィッドの手にキスしたことしかないから、わからないわ。それも、ごくごく小さい時だ。くすぐったがって大暴れした記憶しかない。大人になったら何か意味があるのかしら?
「いいですか、身を捧げます、という意味があるでしょう? 男性から女性に対しては騎士道ですが、逆は貞淑の誓いです。リアンのために尽くします、という意味で、……逆プロポーズになりかねません。というか、そんなようなものです」
「あら……まぁ……」
リアンのために尽くすのは間違っていないけど、プロポーズはないわ。リアンも嫌そうな顔をしてる。
「ごめんなさい。そんな意味があるなんて知らなくて……」
「大丈夫です、わかってますから。僕も今、ノアと同じことを言おうと思ったところです」
「ああ、よかった。でも今後は余計なことをしないようにしなきゃね……私ったら、本当に考えなしで……」
「大丈夫ですよ。……二人きりの時になら、またしてくださっても構いません」
「リアン、ソフィアが本気にしますよ」
「うん、だから、僕は構わないんだ、ノア。ソフィア……また手にキスをしてくれますか?」
「えぇと……」
何その顔は。すごい断りづらい……! でもこれはかなり際どいお誘いなような気がする……
目を合わせていたら断りにくい。むしろ快諾してしまいそう。まずい、リアンのこの笑顔はきっと武器になるわ……
私は視線を外して口を尖らせた。
「冗談はやめて、リアン。だってリアンは私と結婚するつもりはないでしょう? 私もないし。こういう大切なことは、そのお相手にだけ頼んでくださいな」
私が言うと、リアンはにっこりと微笑んだ。黒い。
「そうですね……そんなお相手が見つかるといいのですが……全く気配がないもので」
……地雷を踏んだかもしれない。そういえばこないだも怒っていたかも。なんで忘れちゃうかな私……
お相手探しの最中に言っていいことでもやっていいことでもなかった。それがよくわかった。
うん、今度からイタズラなんて絶対に考えない。仕返しなんて考えない。
私の思いつきなんて、小さい頃の延長でしかないのだから。