86 叶えたいこと、叶えてあげたいこと
まさか。そんなの、私の妄想だ。
「そんな危険な鏡だと考えているのに、使ったの?」
私が尋ねると、リアンは笑った。
「それでも、あなたが本当に来てくれるのかは、半信半疑でしたから。叶っただけで満足ですよ。呪われても構いません」
私は構う。リアンが寝込んだり、具合が悪くなるなんて、そんなことがあってもらっては困る。心配でたまらないじゃないの。
その可能性があるなら、やっぱり、リアンの願い事は、早く叶えなきゃならないんだわ。呪われるのは私だけで充分だ。
なので、私は思い切って聞いてみた。
「そういえば、リアン、あなた、まだ私に叶えて欲しいことがあるんじゃなくて?」
リアンがふと驚いた顔をした。しかし、すぐに柔らかい笑顔になった。
「もう叶えて頂きましたよ。こうして現れてくださったんだから」
「違うの。今の私に、よ。何か、……そう、リアンがして欲しいこと? 私になって欲しいもの? 何か、あるんじゃないの?」
「ないですよ。今のままで、充分です。なんでそんなこと聞かれるんです?」
「嘘よ。ないわけないわ。あるはずよ」
リアンがオロオロと私を見て、困った顔をする。私は随分と嫌な顔をしているだろう。
「どうしてそんな泣きそうな顔をしてらっしゃるんですか」
「泣いてないわ」
「でも、……困りましたね。何もないんですよ。あなたがいてくれれば、それが僕の望みです」
「そんなはず……」
だったらなぜ、私はいつまでたってもリアンの言葉に逆らえないんだろう。
私はいつまでリアンの些細な”願い事”を叶えなければならないんだろう。
そのうち、リアンは体調を崩してしまうかもしれないのに。
私がリアンにしてあげたいことは、いつになったらできるんだろう。
……そもそも私はリアンに何かしてあげたいのかしら。どんな恩返しをしたいのかしら?
私はリアンの腕を掴んだ。
「リアン、教えて。本当のことを言って。私は邪魔じゃない?」
「そんなはず、ありませんよ」
リアンはにっこりと微笑んで、私の手を自分の腕からゆっくりと外した。
「お疲れなんじゃないでしょうか。デイジーにホットミルクを持ってこさせましょう」
リアンが振り向くと、デイジーが頭を下げて居間を出て行く。開いた扉から新鮮な空気が柔らかく入ってきて、リアンが一瞬、苦々しく笑った。
ああ、だめだ。
私は直感的に悟った。喉の奥がもやもやとする。リアンはこれ以上追求しないでほしいと私に望んでいる。さっきまでは困惑しているだけだったけど、もうだめだ。私はこれ以上、聞くことができない。聞いたらきっと、具合が悪くなる……
「……そうかもしれないわ」
私がうなだれると、リアンはホッとしたように息をついた。
「ソフィア、あなたを邪魔に思うことはありませんから。安心してください。お好きなように、生きていいんですよ」
「でも、リアンは? 私の世話ばかりで、大変じゃない?」
王宮へ向かったり、あちらこちらへ行ったり、その間に側近の仕事をこなし、私の相手をし、まともに休む時間がないような気がする。
結局リアンが望むことだから私も付き合っているけれど、本心で望むことを私に叶えてほしいと言ってくれれば、このいびつな主従関係は解消するはずだ。
私のために動くようで、リアンのために私が動いているこの毎日が。
「大変なことがあるでしょうか。あなたと過ごすことは僕の喜びですよ、ソフィア」
「そんなことではだめよ、リアン」
私はため息をついた。
リアンがいなくなったら、私が寂しい思いをするとわかってるから? でもそれじゃ、リアンのためにならないわ。リアンはリアンの人生を歩まなくっちゃ。まずは私から離れられるんだって、私は一人でも大丈夫だって、わかってもらわないと。そのためには……どうしたらいいの?
「あなた、早くどなたかと結婚したほうがいいんじゃない?」
笑顔のまま、ピクリとリアンの手が動いた。
これ、触れちゃいけなかったんだっけ? それなりにモテるのに最後の最後でだめになるって、アンソニーやキースが言ってた。これのことだった? ……そうだったわ。私ったら。
「僕がいつ結婚しようと構わないでしょう」
「でも、アンソニー様もキース様もおっしゃってたわ。……えーっと、……ごめんなさい」
リアンの目が怖い。本当に触れてほしくないんだ。やっぱり、繊細な部分よね。なのに申し訳なかったわ。
「言われなくても、探す気はあります。あなただってそうでしょう。結局、リドリー殿とはどうだったんですか。素敵な方ですし、申し込みがあれば受けてもよろしいかと」
これだよ。こんな風に笑顔で言っておいて、リアンは私の結婚話を進める気があるの?
私がどう思っていようと、リドリーとの結婚なんてできるはずがない。だって、リアンがこんなに嫌がっているんだから。
ほら、またしても私の喉の奥が気持ち悪くなりそう。
そもそも、私と本気で結婚したい人がいるとは思えないけど、それなりに見合いの申し込みはあるらしい。そもそもその気がない私には、それでさえ煩わしいくらいなのに、リアンは私に結婚願望があると思って節がある。なんでだろう?
「……リドリー公子様? まだ返事をしていなかったかしら」
リアンは私の後見人なので、私の見合いの話はリアンを通してはいる。けれど、リアンの両親、ド=マガレイト公爵が最終的な保護者になっている。なので、厳密に言えば、リアンが見合いそのものを左右する権限があるわけではないけれど、公爵はリアンに一任していて、結果を確認するだけだ。公爵が私に言ってくることはほとんどない。
基本的に、必ず、私はリアンからどうするのか聞かれることになる。つまり、その時、リアンがそれを望めば私は結婚するし、望まなければ結婚しない。私が好きになろうと嫌おうと、関係がない。だって、私はリアンには逆らえないのだから。
「ええ、まだです。お断りしますか」
でも、リアンが望むなら、相手はそれなりにいい人なのだろうから、決して私は悪く扱われないだろう。それだけが安心だ。
あとはもう、どうにでもなれとしか言いようがない。なんて言えばいいのかなぁ、こういう、もやもやした気持ち。
「そうですね。……お願いします、リアン」
茶番のようなやり取りだが、リアンは真面目だ。でもきちんと聞いてくれたということは、リドリーはリアンとそれなりに仲良くなることに成功したんじゃないかしら。それならよかった。今日も王宮は平和だ。
しかし、次のリアンの言葉に、私は目を丸くすることになったのだった。