83 深夜の散歩
その日は、月明かりが綺麗な夜だった。
私は久しぶりに、深夜の散歩を楽しんでいた。廊下をフラフラと歩くのは、家の構造を覚えるのに都合が良かったし、気分も晴れた。
それに、今日は満月だ。
雲もなく、月明かりが煌々と照らしてくれる中、歩くのは幻想的で気持ち良かった。ウキウキした気分に浸れると思ったが、静かで考え事に向いているこの時間帯、やはり考えは、昼間のことに戻ってしまう。
ダメだな、私。リアンの心配ばかりして。
このままだと、まずいわ。
私は真剣に改める必要があることに気づいた。
リアンに害が及ぶ前に、私はリアンの望みを叶えないとならない。そして、いつかリアンは誰かと結婚して、そばにいる相手、家族代わりの相手である”私”はいらなくなる。だから、リアンにばかり頼るのはいいこととは思えない。
私は私の方法で生きていかなきゃ。自分が生きていた頃と変わらない、仕事をすることを考えよう。真面目に。でも、それ、いつになるのかしら。
考えながら、足は、自然と音楽室へ向かっていた。部屋からは庭が綺麗に見えて、きっと月もよく見えるはずだ。
音楽室のドアを開きながら、私は頭をひねった。
ノアが成長するまで?
リアンが結婚するまで?
……鏡の呪いがなくなるまで?
それっていつ?
その時に、私は、未練なしに離れられるのだろうか。リアンにも、ノアにも、デイジーにも、みんなに笑顔でさよならと言えるだろうか。私は前回、途中で消えてしまって、一度もさよならを言ったことがないのだ。
少し怖いな。
私は音楽室の窓から、月を見上げた。
私は前に、リアンに自分を使わないでと言ってしまった。それなら信用すると。もちろん、あの時は必要だった。でも今は、それが原因で、リアンは望みを叶えられないのかもしれない。私を使って何かしたいのかもしれない。
それならばいっそ、駒として使われた方がいいのでは?
私は少し、光明が見えた気がした。
駒として使われるなら、それもそれでいいか。私をそうやって使いたいのが彼の一番の望みなら、私はそれを叶えよう。
そう、リアンが望むなら。
「……ソフィア?」
声に振り返れば、先ほどまで考えていた相手の姿があった。
「まぁ、リアン」
「こんなところで何を?」
「あなたこそ」
音楽室の扉が開いていたので、覗いたらしい。リアンは今まで見たことのないくらいラフな格好で、ただ驚きに目を見開いていた。
「女性が一人で不用心ですよ」
「でも会ったのはリアンだけじゃない。用心するだけ無駄よ。だって私の家だもの」
リアンは呆れたようにため息をついた。
「……まったく……僕だからって安全とは限らないでしょう?」
「そうなの?」
「そうですよ……」
言いながらも、リアンは部屋には入ってこなかった。音楽室の端と端で、リアンは随分と遠かった。
こんな夜中に起きてくるなんて、今までになかった。いいえ、私が知らなかっただけかもしれないわ。もしかしたら何度かあったのかしら。ここは自分の家じゃないから落ち着かないのかも。それとも、私みたいに、何かに悩んで? ……具合が悪くて?
「……やっぱり、リアン、頭痛があったり、疲れがひどかったり、眠かったり……」
あ、寝てないんだった。
「いいえ。少し考え事をしていて……月も明るいので。あなたと初めて会った日の夜のようですね」
「ええ、……そうね……」
リアンの顔からは、何を考えているのかわからない。私はどうしたらいいのだろう。リアンは何を……私に望んでいるの?
考えてみれば、確かに、以前アンソニーの言った通りだった。
私は多少、自惚れていたかもしれない。リアンの望んだように動けばいいのだと。でも、”反すること”はわかっても、”望んでいること”がどれだけ叶えられているのかは、わからないのだった。
『リアンの気持ちが全てあなたにわかるなどと、うぬぼれないように、という忠告です』
例えば、面倒だから消えていなくなって欲しいと思っても、いなくならないとわかっている場合、本気で願うことはないだろう。
なるほど、そういうことか。奥の深い言葉だった。さすがアンソニーだ。腹を立ててごめんなさい。
「私のこと、戻して後悔してる?」
「何でそうなります?」
「私がここにいるの、気に入らないのかなぁって」
「そんなことあるわけないです」
「ならほら、安全でしょ? 気に入らないっていきなり殴られることもないわ」
「……そうですねぇ」
うっすらとリアンは笑い、私から目を背けた。私はガウンをさらに首に巻きつけると、リアンに向かって歩いて行った。
「ほら、リアン。いらっしゃいよ」
リアンは戸惑ったものの、私に手を引かれ、一緒に音楽室に足を踏み入れた。
「ねぇ、ほら、月がとっても綺麗! 私が帰ってきた日の夜みたい」
窓辺に向かいながら私が言うと、リアンはぼんやりとした口調で笑みを浮かべた。
「帰ってきた日ですか。いい表現です」
「そう?」
「僕が……あなたが帰るべき場所へ連れ戻せたのだと、喜べるからです」
リアンはなんてロマンチストなんだろう。私は少しだけ笑った。
そんな場所、どこにもないのに。
「やぁね、リアン。私が帰る場所は、もうとっくにないわ。ここは呼ばれた場所よ。誰かのために働く場所なの」
「僕はあなたに負担を?」
「いいえ! まさか! 働きたかったから、嬉しいってことなの。本当よ、リアン。あなたが私を必要としてくれて、とても嬉しいの」
「ソフィア……」
リアンの手が私の頬にそっと触れた。
「僕は……あなたのお役に立てているでしょうか」
リアンのかすれた声がとても優しく響いた。
「もちろんよ!」
私は頷いて、リアンの手を取った。綺麗でごつい、不思議な手。リアンは、いつでもこの手で助けてくれた。けれどいつか、それも決別しなきゃならないんだろう。この先、舞踏会でもリアンとはダンスを踊れないかもしれない。私とまた噂が立ったら困るだろうし、多方面に迷惑がかかりそう。また大臣にあれこれ言われるのも嫌だし。
「踊る?」
私が言うと、リアンは目を丸くした。
「今ですか?」
「そうよ。私、リアンと踊るの好きよ。眠れなくてむしゃくしゃするより、楽しいほうがずっといいわ」
「僕と踊るのは好き、ですか」
「ええ」
「僕も……好きです」
「本当? なら、嬉しいわ。踊ってくださる?」
「えぇ、……喜んで」
私が伸ばした手をリアンが取るのを見ながら、私は少し考えた。
「……何がいいかしら」
「ワルツにしましょう」
「……好きなの?」
「ええ、好きです」
間髪入れずに返事が来るので、怒っているかと思ったが、そうでもないらしい。繋いだ手は優しく、全然怖くない。だが、逆光になっていて、リアンの表情が見えない。
「リアンはゆったりして優雅な曲が好きなのね」
「そうですね」
「何が好き?」
「あなたを抱えて踊るのが好きです」
大真面目な声で言うので、私はおもわず吹き出した。
「あら違うわ。曲よ。何の曲? 歌いながら踊りましょうよ」
ひどいわ、抱えるなんて。でも、そうだった。リアンにとって、私はわがままな子供だ。そして、私はそれが嫌いじゃない。
そうしてくれれば、私は”伝説の令嬢”じゃなくて、ただの”女の子”になれるから。十六歳のまま、こうしてリアンに会えたように思えるから。
リアンが少し赤くなり、私の手をぎゅっと軽く握りなおした。
「え、あ………はい。ワルツの……七番です」
「いいわね! 私も好きよ」
私が旋律を口ずさみ始めると、リアンが微笑み、自然と私たちは踊り始めた。
月明かりだけが、私たちの伴奏だ。儚くて、今に壊れそうで、私たちの関係によく似合ってるんじゃないかしらと、私はぼんやり思った。