81 ノアの従者探し
目の前に、履歴書の束が唸るほど重なっていた。上から一枚ずつ、機械的に手に取りながら、私は、もしも、と考えた。
もしも、私が呪いの鏡の仕組みを解明したとする。そして、今度こそ、鏡の呪いを解く……少なくとも無効化するとする。
そうして鏡の力が無事になくなった時、その効力がノアに及ばなくなってしまったらどうなるのだろう。私が鏡に戻ることはない以上、ノアがまた寝たきりになることはないはず。でも、すでに起きたことは戻らないけど、これからのことはわからない。
ノアの回復が止まってしまったり、願いの効力がなくなって、誰かに騙されたりうまくいかなくなってしまったら……いいえ、そうなってしまっては困る。もし呪いの鏡を無効化できるとしても、それらを確認してからじゃないと、無理だわ。
……そもそも、私はどうして、こんなに呪いを解きたいんだっけ? 将来、私が長生きしようが、リアンにいらないと言われようが、どうでもいいじゃない。
今、ノアが元気なんだから。リアンが目の前にいるのだから。
「ソフィア?」
「え? あ、はい! 何、リアン?」
集中してなかったわ。
私は恐る恐るリアンを見た。
あれから書庫に通いつめ、デイヴィッドが隠していた本を読み漁る毎日だ。何をしていても心はそちらに行ってしまい、この間もスープをこぼしてデイジーに怒られたばかりだ。
でも、魔法の活用方法はあるけど、無効化に関しては、あまりめぼしい記述は見つからない。この国では魔法は盛んでないから当たり前か。
そういったことが書いてあるのは異国の本ばかり。ざっとは読めてもわからない単語があるから、辞書を使って読む必要がある。書庫で読みながら単語のメモをして確認しに戻るか、本を持ち出すか……誰かに見つかったら面倒だけど、やってみるしかない。
と、思考はまた脱線したが、リアンは怒る様子もなく、むしろ心配そうに私を見ていた。心苦し過ぎる。
「お疲れでしょうか?」
「いいえ! まだ始めたばかりだもの」
「でももう、一時間も書類を見ていますよ」
「もうそんなに?」
「はい。集中しておいででしたね。誰か、ノアの従者に良さそうな人材はいましたか」
そう。よそ事を考えている場合ではない。今日は、ノアの従者を決めようと、各所から志願や推薦の履歴書を確認する日だった。私は選り分けておいた履歴書の中から、一枚を取り出した。
「この人かしら」
しかし、リアンはしばらくその用紙を見て、首を振った。
「いや……ノアには若すぎますね。もっと年上がいい」
「そう? でも、ノアよりは年上よ。そこそこ年が近い方がいいかと思ったのだけど」
「親や兄弟がいればね。でもノアは一人きりの当主です。早いところ、執事も雑事も全て指示しなければなりません。ともに成長するような存在では心許ないと思われます」
なるほど。即戦力ってことね。
「そうねぇ……そういえば、ブルータスもかなり上ね」
「あぁ、そうですね。うちはまた違いますが……公爵家はだいたい、従者になる者が決まっているんです。空いている者がいない場合だけ、選ぶことになります。僕の場合は、ブルータスがおりましたので」
「ブルータスも特別な教育を受けているの?」
「そうですね……僕が生まれた時に、ついてくれましたから、特別といえば特別かもしれません」
それは特別と言わなくても特別だ。事も無げに言うが、さすが公爵家、だ。それも、次男なのに。
「ナニーじゃなくて?」
「ナニーもいましたよ」
「ナニーと! 従者! 贅沢だわ……」
私が悶絶していると、リアンはおかしそうに笑い、手元の用紙に目を戻した。続きを再開するらしい。私はもう、やる気はあまりなくなってしまった。もともと、集中できていなくて、よそ事ばかり考えていたんだもの、やる気がなくなるのも当たり前だ。……と思いたい。
「その分、責任はありますね、……おそらく。兄は家庭教師もおりましたし」
穏やかに言うが、その言葉の軽さが、反比例して重い。家庭教師も、やることが多くて大変そうだ。
「学校に行ってないの?」
「いいえ、行きました」
「それなのに家庭教師も? すごいわね」
「家庭教師は今、僕のために改めて雇われていますが」
「あら。それはお忙しいわね。この屋敷には連れてこないの?」
リアンは面倒そうに目を上げ、私を一瞬、じっと見てから、また手元に目を戻した。
「公私混同はしません」
「……どっちが公?」
「家庭教師がプライベートに見えますか?」
私は首を傾げた。私の目の前の履歴書の山が、どんどんリアンの手に吸い込まれていく。
「そうねぇ、確かに違うわね……でもリアンがここに住んでるのも、ある意味、公的な仕事でしょ?」
「立場上、そうですが……別に住む必要はありません」
「えっ ないの?」
「はい、ありません。でももともと僕の部屋を作っていただいていたのと、ノアは未成年で……あなたもそうだからですよ」
「後見人だものね」
すると、リアンが、今度はしっかり顔を上げて呆れたように私を見た。
「そうです。僕は、あなたたちわがままな子供の、見張り役をしなければならないのですからね。ノアもあなたも、本当にすぐ無茶をする。ノアはまたリハビリを張り切りすぎたんですよ? おかげでしばらくリハビリ禁止です。あなたはあなたで、気をぬくと埃だらけで夕食にやってくるし。鏡で自分を確認しないんですか?」
私はぽかんとした。
リアンが私を”わがままな子供”と言った。聖女じゃなくて、伝説の令嬢じゃなくて、ただの子供と。いや、子供って年齢じゃないのは置いておくとしても。
これは……意外と嬉しい。今まで子供扱いなんてされたくないと思っていたけれど、そんなことなかったんだわ。
私は格段に気分が良くなった。
「私、子供じゃないわよ」
「そうですね、社交界デビューもしていますし、立派な淑女ですね」
「言葉に真実味がないわ、リアン……でも、その方がいいわね」
「はい?」
「リアンが目を光らせていてくれるなら、安心だと言ったの。現に、お茶会だって、リアンのおかげで後半は平和だったのだし……次のお茶会も期待されたわ。社交辞令でも、そうそう言わないことよ。ノアが良い評価を頂けたのは、リアンのおかげよ」
私が言うと、リアンは柔らかに頬を崩し、嬉しそうに目を細めた。
「信頼していただいて光栄です」
「信頼……?」
とは、ちょっと違う気がする。
私は首を傾げたが、理由はわからなかった。ただ少し、もやもやとする。
「僕はあなたの弟ですから」
「え? えー……、えぇ……そうね」
キースめ、言ったな。
「姉の笑顔を守ることが僕の使命だと思っています、ソフィア姉様」
「意地悪ね」
私が口を尖らせると、リアンは肩をすくめた。
「これくらいは言わせてくださいよ。先日は本当に驚きました。あなたの部屋があのような密会に使われていたなんて……知りませんでしたから」
「ごめんなさい」
「あなたは悪くありません。ですが、本当に、ご自身で解決しようとするのは、一切やめてくださいね」
不機嫌そうな顔に、私は申し訳なさを覚えた。
「……怒っていない?」
「怒ってますよ。自分の不甲斐なさにね。僕は自分が強いと思ってきましたが、あなたには何もかも先を越されて、後手に回る一方で、守ることもままなりません。もっと精進して、せめて、頼られるようにならなければ……これでは、いつまで経っても安心できません」
私は難しい顔で言うリアンの手を、上からそっと包み込むように繋いだ。リアンはぴくりとしたが、払い落とす様子もなく、しばらく経っても、私の気分は悪くならなかった。うん、リアンは嫌がっていない、すなわち、本当に怒ってない。この顔で無の境地になってるとは思えないし。
「私、リアンに頼っていてよ?」
「そうでしょうか?」
「今言ったでしょう、あなたが。私たちの見張り役なんだって」
「言いましたけど……それは僕がそうしたいだけです。特にあなたは……すぐにどこかへ行ってしまいそうで。僕のことなど、気にかけていないでしょう?」
私は驚いて、リアンの手を握る自分の手に力を込めた。
「まさか。いつだって気にかけてるわ。どんなリアンでも、いてくれるだけで嬉しいから、心配かけたくないの。だって笑顔でいて欲しいんだもの。私を鏡の中から救い出してくれたあなたがいると、私はここにいて良いんだなって思えるから」
あの、初めての遠乗りで行った森のように。リアンがいると世界が鮮やかになる。私がここでの生活に一歩を踏み出せたのも、リアンがずっと支えてくれたからだ。
「それだけで、すごく頼りにしているの。私にとっては、とても大切なことよ、リアン」
「……わかっておりますよ」
言うと、リアンは私の手の上からそっと手を握って微笑んだ。
「僕にとっても、あなたがいてくれることは、とても嬉しいことですよ、ソフィア」