52 アンソニーの来訪
ベッドから起き上がって、数日が経った、午後のことだった。ノアはリハビリ中で、私は暇をしていた。何しろ、もうすっかりリアンの頼みを断る試みは諦めたから。けれども、会わないにこしたことはなく、私はリアンを避けて休んでいた。
「ここにいたんですか、ソフィア様」
明るく爽やかな風がよく似合う、快活な声がすっと飛び込んできた。庭の片隅のカウチで休んでいた私を、リアンの従兄弟殿が目ざとく見つけたのだった。
「アンソニー様」
私が慌てて立ち上がろうとすると、アンソニーはそれを手で制した。
「リアンが探してますよ。最近、お忙しいんですか?」
私はあからさまに不愉快な顔をしたらしい。アンソニーは快活に笑い、カウチからテーブルを挟んで向かいにある椅子に座った。
「私は友人に会いにきただけですよ。ご一緒でないので、戸惑っただけです。特にご用事もない様子で、リアンも部屋で、長いこと読めていなかった本を熟読していたようですし」
言いながら、アンソニーは何かを差し出してきた。
「父からの手紙です。どうぞ」
私は手を出しながら、恭しく受け取った。中身は見なくても何だかわかる。謁見の日程なんて、わざわざ王太子を使って持ってくるものでもないだろうに……
「喧嘩ですか? 珍しいですね」
私は手紙を確かめる元気もなく、テーブルに置いて首を横に振った。
「違います。リアンの声を聞きたくないだけです」
「どうしてです? あいつ、いい声してると思いますけど。嫌になりましたか?」
からかうような口調が少しカンにさわる。
「そうではなくて……リアンに嫌なことなんてありません。でも会いたくない時だってあっていいじゃないですか」
「何かお困りでも? 見合いの話をしつこく聞いてくるとか? くだらない嫌味を言うとか?」
「いえいえ、そうじゃなくて……なんていうか、……」
私はため息をついた。逆に、それだけならどんなにいいか。
「私、しばらくはリアンのお願い事を聞きたくないのです」
「願い事……? 何か無理難題でも頼まれるんですか?」
「そういうわけではありませんけど……」
「どうして悩むんですか? リアンの些細な願い事くらい、叶えてあげればよろしいじゃないですか」
まったく。アンソニーの、純粋の興味があるだけの表情が気に入らない。好奇心と心配しかないから、これだけ率直な質問攻めになるのだろう。これが、リアンに頼まれてとか理由があるのなら、私だって何か不満に思えたものを。
「ごくたまにならいいですよ。でも食事の誘いも外出の誘いも、全部断れないんですもの」
「断れない? まさか。リアンはあなたの意志を最大限尊重しているはずですが」
「リアンの考えは関係ありませんわ」
そうすると決めたことと、してほしい気持ちは必ずしも一致しない。お見合いの時と同じだ。あれから何通か依頼が来て、笑顔でリアンは私のところへ話を通したけれど、ピリピリするわどうしたらいいかわからないわで、断る一択だったにもかかわらず、散々だった。リアン自身も気持ちがまとまっていないに違いない。いっそのこと、私をメイドにでもしたらいいのに。
……外務大臣としては、次期公爵のメイドと息子の嫁、どちらが”伝説の令嬢”らしいと思うかしら? まぁ、どっちもなしよね、普通は。
「では、何が関係していると?」
私は少し考えを逡巡させたが、覚悟を決めた。
アンソニーには言っておいてもいいだろう。すでにデイジーとヘンリーは知っているわけだし、アンソニーは隠し事をして得になる相手じゃない。
「私、今まで、リアンの願い事を断ったことがないんです」
「なるほど」
「今まで、私を鏡から出してくれたから、感謝の気持ちだと思ってたんですけど……」
「どうも違う、と?」
私は頷いた。
「私、リアンの望みに沿わないと、体調が悪くなるようなんです。私にとっての、お願い限定ですけど。だからそう、叶えなければならないんです」
「まさか、叶えてあげなければ、また鏡の中に逆戻りしてしまうんですか?」
「いいえ、それはありませんわ。リアンの願いの結果として私はここに戻ってきているので……でも、鏡が言うには、リアンが私に望む、本当の願い事を叶えてあげれば、そういう存在価値から解き放たれるそうなんです」
私の言葉に、一瞬、動きが止まった。
「……鏡と? 喋る?」
アンソニーが不自然な角度に首を傾げた。
あら。言ってなかったかしら。……そうね、言ってるはずがないわ。
「ええ、まぁ、その……そうなんです。と言っても、話せるのは私だけだそうですが。鏡の中にいた私とは魔力がつながっているとのことで」
「そうなんですか! ますます”伝説の令嬢”っぽいですね!」
急に、アンソニーは目をキラキラさせて身を乗り出した。
「嬉しそうですわね……まぁ、あの鏡は、もともと私を閉じ込めたまま何十年と平然といられるくらいですから、強い魔力を持っているんでしょうけれど……私が中にいて、みんなが家宝として大事にしてきたことで、さらに魔力が高まったようです」
「ふーむ、なるほど、そのような効果が……」
顎に手を当て、思案するアンソニーはひどく楽しそうだ。呪いの鏡というのは、面白いものなのだろう。支配者になろうとする者にとっては。考え込むアンソニーはなかなかに目の保養だが、見ていても話は進まない。
「鏡と話せるのが分かったのは、実は、先日の、外務大臣の息子さんとのお見合いの時なんです。あの時は知らなくて、自分が張り切りすぎてるせいで、具合が悪くなっているのだと思っていたんですけれど、結局は、リアンが嫌がってることをしたからだそうですの」
「寝込んだのはそれだったんですか。リアンは命を捧げんばかりに心配していましたけど、そうでしたか、リアン自身のせいでしたか……」
命を捧げん……大げさな……
わたしは肩をすくめた。
「リアンのせいという訳でもありませんのよ。寝込んだのは未熟な私のせいですし、知らなかったとはいえ、そもそも、リアンの希望に逆らったのがいけないんですから」
アンソニーが思案げに聞いてきた。
「もう少し詳しく教えていただけますか?」
「鏡が言うには……鏡は相手を映す存在だから、願いを反映するそうなのですが、私は鏡の中にいたから、その影響を受けてしまっているそうですわ。つまり、自分の意志に反して、リアンに頼まれたことは、全部、叶えないとならなくなるんです。ちょっとした頼み事から、お願いまで、全部」
「ぜ……全部?」
「ええ……私の意思に関わらず、一緒にいたいとリアンが思えば、わたしもそうするしかないってことです。あの場合、リアンが私がお見合いを断るのが願いだったので、それに逆らった私は具合が悪くなったのですけれど……その後、試しにいろいろ断ろうと思ったのですけど、寝込むのでやめました」
「あなたの意思は反映されないのですね」
「ええ。……あぁ、もちろん、喜んでお受けしたいお誘いもあるのですけど、全てではありませんから」
「つまり……リアンと過ごす大半が楽しくない、ということなのですか? そもそも、リアンがあなたが嫌がるようなお願い事はしてきそうにありませんけど……」
アンソニーは不思議そうに呟いた。私はツンと顔をそらした。
「そうではありません。楽しいのと、自分の時間が欲しいのとは別です」
「鏡の中で、散々、一人でいたんでしょうに」
「それも話が別です」
「では、リアンと過ごすのは楽しいけれど、自分の時間が欲しい時でも断れないのはちょっと困る、そういうことですか?」
それだと随分と軽く感じる……私何をそんなに悩んでたのかしら……思いかけて、我に返った。危ない危ない。大事なのは私の意志でリアンと一緒にいたいということで、リアンも今の状況を知ったら、決して喜ばないだろう。それに、リアンの一番の願いが叶わないと、私が戻ってきた意味ってあるのかしらと考えてしまうからだ。
「アンソニー様がリアンの肩を持つのはわかりますが、私のことだって多少は考えていただきたいですわ。私だって自分の意志でリアンと過ごしたいのです」
私が言うと、アンソニーは軽く笑った。