39 がっかり悲恋物語
鏡は随分と静かだった。当たり前だけれど、ただの鏡だ。
「・・・今日で、何か変わった?」
私は振り向きもせず、デイジーに問いかけた。
「まだ、なんとも言えません、ソフィア様。でも、リアン様がソフィア様を連れて行くと招待状に返事をした時から、変化はございましたよ。私へのお声がけは減りましたし、警戒なさるようになりました。伝説のことは、国王陛下がご自身の舞踏会でお伝えなさったと聞きましたから、動向を見守っておられるのでしょう。ソフィア様は、どんなことがありましたでしょうか?」
何もなかったとは思っていない様子が、デイジーらしかった。私は小さく頷いた。
「・・・バーニー・イーズデール伯爵とダンスを踊ったわ」
「外務大臣の?」
「ええ。この部屋で他国の方をおもてなししていたようね。大事な話の時には、使っていたのよね?」
「はい、そうです。・・・またこの部屋を使いたいとおっしゃいましたか」
「管理が私になったと思ったみたいね。でも、私は使わせるつもりはないと言っておいたわ。代わりにセンプランの夏離宮を提案したの」
デイジーは目を丸くした。
「お早いですね。イーズデール様はご理解を?」
「ええ。あの様子だと、ニコラスが夏離宮を好きだったことは知っていたみたい。私とニコラスの”大悲恋”は、諸外国で随分と人気なようね。巧みに使っていたようだから、ニコラスの性格や好みも知っていたのだと思うわ。私が一度行ったことがあることも、・・・多分、あのニコラスのことだから、どこかに書き残してると思うのよね。だからそれを向こうが確認すれば、私にゆかりのある場所ってことで、また使うことができるでしょう」
うんうん、と私は頷いたが、デイジーはため息まじりに非難めいた声を出した。
「夏離宮は思い出の場所だから、てっきり、別の候補の場所をお選びになると思っておりました」
「思い出って?」
「ニコラス様は、ご自分のお好きな場所に、一度しかソフィア様をお呼びすることができなかったんですもの。もっとお呼びしたかったと、嘆いておられたと」
私は首をひねった。
「・・・そういう伝説ね?」
「歴史の事実です」
「それなら、ますますいいことじゃないの。イーズデール様が納得してくださったのも良くわかるわ」
「ですが、ご自身の大切な思い出を犠牲になさるとは思っておりませんでしたので」
「大切な思い出? 確かに素敵な場所だったけれど、・・・特に思い入れはないわよ」
「そうなのですか?」
困ったような、不思議そうなデイジーの様子に、私は合点がいった。なるほど。私とニコラスの”大悲恋”の話を信じているのだ。
・・・当たり前か。
私はためらいながら、デイジーに向き直った。”大悲恋”はとてもロマンティックで素敵なお話だ。それを信じている気持ちに水を差すのは非常に心苦しい。
「あなたにだから言っておくけれど・・・、私はね、ニコラスのことはなんとも思っていなかったの。結婚したいだなんて、思ってもいなかったのよ。”伝説の令嬢”というのは、ある意味、虚構のでっち上げなの」
言うと、私は真実をデイジーに伝えた。最初は落胆した様子のデイジーだったけれど、私からはどこにも何も思い入れがないとわかると、自分がしてきた仕事に対しても、少し気が晴れたようだった。
「わかりましたわ、ソフィア様。大切なお二人の話を汚すようで嫌でしたが、そもそもない話でしたのね・・・ニコラス様も御存じで、でも作らずにはいられなかった悲恋の伝説・・・ニコラス様のお気持ちを考えると、同情を覚えてしまいますわね。でも、申し訳ありませんが、少しだけホッといたしました。今、ソフィア様が悲しい思いをすることがありませんもの」
「夢を壊してしまって、申し訳ないわ。だから、誰にも言わないでね。とにかく、夏離宮に関しては、そういうことでいいかしら。使われていなかった場所の再利用だもの、誰も文句は言わないでしょ。この部屋が使えない以上、むしろ、国にとってはいいことかもしれないわね。特定の家を使わなくていいのだから」
私は一度、言葉を切ってデイジーの様子を伺った。考え込んではいるが、嫌がる様子は特にない。
私はそのまま話を続けた。
「でね、こちらから専用の使用人を出して、管理はこの家の者がする、と提案しようと思うの。そうすれば、まだピアニー家の管轄になるでしょう? 影響力は悪くないと思うわ。今までの情報網を使えるわけだし、どちらにも悪くないはずよ。完全に使える部屋と入口を分ければ、密談も情事もなんでもござれ、じゃない? 夏離宮でお茶会をする時はピアニー家も呼んでもらう、とか、うまく回せば、今までよりやりやすいかもしれないわ。でも、あなたはもうできないから、最初は協力するにしても、ヘンリーには新しく教育を頑張ってもらうしかないわね」
デイジーが驚いたように、かすかに目を上げた。
「私はもうやらなくていいのですか?」
「言ったでしょう、あなたは私の侍女なんだから。本来の仕事に専念してほしいの。もしやりたいのならもちろん、やっていいけれど、そうでなければやらなくていいわ。専用に、人を雇いましょう。もっとやりたい人に」
「・・・わかりました」
私はふと不安になって、デイジーに尋ねた。
「これで、よかったのよね? ・・・私はノアのために動けてる? 舞踏会ではリアンのいうとおりに動いたけれど、リアンがこの家の者ではない以上、何もかも伝えるわけにはいかないから」
私が言うと、デイジーは首を横に振った。
「驚いたのですわ、ソフィア様。やはり、”伝説の令嬢”は違います」
デイジーがふわりと笑った。可愛らしい。
「うふふ。私を仲間に入れるのは、悪いことじゃなさそうでしょ?」
「それは・・・ちょっと・・・まだ・・・」
「いいわ。どうしてもってわけじゃないから。あなたたちの仕事に首を突っ込みたいわけじゃないの。ノアが面倒なことに巻き込まれなければ、何をしてもいい、・・・っていうのは言い過ぎかしら」
私が言うと、デイジーは意を決したように頷いた。
「ノア様が次代のご当主になるかどうか、私たちも手探りで、もう望みはないという使用人もいます。ソフィア様の方が適任だと言う人も。でも、私はソフィア様を信じます。ノア様のために、より良い環境を作りましょう」
私はホッとして、笑った。
「ありがとう。ヘンリーと話す必要があるかしら?」
「そうですね。・・・あぁ、ヘンリーさんに怒られてしまいます・・・」
「大丈夫よ。私がしたことなんだもの」
「お嬢様を守れないで何が侍女だと言われそうです」
「護衛じゃないんだから」
「ソフィア様が矢面に立たないように、精一杯頑張らせていただきます」
「無理しないで。あなたは侍女をしてくれればいいの。私のお手伝いよ。ヘンリーもね。ノアが戻ってくるまでに、整理しておきたいわ」
デイジーは不安そうにうつむいた。
「ノア様は、・・・戻っておいでになるのでしょうか」
「そうでなければ。私ではダメよ。デイヴィッドの子孫でなくては・・・」
私は鏡に近づいた。
いろいろやってみても、何の意味もないかもしれない。
でも私は家を継ぐために帰ってきたわけじゃない。王家に嫁ぐためでもない。
リアンに望まれたから帰ってきたのだ。
ノアのために。ノアの助けになるために。
私は鏡を軽く撫でて、ほぼ殴るようにして曇りを払った。
「あーあ。鏡ったら、私の望みも叶えてくれるといいのに。百年も一緒にいて、何もしてくれないわけ? ノアが元気になって、それこそ楽しく幸せに暮らせて、さらに、幸せな結婚をして子孫代々末代までお気楽に幸せにみんなが暮らせるっていう・・・」
私のぼやきに、一瞬空気が変わった。
”それが望みか”
声が響いた。
部屋いっぱいに広がるように、どこからともなく。
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