28 甘えたいのは誰?
リアンが不思議そうな顔をしたので、私は笑いながら伝えた。
「私のことばかり心配していないで、ご自分のことも考えてくださいな。仕事もお忙しそうだし、私に構ってばかりもいられないでしょう?」
「僕はあなたに対して責任があります。僕が自分の仕事を全うできないというのですか?」
「そうじゃないけど・・・えーっと、だから、・・・甘えてくれても構わないのよ?」
私が言うと、リアンはピタリと動きを止めて、私をまじまじと見つめた。私、そんな変なこと、言ってないはずなんだけど。
ほんの数秒もない気がする。次の瞬間、リアンがクスリと笑った。
「何をおっしゃるんですか。甘えたいのはご自分では?」
ああ、甘えたくなる笑顔だ。なんてひどいんだろう。私は鏡から出てきたと気がついた時に、全てを覚悟したのに。誰にも甘えないんだと、甘えられないんだと。そう思わないと、私がここにいる理由がない気がして。
「・・・甘えていいの?」
「いいですとも」
「それなら」
言いながら、私はリアンの正面に立ち、向かい合った。
「ソフィア?」
首をかしげるリアンに向かい、私は深く息を吸って、ゆっくりと息を吐いた。
「お父様だと思ってもいい?」
妙齢の女性が、血縁でもない男性にこんなことをしていいとは思っていない。
でも、さすがに先のことを考えるとくじけそうになってくる。
内容によっては弱音を吐きたくても吐けないことがたくさんある以上、リアンを父と思って、弟と思って、甘えてもいいでしょう?
「構いませんが・・・?」
リアンの言葉に私は決意し、リアンの胸元に勢いよく抱きついた。
突然のことに、リアンはよろけそうになりながら、慌てて私を抱きとめた。
「ど、どうしたんです、ソフィア」
「・・・知ってる子がいなかったわ・・・エリザベスの隣で笑ってた女の子がいなかった。ジェシカと一緒に遊んでいた子がいなかった」
一瞬動きを止め、その後ゆっくりと、リアンの腕が優しく私の肩を掴んだ。
「あぁ、・・・そうですね」
「鏡の中で見てる時は、辛くなかったの。人はいなくなって当たり前で、私はずっと見てるだけで、それだけだった」
言いながらリアンの胸元へ顔を埋めると、それだけで緊張がほぐれた。
「でもリアン、今はとても辛い。いつだってそうなの。お礼を言いたい人はいつもいないの。両親もデイヴィッドもニコラスもメアリも。ルイス様にお礼くらい言いたかったわ、私の部屋を・・・保ってくれて、素敵な侍女をつけてくれて、ありがとうって」
リアンが、今度は私を優しく抱きしめた。頭からすっぽりと包み込むようで、私はさらに顔を埋めた。
「・・・申し訳ありません」
「リアンは悪くないわ」
「でも、僕があなたを呼んでしまったから。呼ばなければ、鏡の中で、知らずにいられたのに。そして、今じゃなくて、もっといい時代に、あなたを呼ぶ人がきっといたはずだから」
「そんなの、誰にもわからないことだわ。ずっと鏡の中にいて、鏡が取り壊されて、戻る術がなくなって・・・それでも私はあの暗闇の中にずっとい続けたかもしれないもの。リアンには感謝してる。謝って欲しいなんて、思ってないの」
「でも、・・・僕のわがままなんですよ。あなたにいて欲しいと思うことは」
私は首を横に振った。腕の中で、リアンの胸に頭をぐりぐりと押し付けるようになる。
「違う。違うのよ・・・」
私は確かに森の中で、再び生き返ったことを喜んだのだ。再び生きて、空気を感じて、そうして、リアンが私の存在を求めてくれたことに、言いようのない感謝を感じてる。
そして、私のために守られてきた約束事に感激していた。鏡の中にいるのだと諦めていたけれど、そのまま朽ち果てたかったわけじゃない。私のために用意されて、待っていてくれた人が、デイジーがいてくれて、私は確かに嬉しかったのだから。
そう。私のために、用意された人。
「・・・ノアに従者をつけなければね」
リアンの腕の中で私はつぶやいた。
「何ですって?」
「ノアの従者よ。必要な頃でしょう?」
「え、ええ。ですが、・・・まだいらないと思いますよ。今までナニーがいましたから、そのことを考えると不便かもしれませんが、まだノアには・・・」
ためらいがちなリアンの声に、私が顔を上げた。馬に乗っている時のように、リアンの顎がよく見えた。リアンには私の泣きはらした目がよく見えることだろう。
「ノアは戻ってこないと思ってる? だからいらないって? そうじゃないでしょ。私のためにデイジーをつけてくれたみたいに、ノアにも必要よ。必要なの。探しましょう、いい子を」
リアンは息を飲み、静かに頷いた。
「・・・そうですね」
「それまでは、ノアの世話はデイジーにお願いしようかと思うの。もちろん、私もしたいけれど・・・」
「はい、わかりました」
言い淀んだ私の言葉に、リアンは被せるように頷いた。私の痛みなど分からなくていいのに。デイヴィッドに似ているノアを、見るのがつらいだなんて、そんなこと。リアンは察してしまうから。
「あ、それから」
「なんでしょう?」
「デイジーの補佐というわけではないんだけど、ヴェルヴェーヌを私につけてくださる?」
リアンはきょとんとした。
「ヴェルヴェーヌ? ですが・・・」
「もちろん、本人がいいと言えばよ。でもね、今日帰ってきたのは彼女がここを好きだからだと思うの。普通は、そのまま退職するわ。現にそうしてる人もいるでしょう。でも、ヴェルヴェーヌがここにいたいのなら、・・・もしよければ、私のお世話をしてもらおうかと思って。ジュニエーの代わりにきた侍女は何度か変わってるでしょ。ヴェルヴェーヌはここに来てからまだ少ししか経っていなくて、エリザベスについていたのは半年ほど。本人が自信を持って他の家に奉公にいけないと思ってると思うの。そんな子を、また一から別の環境にやってしまうのは忍びないわ」
「わかりました。手配しましょう」
言いながら、リアンはゆったりと私の頭を撫でた。優しく、とても優しく。
「お願いね」
言いたいことを全て言い終えた私が顔を上げると、リアンは微笑んだ。
「元気が出ましたね」
「元気よ。ずっと元気。ただ、甘えただけだもの」
リアンは私をぎゅっと抱きすくめた。
「そうでしたね。あなたには、とても元気で・・・ずっと元気でいて欲しいです」
私はクスリと笑った。
「リアンのためにね」
「僕の?」
「ええ、そうでしょう? そのためにいるんだから」
すると、ふてくされたようにリアンは私の顎に手をかけ、顔を上げさせた。
「忘れてください、そんなこと」
「でも、・・・」
リアンはクスリと笑うと、私の頬に手を滑らせた。
「涙が」
言うと、私の瞼に唇を寄せ、スッと雫を吸い取った。私が驚いて目を見張ると、リアンはうっとりとした目で私を見た。
しまった。リアンは眼球信者だったんだわ。忘れてた。いや、瞳の色だったかしら?
なんにしろ、目に並々ならぬ情熱があることには違いない。私の目が特にお気に入りなのはよくわかった。だってことあるごとに、うっとりして見てるんだもの。もしかしたら、どうやって抉り出すのか考えてるのかもしれない。そんなふうに考えてるなんて、思いたくないけれど。
だってリアンのうっとりした顔は、本当に、しびれるほど素敵で、私は麻痺したように動けなくなってしまうから。そんな風に感じるのはリアンだけ。ニコラスにも誰にも感じたことがない、不思議な感覚なのだ。