21 遠乗り
甘く見ていた。馬の上というものを。
幼い頃、乗せてもらったことがあるし、一人で乗ったことも少しはある。
でもこの年で、男性に抱えてもらって馬に乗るなど、有事の時以外は勘弁してほしい。・・・ということに少しも気づかなかった。
馬は揺れるし、ものすごく近い。リアンの顔が。息遣いが。全てが。距離を保とうとしても馬の動きに合わせているとどうにも保ちきれない。
「大丈夫ですか?」
息を切らすこともなく、リアンが言った。私は無言でただ頷くだけ。真顔の私を見て、リアンはクスリと笑った。なんとも余裕のある笑顔で嫌味ったらしい。
「もう少し、遅くしましょうか」
「い、いいえ、・・・いいえ、だ、だだだ、大丈夫! ふ、普通は、この速さなのでしょ。だったら、な、慣れなきゃ」
「そうは言いましても、・・・これ、結構早いですよ」
馬が小さな岩を飛び越えた。ふわりと浮いて、思わずリアンにしがみつく。
「ぎゃ!」
「ほら。慣れてないんですから」
言うと、リアンは馬を止めた。私はほっと息をついた。それでもまだ、心臓がバクバク言ってる。リアンがそっと私を抱きしめた。
「少し、意地悪になってしまいましたね。そのつもりはなかったのですが、アルタイル号が楽しそうにしているものだから、つい」
アルタイル号。この綺麗な可愛らしい馬はアルタイルというのか。素敵な名前だ。
見上げると、リアンの形の良い顎が目の前に見えた。
涼しい顔して、なんとも羨ましい。悔しい。絶対に乗れるようになってやる。
リアンが視線に気がついたように、私に笑いかけた。
「落ち着きましたか?」
ハッとして、私は顔を背けた。
「アルタイル、っていうのね」
「ええ」
「綺麗な馬だわ」
「はい。ルイス殿に選んでいただいたものです」
「まぁ、・・・そうなの」
「アルタイルは僕のことをよくわかってくれています。それに、久しぶりで嬉しいのでしょう。ほら、もう直ぐで森ですよ」
「ほんと・・・」
アルタイル号が立ち止まったのは小高い丘で、そこから、森を含む景色が一望できた。
綺麗な深い緑が広がり、その周りに家々が、畑が、町が広がる。私の知っている景色、知らない景色。
「覚えておりますか」
「・・・少しだけ。うちの領地は隣だから、あのあたりかしら。昔はもっと、牧畜が盛んだった気がするんだけど」
「ああ。近年は、ワイン作りに力を入れています。だから、ぶどう畑が広がっているんじゃないのでしょうか。デイヴィッド様はワインと貴金属の目利きで、厳選したワインと貴金属の取引で業績を伸ばしましたが、その流れでしょう」
「そうなの・・・ワイン、飲んだことないわ」
「美味しいですよ。・・・ああ、まだ未成年でしたね。それなら、いただいたジュースがあると思いますから、帰ったらお出ししましょう。干し葡萄の方がいいかもしれませんね」
「ぶどうのジュース・・・」
美味しそうだ。
「もう帰りましょうか?」
私が物欲しそうだったのか、リアンが言う。私は首を横に振った。
「確かに飲みたいけど、今じゃない。今は、森に行きたい。いいでしょう?」
私が懇願するようにリアンの懐から顔を上げると、目があったリアンはその目をパチクリとさせた。そして、私を抱えていた手を離すと、みるみるうちに頬が赤くなっていく。
「・・・どうしたの?」
「あ、いえ、その・・・、よくデボラをこうして抱えて乗っていたので、デボラと同じように扱ってしまって・・・」
「デボラ? 妹さんね」
「はい・・・、申し訳ありません・・・」
「え、どうして」
「お嫌でしたでしょう」
「別にそんなこともないわ。でもそうね、言われてみると変な感じ。確かに私にお兄様がいたら、こんな感じかしら? デボラも、リアンのようなお兄様がいるなんて素敵ね」
「どうでしょう、」
少しだけ寂しそうに、リアンが言った。そして、森の方へ視線を向けた。
「僕はあまり、相手が上手じゃなかったから」
「そうなの?」
「兄とは、・・・アーロンとはとても仲が良かったんですが」
「それでは、とても寂しいでしょうね。療養に出ていると公爵はおっしゃってたけど、それって・・・?」
「はい。兄がいなくて、そのことに耐えられず、ここにいられないのです。兄は年の近い僕よりずっと彼女と仲が良くて、デボラは兄と一緒にいると笑顔を絶やさなかったんです。僕といると、僕の反応が悪い時は困った顔をすることもあって。兄が僕とデボラの橋渡しをしてくれていたようなものでした。兄が亡くなって、・・・僕たちは、すっかり距離ができてしまいました。リズとも仲が良かったので、結果的にですが、僕がリズを振ったようになってしまって、デボラは怒っていましたし、リズと婚約した兄を褒め称えていました。その大切な人たちを失ってしまって、デボラはここにいられなくなりました。思い出が多すぎて、なんでも辛いのです。それで、領地の中でも、遠く、今までデボラが行ったことのない療養地の屋敷で、デボラは暮らしています」
「そうだったの・・・」
「父と母は、デボラに会うために、よくその屋敷へ行っています」
「リアンはいかないの?」
「僕は、・・・アーロンのことを強く思い出させてしまうから、行ってはいけないんです。デボラの心を乱してしまうから」
「・・・リアン、それは・・・会いたいでしょうに」
「そうですね・・・」
リアンはつぶやくと、遠くを見据えるように顔を上げた。
「僕はよく思うんです。僕ではなく、アーロンが残るべきだったと」
「そんなこと、どうして?」
「長男ですし、明るく闊達で、僕よりずっと人に好かれて、社交的ですから。僕より生きる価値があった。なのに現実は、残酷なものです」
リアンの淡々とした口調が、丘を流れる風に運ばれていった。
「家の相続人手続きを変更したり、新たにルールを作ったり、遺言書を開いたり、確かめたり。本来なら兄がすべきところを、僕がしなければならなくなった。・・・そんなことはどうでもいいです。アーロンが帰ってくるなら、僕はいくらでもやったでしょう。でも、アーロンが帰ってくるわけもない。両親は処理で多忙なのに手伝えない。苦しんでいる妹の助けにもなれない。僕は一体、どうすればいいのでしょう」
途方にくれた迷子のように、リアンの言葉が消えていった。表情はわからなかったけれど、ポツリポツリと、服に水滴が落ちた。
「リアン、それは、寂しかったわね・・・」
私はそっと、リアンの頬に手を伸ばした。案の定、頬が濡れている。
「だから私を、呼び戻してくれたのね」
「そんなことは、・・・」
「いいの。リアン、あなたはとてもいい子よ。あなたのお母様が褒めて感謝してらしたわ。起きてしまったことは、仕方ないわ。あなたはあなた、必要なの。だから、そんな悲しいことを言わないで。今のままでいいのよ」
「ソフィア・・・ありがとうございます」
私の耳元で囁き、リアンは私の手を取ると、いつかの夜と同じように、手の甲にキスをした。
誤字報告ありがとうございます。