2 出会った人は
「・・・誰?」
私の下で、少年がそう言った。
目を丸くして、ポカンとした表情だ。心なしか、私の記憶の中の王太子に似ていた。そう。弟と王太子は亡くなる直前まで仲が良かった。
我が家は弟デイヴィッドの商才で貧乏貴族から富裕貴族になっていて、王太子と私を失った傷を舐め合うことで、王家の友人にまで昇格していた。その後も両家の付き合いは続き、婚姻した子孫もいた。
だから、この家に住む者に王太子に似ている者がいるは当然だ。私も随分といろいろな子を見てきた。この子だって見たことがあるはずだ。
でもなんで私の下に? 鏡はどこ?
「重いんですが」
言葉を失っていた私に、彼は困ったように告げた。私は慌てて立ち上がって、後ずさった。
信じられない。この子に私が見える。私に質量がある。ということは、私は現実に戻ってきたのだ。鏡の中から。
・・・鏡の?
私は振り返った。
いつも綺麗にしてある『鏡の部屋』にかかる、私がいた鏡だ。これが。
・・・こんな風に見えていたんだ。
実を言うと、包みを開けてすぐに吸い込まれてしまったから、よく見えていなかったのだ。
私は一瞬、見とれてしまった。本当に神秘的でとても美しい。弟が引っかかったのも無理はない。周囲は高価な額縁のように細かい装飾が施され、燻したような金彩が輝いている。鏡の面は艶やかで、いつも大切に磨かれているのがわかる。
そこに、若く華やかで、綺麗な少女が映った。
「誰?」
私が首を傾げると、鏡の中の少女も首を傾げた。後ろで少年が吹き出した。
「ちょっと、笑うこと・・・」
ないでしょう、と続けようとして振り向き、私は驚いた。
少年は私より背が高く、年上で、むしろ青年と言ったほうが合っている。先ほど鏡に映っていた少女よりはずっと年上だろう。童顔なのか・・・ううん、私が見誤ったんだ。甘く見ていた私は急にどきりとした。
立ち上がった青年は、もう笑っておらず、屈んで自分についたほこりを払っていた。
本当によく王太子に似ていた。先祖返りのようなものか。さらりとした艶やかな茶色い髪に、長い睫毛、整った顔立ち。加えて、整然とした佇まい。しっかりと躾と教育を施されてきた育ちの良さが滲み出ている。そして、顔を上げて言った。
「ご自分のことがお分かりにならないと?」
なるほど。長いこと鏡の中にい続けて、自分自身は老婆以上に年齢を重ねた気がしていたが、私はずっと、鏡の中で成長が止まっていたのだ。そしてあまりにも自分の顔を見ないでいたため、すっかり忘れてしまっていた。
「そうね・・・よく分からないわ」
「あなたはどなたですか? どうやってここまで? これまでどこに? この部屋には秘密の扉が?」
矢継ぎ早の質問に、私は肩をすくめた。
私はもうこの世に存在しないはずの人間だから。秘密の扉はないし、鏡の中にいて、どうやってきたのかもわからない。自分の名前も忘れてしまった。どっちにしろ、言っても仕方のないことだ。こんな話、信じてもらえる自信はない。
名前、私の名前。・・・弟は、父は、母は、私をなんと呼んでいたかしら。
「私は・・・ソフィア。・・・ソフィア、と申します」
ドレスの端を持ち、片足を下げて膝を折り、頭を少し下げる。おぼろげな記憶から慌てて紡ぎだした名前だ。すると、彼は目を見開き、呟いた。
「部屋の名前を・・・知っているんですか」
「? この部屋の? この部屋は、『家宝の鏡の間』では?」
私が質問を返すと、失礼だと怒ることもなく、彼は頷いた。
「ああ、そうとも呼ばれていますね。でも、通称は、『ソフィアの部屋』ですよ。この家のご先祖の、偉大な方の名前を付けられているそうですから。だから、この家系では、ソフィアという名前はつけられていない・・・」
あら、そうだったの?
弟ったら大変なことをしてくれた。私は驚いて彼を見た。彼は私の視線はそっちのけで、考えを巡らせている。
「まさか、・・・いや、きっと、合図があるんだ、きっと・・・あなたはこの家の子ではないのですか。それにしてはよく似ていますが」
「誰に?」
「エリザベス。この家の令嬢です」
「あなたは? この家の子供ではないの?」
「僕ですか? 僕は違います。ノアを訪ねてまいりました」
「ノア?」
「エリザベスの弟です。ご存知ない?」
「エリザベス・・・ノア・・・」
この家のことは承知しているつもりだった。子々孫々、覚えてきたし、見守ってきた・・・はずだったが、出てきた時に、色々落っことしてきたらしい。老いと共に、覚えてきた記憶もポロポロとなくなっている。
鏡の中に置いてきたことで元の姿を取り戻したというなら、私の見た目が十六歳に見えるのも納得がいった。今後もここで過ごすなら、十六歳から始めることになるだろう。
何しろ、私が鏡に取り込まれたのは十六歳の時なのだから。
「記憶喪失、・・・でしょうか?」
彼が言った。
そうではないが、そうとも言える。記憶だけではなく、色々なものを喪失しているのだが。
それより十六歳までの記憶は鮮明だ。誕生日にこの鏡をもらった日のことを鮮明に覚えている。そう、まるで昨日のことのように。
この世界では、私にとってはつまり、昨日のことなのだ。
「まさか、ルイス伯父の隠し子・・・とか?」
「ルイス? ・・・この家の旦那様?」
「そうです。この家の当主で、僕は遠い親戚になります。家族ぐるみで、ずっと昔から仲が良かったみたいで。最近は結婚した親族はいなかったのですが、まぁ、だいたい近い血筋ってことですね」
私はこわばった彼の顔を見ながら、ふと名前が浮かんできた。
「あなた、オースティンね?」
「え? 僕はリアンですよ」
「ああ、違うの。私が勝手につけた名前よ。いつだって、本名はわからなかったから・・・メアリ、コリン、シンディ、ブランドン、オースティン。そう、思い出した。あなた、お兄さんがいらっしゃる? 小さいころ、よく遊びに来ていたんじゃない?」
私は頷きながら思い出していた。そうだ、私は見知ってはいたが、名前なんて知らなかった。誰のことだって。
私が勝手に名前をつけたオースティン、もとい、リアンは、屋敷中を探検し、特にこの部屋に忍び込んで、こそこそと歩き回っていた五人の子供達の一人だ。みんな、仲が良かったはずだけれど。
「そう、です、・・・けど」
リアンの目が驚愕に開く。自然と怯える様な敬語になる。それに気づく間もなく、私は考え考え、続けた。
「この家の子は、えーっと、つまり、長女のメアリ、ええと、・・・エリザベス、長男、次女よね? 一番下の子はまだナニーがついてたわ。長女は、侍女が二人だったけど、一人侍女がジョブチェンジして、二年前くらいに新しく侍女が来てる」
リアンが言葉を失っていた。私はリアンをじっと見た。
「あなたは・・・エリザベスと仲が良かったはずよ。でも・・・途中から、あなたじゃなくなった。いいえ、そうね、結局は、みんな仲が良かったわ」
「リズは・・・兄のアーロンと婚約しています」
リアンが掠れた声で言った。私は納得して頷いた。
「ああ、ブランドンはアーロンというのね」
そして、さらに思い起こしていた。リアンを見て思い出すこと。ああ、なかなか思い出せないけれど。
「・・・妹さんが一人いる? まだ小さくて、ここにはあまり来たことがないような」
だから、私は名前をつけてない。でも、朧げに思い出してきた。リアンを見ていたら、彼にまつわることは思い出せるような気がしてきた。
「あなたは何で知っているのですか?」
リアンが困ったように質問をしてきた。
「何を?」
「僕たちのことです。僕より年下に見えるけれど、・・・年上のような話し方をして、」
「あら、ごめんなさい」
何から話せばいいのだろう。
「でもあなた、私の名前を知っているじゃない?」
「あなたの・・・名前・・・?」
「最初に、どこから来たのかと聞いたわね。私はここから来たの」
私は鏡を指差した。
「私はずっと、この中にいたわ。何年いたかしら? あなたのずっと昔のご先祖、デイヴィッドを知っていて?」
「あ、はい。よく存じております」
「信じてもらえないかもしれないけど・・・私はデイヴィッドの姉、ソフィアなの。部屋の名前がソフィアなのは当たり前ね。だって私の部屋なんだもの」