136 目覚めたのは
ベッドの上で、リアンが目を開けた。
「……ソフィア!」
私を目にしたリアンは、ガバリと音を立てて起き上がった。
「っつ、」
「リアン、あなた怪我してるのよ。まだ治っていないのだから寝て……」
「大丈夫なのか、ソフィア? 怪我はないか?」
言いながら、リアンは私の腕をとり、確認するように自分に引き寄せた。
「頬は? 顔をもっと見せてくれ、ソフィア……あぁ、大丈夫そうだな。とても美しい」
私の頬をゆっくりと撫でるリアンは、ホッとしたような笑顔を浮かべている。だが、私はリアンが元気なことにホッとする間もなく、ただ唖然としていた。
「どうした?」
どうしたもこうしたも。いつも遠慮がちで丁寧で、なかなか距離を縮めてこなかったリアンが。ものすごく近い。
「リアン、おま……、一体どうした、頭もやられたか?」
「いつも礼儀正しいお前がどうした! 恐れ多いとか言ってたじゃないか?」
キースとアンソニーがぎょっとしたように口を揃えてリアンに尋ねた。リアンはきょとんとしている。
出会ったばかりの時、私はリアンに敬語をやめるように言ったけど、結局二年、直してもらえなかった。それなのに……
「リアン……大丈夫?」
私は思わず顔を覗き込んだが、リアンは不思議そうに私を見返した。
「なんのこと? 確かに怪我は痛いけど……ソフィアが無事なら問題ないよ」
「それは……ありがたいけど……」
なんて言ったらいいのかしら。むしろやめてくれと言ってたのに、変わって違和感だとか申し訳なさすぎる。でもあまりに急で、何かあったのかと……
「言葉遣い、ようやく直してくれたのね」
「当たり前だ。僕はあなたの夫になるんだから。いつまでも距離を置いておくべきじゃない」
だからってなんでこのタイミング?
そこで私はふと思いついた。
……もしかして……
「ずっとそう思ってた?」
「思ってたよ。でも、君を前にすると、どうしてもできなくて……逆らえなかった」
すると、ピンときたように、アンソニーが私に目を向けた。
おそらく、そう、呪いだ。鏡の呪いがかかっていたんだ。もしくは、リアンにとっては、私自身が呪いそのものだったから。
願いをかけた人に、願いを叶える人。
ずっと私たちはそういう関係だった。願いが叶った後も、鏡に魔力がある限り、私自身がリアンの望みを叶える存在であり続けたのだろう。でも、呪いの元がなくなれば、その効力もなくなる。
つまり、やっぱり、成功したということなのかしら。
「でも、ようやくできた。僕にも自信がついたってことかな。あなたに愛されてるって」
嬉しそうにリアンは目を細めた。
「だってそうだろう? あなたはここに残ってくれたんだから」
私は微笑んだ。
ここに残ることができたのは、私の意志ではない。鏡の呪いがなくなったから、リアンの願いを叶える呪いも消え去ったと考えるのが妥当だ。つまり、私自身が”呪い”ではなくなったということ。私は鏡から本当に解放されたのだ。
「だからと言って、あまり意地悪しないでね。私にはあなたしかいないんだから」
「するもんか。それとも、して欲しいの?」
「まぁ、意地悪ね」
私の言葉に、リアンが笑った。そして、ふと真面目な顔になった。
「僕の願いを叶えたことを、後悔してる?」
「後悔?」
「あなたはあの時、僕に逆らえなかった。僕の願い事は命令だったと、そう言ったね」
「え……えぇ」
アンソニーが眉をしかめた。えぇ、そうですとも。言ってはならないことを言いましたとも。
リアンは考え込む仕草をしながら、視線を彷徨わせた。
「そうしなければならない理由があった。……考えれば、僕の誘いを断ると、あなたは決まって具合を悪くした。僕は少しいい気味だと思う時もあった。でも……それは僕のせいだった。僕の願いは君を不幸にする」
「リアン、やめて」
私は慌てて制した。そんな風に思われるのは心外だ。私に執着してしまったリアンの方がよっぽど不幸だと言いたい。
リアンは視線を私に戻した。
「それは、今でも? あなたをここへ戻したこと、あなたを愛したこと、僕のしたことすべて、あなたにとって、不幸でしかなかった? 僕の幸せは、あなたの不幸の上に……成り立っている?」
なんてことを言うの。私は不安そうな眼をしたリアンの手を、ぎゅっと握った。
「いいえ。私は幸せよ……あなたの願いを叶えることは、とても嬉しいし、あなたの願い事は、私ができることなら、なんでも叶えたいと思うわ。でも……その……鏡に縛られていた時は、それが私自身の気持ちなのか、ただの呪いなのか、わからなくなってしまうことはあった。”叶えなければならない”から、あなたの願いを叶えたいのなら、あなたの願いをすべて叶えたら、私はどうなってしまうのかと……怖かったわ」
「ソフィア……」
「私があなたの願いを叶えるために、あなたのそばにいるのなら……あなたの願いを叶えた後、私はどこへ行けばいいの? いつまでも”伝説の令嬢”として甘えるわけにいかないわ。あなたがここへ戻してくれたとしても、それだけの関係だもの。あなたが誰かと結婚することになれば、それこそ、私はそばにいられなくなる。リアンにとって必要なのは、あの時の窮地を救うための”救世主”で、私個人ではないのだから……そう思って、自分を納得させていたの。リアンの優しさは義務感で、いつか、それはなくなるんだって。自分に言い聞かせてきたのよ。そうすれば、少なくとも覚悟はできるから」
リアンが私の手を優しく包み込んだ。リアンはいつだって、私に言葉を尽くしてくれたのだから。私には伝えなければならないことがあるはずだ。リアンに事情を知られたくなくて、飲み込んできた言葉を、伝えたかった言葉を。
「でも、本当は、リアンがいないなんて、考えたくなかった。……そんなこと、考えられなかった。だから、叶えたいのか、叶えたくないのか……わからなかった」
「つらかった?」
「いいえ。不思議とつらくはなかったわ。みんな優しかったし、……アンソニー様もキース様もあなたを心配してとっても親切だったから」
「二人とも……ソフィアの事情を知っていたのか?」
リアンがアンソニーとキースに顔を向けた。事と次第によっては、随分と面倒になりそうな予感がする。
「ん? いや、うーん? どうだろう、知っていたかな、キース?」
察したアンソニーは曖昧に答え、キースに顔を向けた。
「僭越ながら、殿下のことは私の口からは申せません」
「あ、逃げたな」
「それとも、すべてお伝えした方がよろしいでしょうか?」
キースがにっこりとアンソニーに微笑む。
すごいわ。キースは自分のことは話題にならないように巧みに避けてる。私は感心してしまった。でも、確かにそうだろう。私の部屋の使い方は知られてしまったけれど、キース本人が同様に情事に使っていたことをリアンに知られたら……いろんな意味で怒られると思うし、正直、あまり良い結果になるとは思えない。
「後で二人にはいろいろ聞かないとならないな」
リアンが二人に軽く睨みを利かせると、二人は危険を察して部屋から逃げるように出て行ってしまった。
彼らは悪くない、と私がかばったところで、余計に悪化しそうな気がする。私の事情はどうあれ、それぞれリアンと友情があって、そのあたりの関係性はまた別のことだ。それでもやっぱり。
「……二人とも、私のわがままを聞いてくれたのよ。リアンには伝えるべきだって言ってくれてたのを、私がやめて欲しいって言ったの。リアンのためになるからって。二人とも、あなたのためを思ってるのよ」
「……わかってるよ」
ムスッとした顔で、リアンは甘えるように私を見た。
リアンの視線の先に、私がいる。
リアンの願いを叶えたら、消えるかもしれないと思ってた。そして今回、魔力から解放されたら、私の姿は同じように消えて、なくなるんだと思っていたのに。
私はまだここにいる。
つまり。
「私の寿命はまだ尽きてないってことね」
「何言ってるんだ? 僕との約束はどうなる? 生涯を共にしてくれるんだよね?」
「そのつもりだけど……」
どうしていいのかよくわからなくなってしまった。だって、リアンはリアンだけど、リアンじゃないんだもの。
「これからだよ、ソフィア。僕たちはこれからなんだから」
「私でいいの?」
「君じゃなければ、意味などないんだ。もう何度も、そう言ってる」
そう……だったかしら?
私は半信半疑でリアンを見、その視線が以前と変わらないことを認めた。それと同時に、リアンに言われたことが蘇った。
『いつだって、過去だって未来だって、あなたのいない人生は僕にはありえないんです。例え書物の中だけでも、こうして目の前にいても、夢の中であっても、それでも、愛するのはあなただけです』
「もう一度言ってくれる?」
「何を?」
「”いつだって、過去だって未来だって”、……私のいない人生はリアンにはありえないっていう話」
「な……何を言ってるのか……」
「”例え書物の中だけでも、こうして目の前にいても、夢の中であっても、それでも、愛するのは”」
不意にリアンが私の口元を指で押さえた。そして、何か言いたそうに私を見つめた。
何で覚えてるの? と言いたげだ。それならもう一度言う必要なんてないじゃないか、と。
私は微笑んでリアンに抱きついた。
もちろん覚えてるわ。だって、そんな風に言ってもらえるなんて思わなかったもの。すごく嬉しかった。でも、まだ信じ切れてるわけじゃない。あの時と今では、私たちは違うもの。
魔力から解き放たれたリアンが、呪いに縛られていない私に言ってくれるなら。
その言葉ならきっと、本当の言葉だと信じられるわ。
第十八章、終わりです。
十九章はソフィアの部屋の話です。