112 本当の願い
……おかしい。
私とリアンが離れると思っているのは、私とリアンだけだってこと?
「僕はあなたに会いたかったんです。ずっと会いたくて、初めてあなたを見たときにわかりました。僕にとって必要で、なくてはならない人だって。あなたは僕の前からいなくならないと約束してくださった。だから、本当は、いなくならないで欲しいんです」
そこまで言って、リアンは深く息を吸い込んだ。
「すみません。少し、酔いました」
虚ろな目でリアンが言った。もうこれ記憶なくなってるんじゃないだろうか。
少しどころではなさそうだけど、そこはまぁ、酔っ払いだから。私は無言で頷いた。もしかしたら、明日の朝は覚えていないかもしれない。あのブルータスの様子からすれば、可能性は高い。ここは聞き流しておくべきか。
でもいつもは、こんなに飲んだりしないのに。やっぱり、お見合いが自分目当てじゃないのが、辛かったんじゃないかしら。
私は首をひねった。
それとも、今言ったことが本心なら、私のせい? リアンはいなくならないで欲しいと言っているけど、本当はいなくなって欲しいとか。目障りなのかしら? でもだったら、本心をさらけ出している今、私がここにいたら、具合が悪くなるはずだけど、ならないから……やっぱりここにいていいの?
「僕が最初、何を思ってあの鏡に願いをかけたかご存知ですか」
不意に話が変わり、私はふと現実に戻された。慌てて返事を考えて、その場をごまかした。
「えっと……『誰でもいいから……できればあのソフィアで……支えのいなくなった”僕”のそばにいてくれる人が欲しい』?」
「僕、そんな風に言いましたっけ」
「あら。じゃ、えぇと……『”ソフィア”が、”僕”が元気になるまでそばにいて、ノアの支えになる人になりますように』?」
すると、リアンはふふふと笑った。
「僕はそんなに、人のために願えませんよ。すごく、利己的なんです。あなたの気持ちだって、何も考えていなかった……」
「私の気持ち?」
「そうです。僕は、僕だけのために、あなたを願ったんです」
どういうこと?
私は頭をひねりながら、リアンに向き直った。
「リアンは、鏡の中に閉じ込められた”ソフィア”が自分の目の前に現れるように、って願ったのよね?」
「そうですよ」
「それで、その人が、リアンが元気になるまでそばで見守って欲しい……んじゃなかったかしら」
リアンは私の言葉を否定も肯定もせず、手元を見つめた。
「もっと軽い気持ちでした。一生懸命だったかといえば、嘘になります。いろいろうまくいかなくて、疲れて、投げやりになって、弱気になって……僕はそのために、あなたを呼び戻した」
ドクリ、と私の心臓の音が耳に響いた。
「”そのため”に? 私を?」
もしかして、それがリアンの一番の願いなの?
「それは……今も変わってないの?」
「変わっていません。むしろ、強くなりました」
「一体……何?」
私は息を詰めて答えを待ったが、リアンは気を取り戻すように頭を振った。
「僕の戯言など、忘れてください」
「そんなの、無理よ! 私はあなたの願いを叶えたいの。むしろ、そのために私がいるんだから。どうしてそんなに、本当の望みを教えてくれないの? 私にして欲しいことがあるんじゃないの?」
「言っても……いいんですか?」
「もちろんよ」
この機会、逃してなるものか。
すると、リアンがすぅと息を吸って、目を瞑った。
「僕は……あなたが、ソフィア、あなたに……僕の生涯を支えてほしいと、そう願ったんです」
「私?」
思わず聞き返すと、リアンはうっすらと笑った。
「えぇ。ですが、あなたは義理堅い人だから、僕がそんなことを言えば、自分の気持ちを押し殺して、僕に恩返ししようとしてくださるはず。そして、……信頼していただいていたのに、それを裏切ることになってしまいます。だから僕は、……僕は、言えないんです。あなたに生涯を支えてほしいなんて、僕だけの気持ちを押し付けるようなことは……できない……」
嫌われたくないんです、とぽつりとリアンが声を震わせた。
今度は泣いている。忙しい人だ。
私はリアンの席の隣に座り直し、リアンの肩に手を置いた。
「忘れてしまったの、リアン。私がなんのためにここにいるのか。あなたの願いを叶えるために、やってきたのではないの? だから、あなたの望みなんて、いくらでも言って構わないのよ」
「いいえ、もう願いは叶っているんです!」
「……叶っているなら、どうしてそんな顔をしてるの?」
すると、リアンは合わせた私の目に吸い寄せられるように目を細め、ぶるりと身震いをして目をそらした。
「独りよがりで、くだらないわがままです。幻滅……なさります」
私は無性に腹が立った。リアンにも、自分自身にも。
「前にね、あなたは、私に失望したことがないし、するとも思えないと言ってくれたでしょう? 私も同じよ。リアンがどんなことを言っても、私があなたを嫌うはずがないわ。ええ、あなたを嫌いになるとは思えない。なぜ幻滅すると思うの?」
「でも、」
リアンが戸惑うように私を見た。リアンにそんな顔をさせたいわけじゃないのに。
なんでもいいじゃない。躊躇する必要なんてない。なんでも私に願えばいいわ。私の生涯を、どういう風にリアンに使えばいいの? そんなに私が嫌がりそうなことなの?
「本当は私をどうしたいの? 無一文で放っぽり出して、私がどうやって生きられるのか実験したいの? 下働きとして虐待するほどこき使いたいの? 家に閉じ込めて欲望のまま愛人にしたいの? 最後のはちょっと……びっくりするというかなんというか、ちょっとショックというか」
どう対応したらいいのかわからないというか、どういう性癖なのか問いたいというかなんというか。
「まさか! そういうことではありません。言ったでしょう……僕は、……あなたの一番近くにいたいんです、ソフィア。ですが、あなたは僕のお人形でも憧れの肖像画でもない。生きた人間で、意志があって、選ぶ権利がある。だから、なかったことにしなければならないんです」
リアンの声は、ひどく低く、穏やかで、優しかった。私は思わずリアンの肩に置いている手に力を込めた。リアンはそれでハッと気がついたように、私から顔を背けた。
「でもダメなんです。会う時間が長くなるほどあなたに惹かれてしまう。だから時間も減らしましたし、あなたのお見合いをセッティングして、自分で他を探そうとして……でもあなたに避けられてしまえばひどくつらく、会えばそれ以前より惹かれて、どうしようもないんです。誰にも渡したくないと思ってしまうんです。あなたが誰かと結婚するかもしれないと思ったら、気が狂いそうです」
そう言うと、リアンは私ににっこりと笑いかけてきた。青ざめて具合が悪そうで、笑顔に無理がある。冷静なのか興奮してるのか、さっぱりわからない。
ただ、なんていうか、……時折、リアンが苦しそうにしていた理由がわかった。私が原因であったけれど、私のせいではないのだ。これは私にとって朗報だ。
私はリアンに迷惑ではないんだわ。
「驚かれましたか。後見人として、あるまじき感情ですから……軽蔑なさったでしょう」
私は慌てて首を横に振った。リアンはそんな私を見て、ふっと頬を緩めた。
「あなたが鏡から出てきた瞬間、……あの時に、この夢は諦めたはずでした。あまりに愛らしくて美しくて、凛としていて……誰にも見せずに、すぐに僕のものにしたかった。でも、そんなこと、できないと、すぐにわかりました。だからあのバルコニーで、再度自分に言い聞かせました。あなたは”伝説の令嬢”で、僕のものにはならないと。あなたを守ると」
それじゃ、リアンはニコラスフリークでも、”伝説の令嬢”フリークでもないってことなの?
「でも、一度だけ許されるのなら……幻滅しえないと言ってくださるのなら……望みを……」
言いながら、リアンは私を強引に引き寄せた。そして、私の手を包むように握り、唇が触れそうなほど近くに顔を寄せて囁いた。
「僕と……結婚してください」
リアンはうっとりするような眼差しで私を見つめ、私はその瞳に飲まれたように言葉を失った。
そして、頭の中に、ただ一言、鏡の言葉が蘇った。
『”その機会を逃すな。必ず叶えろ”』