101 再び響く声
目が覚めたのは深夜で、部屋は静まり返り、月明かりもか細かった。
夢……何だっけ、鏡が……
考えたが思い出せず、私はもそもそと起き上がった。
そう、鏡のことよ。何はともあれ、鏡なんだから。
ベッドの下に手を突っ込むと、固い本の手応えがして、私はホッと息をついた。逆さまになって覗き込むと、書庫から無断で持ってきてしまった本が積まれているのが見えた。
私は本を一冊ずつ引き出してベッドの上に広げ、バラバラとページをめくった。五冊ほどを、前回読んだ部分から始め、少しずつ斜め読みする。
せめて、呪いの鏡への、願いのかけ方の仕組みについて、記述を見つけられるといいんだけど。
私は考えながら読み進めた。起きる直前まで見ていた夢の影響か、少しイラついていた。選ぶって何をだろう。鏡の中に戻ること? 鏡に依存すること? 呪いを甘んじて受けることなら、私は選んでいるけれど、それはどちらも不可抗力で、そこには決して、意思はない。
「あー、どこなんだろ」
私は読み終わった一冊をベッドの端に軽く投げた。
影響は書いてあるけれど、具体的なことは書いてないものばかり。
でも大きな願いを叶える鏡は自ら話すことができる、と書いてあるのは共通だった。他の術具にはあまりないことらしい。だからこそ、この中に誰かいるのではないかと言われてもいるようだ。鏡の向こうの世界、とか。
誰かって誰よ。
私は鏡をちらりと見たが、人がいるなんて考えたくない。かといって、あの時、鏡そのものが話していたかと言われれば、人がいてその人が話していたと考える方が納得がいくけれど。
あの時、私はどうやって鏡に願い事を言ったんだっけ。鏡を拭いて、ううん、鏡の枠を拭いたんだったかしら。
ふとまた目を向けると、鏡がキラキラとして見えた。
もしかしたら、話しかけたら答えてくれるのでは?
私は立ち上がり、鏡に近寄ると、恐る恐る手を伸ばして鏡の縁に触れた。冷たい。
「……鏡?」
私がつぶやくと、鏡はかすかに煌めいた気がした。
”願いを叶える話はどうなった”
うわ。返事した。
「頑張ってるわ」
私は言いながら、ホッとしているのを感じた。ようやく話せる。でも一体、何を?
”自分で気がつかんのか。とっくに、答えは出ているというのに。あとはお前が当てるだけだ”
「何……? すでにわかってるっていうの?」
”だと見受けられるが。それとも、お前だけの話か?”
「私……?」
”では聞こう、お前がしたいことは何だ?”
私のしたいこと? それは……、それなら、確かにずっと思ってきたことがある。だけど、
「本当に……望んでいいことかわからないわ」
”この”呪いの鏡”の前で、それを言うのか?”
確かに。望んではいけないことでさえ叶えてくれる、それがこの鏡の原点だったはずだ。
私は意を決し、鏡を見つめて言った。
「呪いの鏡を……なくしたいの」
すると、かすかに鏡が笑った気がした。その人間臭さに、私は少し身震いした。
”……それが望みか”
「あなたをここに置いていてはいけないと思ってる。私が出てきたことで、あなたは”伝説の象徴”から、”魔法道具”に成り下がってしまったのだから。あなたを置いて、私は先を歩めない。ここでの人生を終わらせることなんて、できない」
”そう思いつめるな。我を置いておくと、いいことがあるぞ。願いが叶う。それに、我を壊したところで、今までの呪いは解けぬ”
「もちろん、鏡が壊れたところで呪いは解けないけど、少なくとも、これ以上呪われる人はいなくなるでしょう」
”今後、助かる人間がいるかもしれないというのに?”
私は頷いた。
「ノアのように助かる人もいるでしょうね。でも、それよりももっと、私のように不幸になり、そしてそのために呪われた司書さんのような人がいるのでしょう。これ以上、犠牲は増やしたくない。そもそもなんで願った方が呪われるのか、そのメカニズムがわからない。鏡、あなたは誰かを恨んでいたの? 憎んでいたの? だから鏡から呪ってるの?」
”我は鏡だ。相手の心を反映するのみ。我に意志はない。もうお前の願いは叶えなくていいのだな”
「私自身の願いなんて、……叶えたいことなんて、ないのよ」
リアンが幸せになれるなら、それが私の願いだ。
「もちろん、願い事は、リアンの呪いが解けることよ。一番の願い事を叶えるまで、鏡と繋がってしまう、その縁が無くなって欲しい。でも、それはできないのでしょう?」
”確かに、それは無理だ。だからこそ、お前はその願いを叶える存在だ。そしてお前は、叶えてやりたいのではないのか?”
私は俯いた。鏡は鏡。否応なく、私の心を映すのだ。そして私は、取り繕うことができない。
「でも……わからないのよ……それに、リアンの願い事なんて、叶わなくてもいいの。知らなくていいのよ」
”なぜだ?”
鏡の問いに、私は答えられなかった。それは私のエゴだから。
”まぁ、我もいい加減、充分に職務を全うした気がする。そもそも、百年は何もしていながな……お前をいさせるだけで、つまらん百年だった”
「でも平和だったでしょ?」
”それが好みとは限らん”
「それじゃ、戦いが好きなの? 人の願いを叶えたいの? そうは思えないわ」
”無論、叶えたいわけではない。そもそも、人の願いには興味がない”
「それならどうして……」
”それは我がそのように作られたからであり、意志を持つものではないからだ。呪いが反映されるのは鏡だからであって、そこに意志はない”
では、話すことができるのは、やはり、魔力が多いというだけの”能力”で、人が犠牲になったわけではないのだろうか。私は疑問に思いながら、ため息をついた。
「そうなの……私、誰かが中にいて、その人が意志を持って願いを叶えているのだとばかり」
”意志があったなら、全ての願いを叶えることなどしない。どちらかに偏るものだ”
確かに。そういえば、他の魔法書に書いてあった。だから、中に人がいる説に賛否があるのだということも。だとしたら、どういうこと? いるの? いないの? 鏡は、なんなの?
「でも、それなら、なぜ……私の質問に答えてくれるの? 意志がないのなら、そんなことできないはずよ。願いを叶えるのは鏡の”仕事”で、そこに感情を挟むことはできない……でも、それ以外なら、……鏡と繋がって呪われた私なら、あなたの”意志”で話ができる。そういうことなんじゃないの? それなら、中に……誰かがいると仮定しても、不思議はないわ」
そうだ。鏡はただの”魔力の集まり”じゃない。意志のある”魔力”だ。それは結局、人の意識に近いもの。その存在を知らなければ、できないことなんじゃないかと私は思ったのだ。
”ならば、その仮定を言ってみるが良い。”調べたのだろう、”伝説の令嬢”よ。我がどのようにして出来上がったのか、記述はなくとも、仮説は立てられるはずだ”
「あなたに言ったところで……合っているかどうかわからないでしょう?」
”我に記憶はない。だがこの鏡の中に記録はある。今のお前の望みは、我が叶えることができない。お前の望みを叶えるには、お前自身が全てを解明する必要があるからだ”
「私が……解明する?」
”そのために、我が『それ』を望んだものに、方法を伝える。お前の仮説が必要だ”
鏡の言う『それ』とは『呪いの鏡をなくすこと』だ。”方法を伝える”ということは、鏡は破棄の方法を知っているということになる。最初から。
最初から?
鏡を作る時、この状況を予想していたということだろうか? 誰かが切実に、この鏡にそう願うことを。誰かが鏡をなくしたくなることを。そうやって作るものなのだとしたら、破棄についての文献がないのは当たり前だ。答えはすべて、鏡の中にある。
”さぁ、仮説を”
鏡の声の、抑揚のない響きが広がった。それ以外を許さない強さがあり、私は心を決めて口を開いた。
「あなたは……かつて人だった……」
言いながら、私の背筋に冷や汗がじわりと吹き出た。
言うのが怖かった。言ったことが合っていたら、鏡に殺されるかもしれない。もしくは、間違っていたら。それだけの力を持っているのは、実証済みだ。
「人で、……魔法使いで……、強大な力を持っていた。だから、この鏡を作ったの。でも、だから、……だけど? 望まれた”鏡”の能力には、とにかく強大な魔力が必要だった。そこらにある力だけでは足りず、何人もの犠牲が必要だった。でも、そんなに犠牲があったような事件は、これまであったことがないから……もしかしたら、その誰かの、たった一人で足りたかもしれないわ。鏡を作った魔法使いの魔力、すべて使ってしまえば、作ることができるような……そんな鏡だった。犠牲が一人なら、秘密で作ったのなら、事件にならずに、あなたを作ることができる。だからきっと、あなたは誰か一人の”魔力”でできている。だから、その言葉は、……魔法使いの意志を継いでいる。私は、そう仮説を……立ててるの」
私は話し終え、言葉を切って鏡の言葉を待った。心臓がバクバクと音を立てている。まさか、何も言われずに命を吸い取られるとか、そういうことはないよね?