さようならわたし、はじめまして私
ーー少女は、眼が覚めるとただそこに居た。
ここは、何処なんだろう。私は、誰なんだろう。
いくら考えたところで何も分からない、何も思い出せない。
家族という言葉や、その意味は知っている。
でも私は、私の家族について何も知らない。
私に妹や弟はいたのだろうか。
分からない
私の親はどんな人なのだろうか。
やはり分からない
友達とは、何だろう。
表面上の意味は知っている。でもただ言葉の意味だけを知っている事に意味などあるのだろうか。
私の中に思い出なんてものは何処にもない。
ただ空っぽで、何も出来ない人形みたいだ。
当たり前なんて何もわからない。
でも分からないから何なのだろう。
私の脳がさっきまで必死に理解しようとしていた意味が分からない。
私が今までの《わたし》である必要はあるのだろうか。
というか私自身は、《わたし》を知りたいのだろうか。
そもそも《わたし》の人生なんて存在したのだろうか。
それすらも分からない。私は、《わたし》が分からない。
今唯一自分の中にあるこの抑えきれない何かの正体すら分からない。
ーー分からない。分からなければ何も分けられない。
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少女の眼から溢れ、頰を伝って落ちていく何かが手の甲に当たる。
視界がぼやけて何も見えない事が怖くて目を擦った。
ただ、本能的な行動で動く少女の中に渦巻いているたくさんの無理解。
自分自身の感情すらまともに分からない少女にとってその答えを出そうとする事は余りにも難しく、自分の存在意義自体理解できず呆けている。
そんな時、一筋の春風が吹いた。
風に頬を優しく撫でられ、ふと少女が顔を上げると、眼下には色鮮やかな町々の景色が広がっている。そして座っているベンチの周りには、淡紅色に染まる桜の木々が並立していた。
少女の中を渦巻いて心を蝕んでいた何かが少しずつ消えていく。
自分の事で頭がいっぱいで見えなかった景色が見えてくる。
少女は、表現できない感情に包まれていく。
答えを出すことを諦め、少女がその景色を眺め初めてからあっという間に数時間が経った。
少女は、何も考えずに居られるこの場所に、心地良さを覚えた。
ーー午後二時を少しほど過ぎた頃。
後ろから誰かを呼ぶ男性の声が聞こえる。
その声は、呟くような大きさで、不安そうに震えていたので正確には聞き取れなかった。
この場所には、少女しか居らずその声の主以外、誰も来ていないはずだ。
恐らく、自分のものである筈の知らない名前。その名前を呼ぶ声がした方向に少女がゆっくりと振り返る。
数メートル先に一人の青年が立っていた。
これが声の主なのだろう。
期待と不安の眼差しを少女に向けているその青年の姿は、十八、九歳くらいで、少し不健康そうな顔色。ボサッとした黒髪と、整った眉につり上がった眼、体型は中肉中背といった、良くも悪くも印象をあまり受けないものだ。
だが少女は、その青年と二人でここにいるその状況に、何故か前にも遭遇したことがあるような、そんな不思議な感覚を味わっていた。
自然に顔の筋肉が緩まっていく。先程同様自分の中に渦巻いていた何かが何処かへと消えていった。だがその理由が少女には、まだ分からない。
しかし、だからこそ少女の頭の中で渦巻いていた何かに代わって、今はこの不思議な感覚について理解したいという気持ちが芽生えていた。
そして疑問を生んだ張本人に解を求めるようにその気持ちをぶつける。
答えが知りたくて少女の口から溢されたたった。ただそれだけの一言の質問。
「あなた誰?」
なのにその一言を受けた青年の顔色が少女にとっては思いがけない程、一気に変化していく。
期待が顔から消え失せ失望のみがその表情を形成している。目が虚になり、口を固く結んでいる。
何故青年がそんな顔をしているのか、少女には何も分からない。
只その少女は何も憶えていないだけだった。
自分が欲している答えも得られないまま、少女は青年が顔色を変えた理由を考えようと、頭を傾げ眉を寄せる。
青年はその姿を見やると、一瞬戸惑いの表情を見せていたが今はそれを上書きする様に明るくニッコリと笑顔を浮かべ、両手を自分の顔の前で合わせて頭をしゃくり
「ごめん。人違いだったみたいだわ」
と、先ほどの発言を遅ばせながらも撤回した。
少女の方に向き直り少女だけに向けられていたその顔は、とても不自然なものだった。
普段笑わない事で固まった表情筋を無理矢理引き上げて作られた、下手くそなその笑顔は、とても歪だ。
後頭部に右手を当てて『ははは』と感情のこもっていない笑い声が口から零れだす。
青年の目の前の少女がますます首を傾げている。
ーー気持ち悪い。
青年の心の中がその一つの気持ちで支配されていく。
気持ち悪い。
心にも無い笑顔で相手に悪印象を抱かせないように必死で浅ましい自分が。
気持ち悪い。
自分が傷つかないために目の前の少女を平気で騙そうとする姑息な自分が。
気持ち悪い。
答えが出ている筈なのにそれから逃げようとする諦め切れずに一つに固執し続ける自分が。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
目の前の少女にーー、《あいつ》に会えれば、何かが変わると信じていた。そんな自分が馬鹿みたいだ。
誰かが変えてくれるのを待っていた。自分で何かを変えたかった。でも変えるのが怖かった
『また大切なものを失ってしまうんじゃ無いか』
そう考えるだけで自分の答えなんて何処かへと消えていった。
求めるものなんて何もない筈だった。
なのにーー今も目の前の出来事を現実として受け止めようとせず、必死で少女を騙し、幻想を諦めようとしない。そのくせに、何も変えたくないと現状維持を求める自分に嫌気がさす。今だって目の前の少女に自分のことを認めてもらいたい気持ちが溢れてくる。
いつもなら、逃げて楽な道に行って、嫌なことから必死に遠ざかる。それで終われる。
なのにどれだけ遠ざかろうとしても頭の中で少女の答えを求めている気持ちが消えようとしない。
普段なら消えてくれる筈なのに、今日は逃げ切れない。目の前の真実が逃げ道を奪い、見たくない現実を見せてくる。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
乾いた笑い声が加速して、響き続ける。
そんな声を遮るように、ドサっと何か大きなものが落ちる音が鳴る。
目を向けると少女がベンチから落ちて地面に倒れこんでいた。
肝を冷やすような感覚が青年を無理矢理正気に引き戻す。
咄嗟に少女に近寄り抱える。そのまま肩をゆすり叫ぶように言葉を投げかける。
「おい、大丈夫か? 返事しろ!」
グゥゥ〜と、頼りのない音が少女のお腹から鳴る。
「お腹すいた……。何か食べたい」
お腹を抑える様に手を重ね声を搾り出した少女が力尽きる。
青年、水仙は、呆れてまた笑ってしまう。
だがその笑いは先ほどとは、違う感情がこもった笑いだった。心は、まだ求めている。
水仙はひとまずは自分自身を責め立てる事より、先に目の前の少女の為に動こうと決心した。
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先程まで死にそうだった少女がファミレスのテーブルいっぱいに並ぶポテトやピザ、パスタ、ステーキ、などに、キラキラの視線を送っている。
最後に届けられたパフェと共に置かれた伝票を確認した水仙は、心で泣いていた。
「今月の課金は、控えよう」
ポテトやピザを口一杯に頬張る姿は、まるで子供のようだった。
喉を詰めて慌てている様子が微笑ましい。
必死に胸を叩いている。
やれやれと水仙が少女に、水を渡す。
水を一気に飲み『プハーッ』と息をつく少女に、タイミングを見計らい注意する。
「お前な、もう少ししっかり噛んで食えよ」
「だってご飯、食べたの初めて?だから」
水仙の頭に疑問符が浮かんだまま消えない。
「それってどういう事だよ」
唾を飲み、前のめりになりながら少女に問いかける。
食い気味な水仙の態度を物ともせず少女は、顎に指を当てながらゆっくりと話し始める。
「んー?なんて言うべき?私記憶がない。全部ない。何も覚えてない。だからご飯の味もあんま覚えてない。でもポテトとかピザが美味しいのは知ってた」
カタコトで衝撃発言をした後、何事も無かったように再び食事を始める少女に対し、水仙は開いた口が塞がらず唖然としている。
水仙の頭の中で色んなものが交錯する。
「じゃあお前、名前とか、どこから来たとか何にも覚えてないのか?」
「うん」
口いっぱいパスタを頬張りながら言外に興味がないと言うような返事をする少女。
彼女にこれ以上昔の記憶について深く聞く勇気が水仙には、なかった。
少女は、先程まで机いっぱいに並んでいた料理の数々をあっという間に平らげると、満足そうに微笑んだ。
そして何かを思い出したかのように鞄の中から長財布を取り出して、中に入っているお金を確認し、安堵の息を漏らす。
万札を一二枚財布から抜き取り『足りる?』と不安そうに聞いてくる少女。水仙はそれに対し得意げな表情を浮かべ、
「このくらい俺が出すよ」
と強がって見せる。すると喜ぶ様子もなく、またもや少女が首を傾げ、水仙に問う。
「ねぇ、なんで、あなたは他人の私をここまで色々助けようとようとしてくれるの?」
少女の嫌味など一切無い純粋なその言葉は、また水仙の弱点を的確に突く。だが今回は、青年の顔が決心したものへと変わって、
「似てたから……。お前が昔の親友に似てたから。だからなんか放って置けないんだ」
昔の親友と口に出した瞬間露骨に明るくなる水仙のその顔は、少女にとって初めて見る他意など一切無い心からの表情だった。
ーー格好つけて放って置けないんだ。と言い切ったは良いものの、手当たりがなければどうすることも出来ない。
ファミレスを出てから、少女の見覚えがある場所がないか一緒に探して歩いてみたが案の定なんの進展もなかった。
二時間ほど歩いたところで余裕そうな少女とは、裏腹に水仙の顔に疲れが出始める。
公園の自販機で、水分補給も含めた休憩を取る事にした。
ジュースを買うために青年が財布を出そうとしていると、お札が自販機に吸い込まれていく音がする。
「これで良いのかな?」
お金が飲み込まれていく様子を不思議そうに眺める少女。
「どうしたんだよ、お前もなんか飲みたかったのか?買ってやるぞ?」
「いいの!今はこれくらいしか出来ないからひとまずは、奢らせて」
「おっおう。ありがとな」
少女の素直な優しさに少し嬉しくなる。
ボタンを押し、スポーツドリンクを買う。
『ガタンッ』という音ともに、ジュースが出てくる様子に目を輝かせる少女。
水仙を真似るように、恐る恐るボタンを押し同じものを買う。出てきたジュースを取り、嬉しそうにベンチへと歩き出す少女。
「おい、お釣り忘れてるぞ!」
水仙がレバーを下げてお札と小銭を拾い、少女に渡す。
「あっ、ありがと」
物の扱いに慣れていない少女が取る行動全てが、水仙にとっては初々しくて面白い。
もそもそと財布にお金をしまう少女。
財布から覗く診察券に水仙は、驚いてしまう。
それは、昨日水仙が退院したばかりの病院の診察券だった。
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「すっ、すごい」
診察券に記入されている病院に向かうバスの中、窓越しに流れていく外の景色へと物珍しそうな目を向け驚いている少女。
新鮮味のある言葉の数々は、水仙を飽きさせない。
当たり前の事に反応する少女に思わずくすりと笑ってしまう。
それを見た少女がさらに笑う。そんな楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまう。
バスが病院の周辺の停留所に到着し、そこから歩いて目的地に着くまでの間、少女は見るもの全てに興味を示した。水仙がそれに一つ一つ丁寧に答えているとやがて、病院が見えて来た。
少女がおどおどしながら中に入る。すると白衣を着た一人の医者であろう男性が驚いた様子を見せたあと近づいて来た。
男性は、少女に近寄ると怪我がないかなどいろんな事を質問する。
外傷もなく意識がしっかりしている事を確認し男性は、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「ちょーじん先生、そろそろオペのお時間ですよ」
男性が、そっと近寄って来た看護師に耳打ちを受ける。
「あっうん、分かったすぐ行くよ。とりあえず君は、もうすぐ別の看護師さんが来るはずだからそこで待ってて」
そう言って、優しく少女に笑いかけると少しの甘い香りを残して医者の男性は、去って行った。
少女は、青年に先程同様に喋りかけようと横を見るが、そこにもう青年の姿はなかった。
ーー帰りのバスの中、水仙の中には色々な感情が混在していた。
少女は、本当に《あいつ》なのだろうか。
その答えから逃げるように病院を離れた。
自分の私情で少女にお別れを告げなかったことに多少の罪悪感も有る。
水仙は、あの少女と雑に別れたことを悔やんでいたが、それでもいいのかもしれないとも思っていた。
仲が良くなってもいつか別れる時が来るなら中なんて良くならなくてもいい。
でも、それでもまたあの少女に会えたなら、
「また今度、もし会えたら謝るか」
両手を上にあげ大きく伸びをする水仙。
水仙の顔は、笑っていた。
ここ数日で水仙は、感情を顔に出すことが多くなった。ただ、その事に当の本人はまだ気付けない。




