ゴブリン編 外伝 決断
あれからひと月ほどが経ち、見張りの小鬼との会話が多少成立するようになってからは同じ小屋で寝泊まりしている。最近では何となく小鬼の表情がわかるようになってきた。
あたしたちは小屋から出されて、小鬼たちの巣である廃村内を歩いている。
普段見張りをしている小鬼は、井戸の近くで大柄の小鬼と話をしていた。普段の生活水はあの井戸に頼っていたのかもしれない。
井戸の周りは広場になっており、そこから入り口に向かう道が続いている。道の周りには家が密集しており、その中でも大きい建物は宿屋として使用されていたのかもしれない。家々が密集しており分かりにくいが、村の外周あたりは空き地か畑になっている。そして森との境界あたりを、魔物用と思しき柵が囲っている。村を見て分かったが、小屋に持ち込まれたツボや桶はこの村に放置されていたものだろう。
「急に外に出してどうしたのかしら」
「私たちの健康を気にしているのか、はたまた他に理由があるのか。あの小鬼が考えることは全然わからないわ」
イヤンテはそういうと、村の中に視線を巡らせた。周辺を見渡しては口の中で何事かをつぶやき、また別の方向を見ては同じことを繰り返している。
「その井戸が水源なの?」
そんなイヤンテから離れて、井戸の近くにいたいつもの小鬼に話しかけた。
「うん」
「ふーん」
近づいてくるあたしを見ていたようで、特に慌てた様子もなく普通に返答してくる。ちなみに「井戸」という単語は今日広場に出た時に教えたものなのだが、すぐに会話に出しても反応できることに関して驚きはない。小屋で言葉を教えているときに経験済みだからだ。
「もう少し歩きたいんだけど、いい?」
「うん」
小鬼はそう返すと井戸から離れて視線を向けてくる。それから、少し廃村内を歩き夕方になると小屋に戻って、いつも通り三人で夕食を取り同じ小屋で寝るのだった。
そして翌日。
普段と特別変わった様子のない目覚めで、いつものようにあたしと小鬼はイヤンテよりも遅くに目を覚まし、その後小鬼は目をこすりながらツボを抱えて食事をとりに小屋を出る。
いつも通りの風景に一つだけ違うところがあった。
「あれ、普段あいつが持ち歩いてるやつよね」
「さっさとロープを切って逃げましょう」
あの小鬼は普段武器らしい武器を持っていないが、矢のような小さい投げナイフは持ち歩いておりそれが地面に転がっている。
「え、でももし捕まったら今度こそ犯されるんじゃない? 今はおとなしくしといたほうがいいんじゃ……」
「だったら一生ここにいるつもり? 今の状況がいつまで保証されてるかもわからないんだから、早く逃げるべきよ」
「でも、武器もないのに森を抜けるのは難しんじゃない」
「二人ががかりなら一角兎ぐらい殺せる。その角を、適当な枝にでも括り付けたら武器になるわ。わかったらさっさと逃げるわよ」
「う、うん」
内心では葛藤を抱えながら、逃走することを決断した。
自由のない生活ではあったが、あの小鬼は誠意をもって接してくれたうえ、会話が徐々にスムーズになっていくことへの喜びも感じていた。最初に想像していた小鬼による監禁生活に比べれば、今更逃走する必要に疑問を感じていたが、イヤンテの言うようにだからといって一生ここで生活し続けるのかといわれれば、やはりそれは難しいだろう。
そんなあたしの懊悩をよそに、イヤンテは小屋から少し顔を出すと周りを伺い、こちらに視線を向けると小さくうなずき小屋から出ていく。あたしもそれに続くと、村の中心とは反対方向へ進んでいく。
「なんで、すぐこっちに行くって決めたの?」
「昨日こっちの警備が厚かったから、きっと私たちにこっちへは行ってほしくないんだわ。街道につながってるのよ」
「あいつ結構賢いから、確かにそういうことしてそうかも」
昨日村を見まわした時から考えていたのだろう。さすがイヤンテ、ただ散歩していたあたしとは大違いだ。
『グギャグギャ、グギャァグギャギャ』
「やばっ、気づかれたみたい」
「森の中に逃げ込むわよ」
小鬼の声が聞こえるころには、村と森の境界あたりまでたどり着いており、すぐに森の中へと駆け込んだ。
森の中に入ると、小鬼の姿は捉えられなくなりただの木々が生い茂る普通の森が広がっている。
「どうする? 先に一角兎を探して武器を作る?」
「もう少し巣から離れましょう。今毒を塗られた投げナイフを使われたら、森を出られないわ」
「そうね、追ってくる小鬼がいても木を盾にしながら逃げたらいいわね。歩幅はこっちの方が大きいんだから、きっと逃げ切れるわ」
そんなことを話しながらしばらく森の中を進んでいると、あたりの木に剣で切られたような鋭い傷がついているのを発見した。
「これ、強い魔物の縄張りに入ったんじゃない?」
「……武器のない状況で進むのは危険ね。迂回して通りましょう」
しかしその相談をするのは遅かったようで、木々の間から刀角鹿が姿を現した。それも普通の刀角鹿に比べ、一回り大きい体躯と黒い毛皮を持っている。
「変異種……」
呆然とつぶやいたが、そんなことをしている場合ではないことをすぐに思い知らされる。
『ブルァァァァァア』
一部の魔物が使用する『咆哮』のスキルだと思われる嘶きを聞くと、足腰に力が入らなくなりその場に座り込んでしまう。
ダメだ、この状態から生き残れる想像ができない。ここで死ぬんだと思うと、小鬼たちにつかまった時以上の恐怖と絶望が沸き起こってくる。
黒い刀角鹿は、強者の余裕か慢心していないのかはわからないが、ゆっくりと座り込んだあたしたちに近づいてくる。まるで死そのものが迫ってきているようにも感じられる。下半身に水気が広がっているのがわかった。
「ひぃ、助けて」
魔物相手に意味のない命乞いが口から洩れた。
その緊張に耐え切れなくなり、意識を手放しそうになっていた時に事態は急転した。
黒い刀角鹿目掛けて矢のような投げナイフが飛来したのだ。その攻撃を受けて驚いたような反応をしている刀角鹿よりも、多分あたしたちの方が驚いていたと思う。
『グギャグギャァ』
いつもの小鬼だ。でも、なぜ助けに来たのかがわからない。
こんな絶体絶命な状況なのだから見捨てた方が安全なはずなのに、それでもなお危険を冒してまで助ける価値があたしたちにあるだろうか。
「後ろ、下がる」
あの小鬼がそう指示を出してくるが、お互いに支え合っているのがやっとでまだ動けそうにない。
『グギャグギャァ』
その間にもあの小鬼は、他の小鬼へと指示を出している。
その行動が刀角鹿の気を引いたのか、投擲物を無視してあの小鬼に向かって駆けだしたのだが、それを待っていたかのようなタイミングでロープのようなものを刀角鹿の足に絡ませて転ばせる。
そこからは一方的に投擲物で攻撃するような状況になった。もう一度『咆哮』を使われた時はひやりとしたが、それでも最後にはあの小鬼に刺された首の傷が致命傷となり倒れた。
普通では考えられないことへの驚愕と、あの小鬼ならそんなことも可能なのかもしれないという考えが同時に浮かんだ。刀角鹿の変異種ならば、C級冒険者と同じぐらいの強さを有しているはずだ。それをF級でも下位に分類される小鬼が集団とはいえ倒してしまうなんて、人に話せば酔った冒険者すら真に受けないレベルの低いホラ話だと思われるだろう。だけど、人間と言葉を交わしてしまうあの小鬼ならば、彼ならばそんなこともできてしまうのかもしれない。
そんなことを思いながら、配下の小鬼たちに指示を出す彼を見ていた。
「行く、帰る、選べ」
まるで夢うつつな心地だったあたしの目を見て彼はそう問いかけた。
「か、帰る。……帰ります」
「か、帰ります」
あたしとイヤンテはそう返事をするのだった。
あれから三日経ったが、村に戻って以来小屋を出ることはなかった。
以前と違い拘束されることはなく、逃走前に手足をつなげていたロープと柱から首に伸びていたロープはすべて外されて、鍵の付いていない小屋はその気になればいつでも出られる状態だった。しかし、もう一度森に入ると考えれば恐怖で足がすくんでしまうのだ。
なぜ一度逃走した人間を拘束しないのだろうか。
この三日間ずっと考えていたのはそれだった。村に戻って以来イヤンテは思いつめた表情で口をつぐんでおり、普段言葉を教えていた小鬼は食事を持ってくるだけで、さして喋らずに出て行ってしまう。相談できる相手も答えを聞ける相手もいないまま、一人で悶々と考えた。
あたしが誰かを捕まえて、拘束しないとするとどういう場合だろうか。相手が拘束していなくても逃げないと思った時などはする必要がないかもしれないが、一度逃げた相手をだからと言って拘束しないのは不自然だろう。そうなると、警備の人員を増やして、小屋から出たとしても逃げられないようにしている場合などはどうだろう。
それでもやはり、拘束を解くほどの理由たり得るだろうか、という疑問は湧く。であれば、逃げてほしいとするとどうだろう。他の二つよりは、拘束を解く理由としてしっくり来ている気はするが、それならばわざわざ刀角鹿の変異種と戦う必要はなかっただろう。あるいは、助けたけれどその後の扱いについて揉めているとすれば納得できるかもしれない。小鬼がどのような指示系統で動いているかはわからないが、人間であれば派閥のようなものがあってその衝突により、方針を決め切れていないならばこのような宙ぶらりんな対応もありうるだろう。だがそれは、普段あたしたちと話をしていたあの小鬼に、比肩する存在がこの群にいるという事だろうか。そしてその小鬼があたしたちを犯そうとしていたら、そう思うとこの状況はかなり危ないのではないか。
などなど、とにかく思考がとっちらかって正解だと思えるようなものは見えてこない。
思えばこれほど物事を考えたのは初めてかもしれない。そう思った時に、なんとなく笑えてきた。
家族に憧れを否定された時でも、小鬼たちにつかまり犯されるかもしれないと思った時でも、これほど思考に時間を使っていなかった。
ならば、それらの状況と同じで自分から動いてみたり事態が動くのを待ってみたりすれば、おのずと答えは見えてくるだろう。ひどく楽観的な考えかもしれないが、これがもともとのあたしの気質なのだろう。
ならば今は、あの小鬼のことを待とう。どちらにせよ彼が命綱を握っているようなものなのだ、ならばその彼を信じることにしよう。それがあたしの決断だった。
そして翌日、あの小鬼、ジャレスから小鬼のために協力してくれないかと申し出があり、あたしたちはそれを承諾した。